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ユリイカ 詩と批評 奈良美智の世界 (2017年8月臨時増刊号)
- 青土社
- 青土社 / 2017年7月20日発売
- 本 / 本
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アーティスト・奈良美智さんの特集。作品のカラー写真はいわずもがな、奈良さんとの対談やインタビュー、寄稿、論評、そして奈良さん本人による紀行文や半生記まであります。全255ページたっぷり楽しめます。
奈良さんの絵の有名な特徴といえば、前髪が短くぱっつんで目つきのきつい小さな女の子がちょっと小生意気なポーズをとっているものがまず浮かびます。それでもってロックな感じがする。
美術畑の話を僕はまったく触れてきていないから面白さ満点でした。たとえばこういう話なんかもあります。古代ローマの博物学者・大プリニウスによると、絵画の起源とは恋人との別れを惜しんだ少女が壁に映った恋人の影をなぞった行為に始まるとされている。その歴史的信憑性より、肖像というものに愛する者の不在を嘆き、その代わりを求めて影をなぞる精神性が始点となっているのが興味深いところなのだと。採録された加藤磨珠枝さんの奈良美智展覧会での講演より。
では、引用をしていきます。
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古川日出男:でも、そういう危険がないと、物って作れないですよね。やっぱり僕も自分でM的な環境にいたいのは、やれないことをやろうとか、もう潰れるところに行こうとか、そうしないと何かが終わっちゃうような設定にしないと。
奈良美智:そうなんですよね。倒れるから立ち上がる。うまく言えないけど、立ち上がるということが自分の中ですごい大切で。
古川:立ってると倒れない、立ち上がれないってことですよね。
奈良:立ち上がるとき使う筋肉というのが、自分が一番好きな筋肉なんです。歩く筋肉よりより、立ち上がるときの筋肉。歩いているときもいろんなことを考えられるんだけど、それよりも立ち上がるときの一瞬の、頭の中では何も考えない状態。その何も考えない状態に入ってくるひらめきが自分が求めていることに近くて、考え続けて答えを出すよりも、本当の自分の考えというのは何もないとき、寝てるときの夢の中とか、ふとしたときにやってくるんじゃんないかな。年をとったから確実にそう思えるようになってきた。若いときは単なるひらめきでしかなくて、よく考えると、いや、これは俺の考えじゃないわ、とか。
でも、今ひらめくことは割と全部つながることなので、それが立ちあがるときに来ると「しめたな」と思うし、立ちあがるときにそれが落ちてこなかったら、もう一回転ぶ。転んだら来るかなとかさ。
古川:でも、その転ぼうという選択肢を持つのは、普通はなかなかできないですよね。自分が仕事してても、やっぱり転ばなくていい、寝てなくていいところに行きたいから、立ったら絶対もう二度と転びたくないとみんな思ってる。転ばされたら、もうやめようみたいな。(p61)
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→小説家である古川日出男さんとの対談部分より。転んで立ち上がるとき、落ちて這い上がるとき、そういったときの人間の、わーっと自身を奮い立たせる力であるとか、自分の全能力を立ちあがるために四苦八苦して使うことであるとか、そういったところにあるものが、創作するものに命を宿すようなところがあるんだと思うんですよ、僕も。転んで、立たなかったら終わりですから、もう尻に火がついているようなときもある。そういったときに「まだまだ!」と立ち上がろうとするときのエネルギーや頭をしっかりつかった工夫ってものが、やっぱり、人間がやるすごい仕事として出てくる感じはします。僕の場合だと、ギャンブルに負けたときにぐっと腹が据わりますね……。
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古川:これはやっぱり小説の書き方だと思います。俺がこの世界をつくってるんだと思って書いてる間はまだまだなんです。そのうち、本当にこの原稿の中に世界があって、俺がちゃんと書けてるかどうか、...
2025年3月23日
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教育格差 階層・地域・学歴 (ちくま新書)
- 松岡亮二
- 筑摩書房 / 2019年7月4日発売
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裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。>
教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。
個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。
教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。
これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。
人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。
学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。
では、引用していきます。
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制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70)
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→父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。
上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。
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ここでいう「質」とは人間と...
2025年3月13日
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クイック・ジャパン 齋藤飛鳥 (vol.175)
- 太田出版
- 太田出版 / 2024年12月11日発売
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齋藤飛鳥さんの特集。ご自身へのインタビュー二本と、関係者10人へのインタビュー、そしてアート性のあるフォト、トータル90ページといった構成だった。
乃木坂46卒業公演から約1年半が経つころの企画。齋藤飛鳥さんは、今、何を考えているのか。使い古された言葉だけれど、彼女の「現在地」をフレームに収めようという努力の企画である。もちろん、フレームに収まりきるはずがないし、フレームに向けてさらけだすタイプでもない。
共感を抱くような考え方がしばしばでてくる。これはちょっとうれしい。でもそれは、僕が大好きな乃木坂46、そして気になり続けた齋藤飛鳥さんから、意識的にも無意識的にもさまざまな影響をたくさん受けた結果、僕のほうが似たということなのかもしれない。別々の者たちが、ふたを開けたらいろいろと偶然に似ていたというよりも、知らずに彼女たち乃木坂46の、そして齋藤飛鳥さんの考え方や感じ方へと僕のそれらが寄っていったのだろう。
齋藤飛鳥さんは、「乃木坂46の齋藤飛鳥」にしても、乃木坂46卒業後の「芸能人、齋藤飛鳥」にしても、それらを小説のように書き続けているのかもしれない。秘密に手に入れた魔法のペンで書いているので、書いたことが実現する。そういうペンで書かれた小説なのかもしれない。いったいいつから、そういう形の「作家」になっていたのだろう。そのきっかけも知りたいし、どうやって書く才能を養っていたのかにも、渇いた興味が前のめりになる。誰にも気づかれないように、トライ&エラーを重ねて独自の作家性を構築していったのかもしれない。それもまた、彼女の謎の部分だ。さまざまな謎は、謎であると同時に僕らをとらえて引き寄せる。深い魅力は引力としての働きを持っていることを知ることになる。
齋藤飛鳥さんを好きならば、彼女に執着してはいけない。彼女との距離をまず探り、許される距離感を勘をふり絞って働かせて把握するのが彼女へのマナーであるような気がした。
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自分でもきれい事って思うようなことも、ここ数年でまっすぐ受け取れるようになったというか。「きれい事でもいいじゃん」と思えるようになりました。丸くなったと言われれば、それまでなんですけど。(中略)でも卒業した今は、生き方や仕事のひとつ取っても自分で選択するしかない。自分がどうなりたいかを考えないと生きていけない。だから今までよりも幸せについて考えるようになって、自分だけの豊かさを追求することが幸せな人生っていうわけじゃないよな、というところにたどり着いたのかもしれないです。(p32)
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→こういう地点に今はいるんですね。それは未来から振り返れば「通過点だった」と懐かしむようになることなのかもしれないし、あるいは「芽が出たばかりの頃」であってのちに葉を広く伸ばし鮮やかに花が開くことになるのかもしれないそのはじめの記録である可能性もあります。まあでも、とくにこういった記録に縛られることもないでしょうけれども、なんとなく、これは乃木坂でいたことが彼女の背中をつよくひと押ししたんじゃないだろうか、っていう想像もできてしまいました。「きれい事でもいいじゃん」がロックな時代ですよ、現代は。僕からいえば、こんな方を好きでいられるのはうれしいというか、誇らしさまで感じちゃったりで。最初の一歩、乃木坂のオーディションを受けてくれてそこからはじまったわけでして、もうね、ありがとう、ですよ。
2025年3月11日
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こぼれ落ちて季節は (講談社文庫)
- 加藤千恵
- 講談社 / 2017年2月15日発売
- 本 / 電子書籍
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いろいろな人たち、とくに学生など若い人たちが多くでてきます。本作は恋愛を扱う連作短編なのですが、そのなかで主人公を担っているひとたち、相手役の人たち、脇役の人たち、それぞれが、外向的だったり内向的だったり、興味の方向も恋愛観も、積極性の強い弱いも違うことがしっかり書き分けられている。ほんとうにいろいろな人が描けているので、小説世界が閉じていないです。だから、フィクションではあっても、誰かの(つまり著者の)独り舞台のような空想劇という感じは僕にはほとんど感じられなくて、好ましく、そして心地よく思えた作品でした、ときに屈折した心理を見せる人物がでてきてもです。読み心地の重さ、軽さといった重量感にしてみても、読み手として負担の少ないちょうどよい好感触でした。
最初の短編から、男女の関係のとき、女性側が「触れられてさまざまな境目がわからなくなっていく自分と、」(「友だちのふり」p16)と体感している最中の言語化と感性がいいなと思いました。普段は他人との間にしっかりした境界があるものですからねえ。そういったところに注目し意識するのか、と。
主人公がそれぞれの話にそれぞれの人たちがでてくる中で、脇役として別の話にまたがってでてくる者もいました。その脇役の男がある話の中で浮気をしていて、別の話で浮気がバレて修羅場を迎えているのですけど、おっかしくて仕方なかったです。だけど、ちょっと読み進めるとわかるのだけど、出合い頭でおっかしさを感じたりしたけれども、笑い話というわけではないんだよな、とすぐに身を正すことになりました。脇役の彼の人生もまた連作短編の物語のカギになっているんです。というか、身を正すなんて言い方をするとかしこまっているようでまたそれはそれで違って、個人的な笑いという逸脱から物語という本筋の道に戻って踏みしめて歩くように、つまりそのとおりを味わうように正対する感覚なのでした。まあ、それはそれとして。
では、引用をしながらになります。
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(略)ゆきは中学時代、イジメに遭っていたらしい。友だちとケンカしたのがきっかけらしい。きっと友だちが力のある子だったのだろう。
腕力ということじゃなくて、力の差は絶対にある。わたしは幼いころからそれを意識していた。クラスの中で、誰が強く、誰が弱いのか。もしもトラブルが起きそうになったら、どう立ち回り、誰を味方につけるのが得なのか。
わたしだって、いつもうまくやってきたわけじゃないけど、それほど大きな問題は起こしてこなかった。多分、ゆきはわからないのだろう。笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせることの重要さについて。(「逆さのハーミット」p87-88)
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→この短編の主人公である姉のあさひが、不登校になった妹のゆきについて述べている箇所です。ここを読んでみても、あさひが、うまく友人関係を乗り切る能力に優れているタイプなのがわかります。とくに大きな傷を負うことはなく、紙一重のケースはあったかもしれなくても危険をうまく回避して、学生時代を終えていくような人ではないか、と感じられました。
で、この引用部分ですが、僕には二重に身に染みてわかるんです。小学生から中学生の終わりくらいまでは、僕は「笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせ」られるほうでした、周囲に。かなりふざけたことやバカみたいなことを言ったりやったりして、友だちたちを笑わせることが好きだったのだけど、それは相手側からすると、気を遣って「いい反応」を見せてくれていたところはけっこうあったんだろうなあ、と今になるとわかってきます。で、中学の終わりころから、スクールカーストみたいなものが嫌になり、逸脱あるいは転落をするのですが、そうす...
2025年3月5日
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蛇の神 蛇信仰とその源泉 (角川ソフィア文庫)
- 小島瓔禮
- KADOKAWA / 2024年11月25日発売
- 本 / 本
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古より蛇は、「正・邪」「善・悪」「敵・味方」など、相反する性質をもたされた揺らぎのある存在とみなされてきたそうです。矛盾が同居させられていて、同じ神話や言い伝えのなかでもケースバイケースでどちらかに転んだ行動を取らされていたり、物語の性質によってどちらかの側に立たされていたりする生きものでした。また、インドの神話では、蛇は宇宙蛇としてこの世界を根本から支える存在とされていますし、北欧神話でもミズガルズ蛇が大地の中心を担い、世界の軸としての役目を持つような神様だったりします。本書は、そんな「蛇」への人類の精神史といいますか、人間は蛇になにを感じ、またなにを見てきたかを、古文書や伝承などから読み取り考察したものを教えてくれます。
蛇の神って伝統的にけっこうポピュラーな存在だったようです。あの金毘羅神も蛇の神だったと本書で知りました。女の神が蛇の神とまぐわい子をもうけたりする神話が珍しくないみたいにいくつか類例が記されているのですが、これ、言ったら、男根の形状が蛇っぽいから連想してそうなったのではないのか……。
おもしろかったトピックをひとつ。神無月という呼び名のある10月は日本全国の神様が出雲に集まるためそう呼ばれます。だけれど、東京都府中市周辺の地域に君臨する神様である大國魂神社の神様は蛇体なので神無月に出雲へ行きません。かつて、のろのろ這っていったため遅れてしまい、もう来なくてよい、といわれたと伝わるそう。好いゆるさのある神様界隈ではないですか。ちなみに、ここで例に出した神様以外でも全国各地に蛇体の神様がいて、みな神無月になっても自分の土地を離れないそうです。
あとは、虹は大きな蛇だとみなす伝統が世界中にあること(日本では蛇の吹く霊気だとするものもある)や、土地の神様とはおそらく別の「蛇神」の話、蛇を呼んだり追い払ったりする法術の話(追い払う呪文には「山立姫」という言葉が見られ、これはイノシシの意味だそう。イノシシはマムシを食べるとされるため呪文に使われる)、中国の白蛇伝説などさまざまな伝承をみていくようなところの多い内容でした。
小説家・安部公房は、蛇は非日常の存在だと捉えていたそう(p31)。それは手足がない胴体だけの生きものという、当然あるべきものの欠如からくる嫌悪感がベースになっているのですが、あるべきもののない者の日常を想像することはむずかしい、すなわち日常性の欠如、言い換えれば非日常の存在という図式になるのだとありました。本書では、蛇は人間にとって混沌、カオスを意味するとしています。
では、ふたつほど引用を。
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虹を指さしてはいけないという伝えが、日本の各地にある。長野県埴科郡でも、虹を指さすと指がくさるという。鹿児島県でも、虹を人さし指でさすと手がくさるという。琉球諸島では、沖縄群島の久高島で、虹をシー・キラー、ティー・キラーという。「手を切るもの」という意味である。虹は神であるから、これを指させば失礼に当たり、指さした指の先から、だんだんにくさってきて、手が切れてしまうという。(p84)
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→虹の話でしたが、虹と同一視される場合の多い蛇にも、同じことが当てはまるとあります。東京あたりでも、蛇を指さすと指がくさるといい、両手で蛇の長さを示したときには、ほかの人に、そのあいだを切ってもらう、というのがあったそう。指さしは禁忌とする宗教的な要因がなにか存在しているのだろう、と著者は見ています。
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蛇の腹をつつくと雨が降るという伝えのある土地もある。(p97)
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→蛇はしばしば水の神とされるのだそう。稲田が気がかりな農民にとっては、田畑にでてくる蛇の挙動に関心があったのだろう、ともあります。また、ヘビは雷の象徴で、水を支配する...
2025年2月25日
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TRIANGLE magazine 03 乃木坂46 遠藤さくら cover
- 乃木坂46
- 講談社 / 2024年10月29日発売
- 本 / 本
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先陣を切るのは、3期生・与田祐希さん。
沖縄での撮影でした。乃木坂に入ったときからのかわいさは色褪せないまま、瞳の輝きや表情に、大人になったこと、精神年齢をきちんと重ねてきたことがうかがえます。ずっとそういう香りがしていた「野生児感」というか「奔放な感じ」というか、そういったものも大人になっていくなかでどうやら昇華され、彼女の中で女の子感とともに統一されたような印象があります。彼女自身の中で収まりがついたような感じといったらいいでしょうか。先輩に可愛がられ、自分が先輩になると「先輩にしてもらったように」優しく後輩の悩みを聴いてあげたりするようで、面倒見の良さのある人でもあるようです。中学生の頃にはちょっとした嫌がらせを受けたりもしてた時期があるらしく、そういう経験も今の彼女と地続きだからこその振る舞いや考え方なのかもしれないです。
続いて、4期生・遠藤さくらさん。
すらりとスタイルが良い人。優し気な笑顔が、優しさのその一方で、鋭くこちらのハートをつついてくるような美しさも兼ね備えています。乃木坂加入時からしばらく、弱々しくて自己主張しないような印象がありましたし、けっこう彼女は泣いてしまいがちだと諸先輩方が折にふれて発現していたりしました。でも、いまの遠藤さくらさんは当時よりも自分をしっかりお持ちだし、自分の頭でしっかり物事を考えているんだなあ、と様々な発言から感じられるような人になっています。本書のインタビューで、何年か前の自分には自信がなかった、とありますし、今もそういうところはお持ちなのでしょうけれども、自分の弱い所からなにから丸ごと、「自分はそういう存在なんだから」と肯定できるようになったんじゃないかな、という推測をしています。遠藤さくらさんは、彼女ならではのやわらかくて心地よい空気感を、写真越しにもこちらへもたらしてくれる稀有な方ですけれども、なんだかそういうやわらかな表情が、きっと自分自身を受け止めて受け入れたんだろうな、というふうな思いをこちらに抱かせるのでした。シンプルに言っちゃいますが、とっても魅力的な方です。それでもって、自身のプライベートな領域は、他者から不可侵なまま保つタイプ。そこには入り込ませないし、明かさない。こっちからすると「謎」なのですが、そういうところがまたいいじゃないですか、距離感的にも。
本写真集を締めるのは、5期生・小川彩さん。
制服姿など、ハイティーンの健康的な日常といった写真たち。17歳の小川彩さんは、まだあどけない女の子感があります。「理想の娘」みたいな、健全な家庭の娘役としてうってつけみたいな印象があります。でも、きゃぴきゃぴしていたり、ぶっとんでいたりというよりは、現実に足がついているタイプだと思います。乃木坂のテレビ番組を見ていても、物事を自分なりの角度で落ち着いてしっかり眺めていて、きちんと咀嚼した上で感じたことや考えたことを自分の言葉と方法で構築して伝えてくれます。かわいくてダンスが得意でドラムを叩けてさらに、考え方や論理や感性がかなりしっかりした17歳だとお見受けしています。だからこそ、ひとりの女の子として、というか、ひとりの人としての魅力が強いのでしょう。
乃木坂の魅力のひとつの側面として、彼女たちが自分の足でしっかり歩いているところがあります。大勢の前で自分の言葉を用いて考えを述べるみたいなこともきちんと出来て、僕なんかは「ほんとにすごいなあ」と驚きます。トレーニングをしっかり積んだ歌やダンスのパフォーマンスは見事だし、バラエティ番組でちょっととぼけたことを言ったりやったりして笑いを取っていても、実際おもしろいんだけど、それはまたほんの一面だもんね、っていう認識で彼女たちを見ていたりします。まあ、バラエティ番組自体、イリュージョンみたいなものだと思うのだけれ...
2025年2月19日
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13歳からの法学部入門 (幻冬舎新書)
- 荘司雅彦
- 幻冬舎 / 2010年5月26日発売
- 本 / 本
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著者は弁護士。
法律はなぜあるのだろう、なぜ必要なのだろう、という初歩的で根源的な疑問から考えていく本です。前半では、正義、国家、自由、権利などを考えていくことで、法律の概念がくっきりとしてくるつくりです。後半では、法律の文章の読み方など、具体的な面を教えてくれます。「13歳から」とタイトルにありますが、初学者、あるいは、ちょっと興味を持った人に対しての間口が広いという意味で、万人におすすめできます。それでいて、法律周辺の深みに触れることができるでしょう。。
中世ヨーロッパの思想家であるホッブス、ロック、ルソーがそろって国家は必要と説いたこと、そして産業革命以降の市場と資本主義の経済、法律が自己増殖するさまなどがまず第一章で語られていました。授業で13歳に語り掛けるように、わかりやすく、深いりはせず、浅く広く。こういった専門的な知識が、触れやすい形で言葉になっているのは、ちょっと面食らうところはあるかもしれませんが、慣れればありがたみすら感じるかもしれません。
その法律を知らなくても、違反したら罰せられるのが法律ってものですからね。それは常識、当たり前の事なのだけれど、実際、知らない法律だらけだったりしますよねえ。
では、いくつか引用をしていきます。
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「基本的人権」とは個人の生命・身体・財産が国家によって侵害されないという自由権、国政に参加する参政権、最低限度の生活を営めるよう国家に請求できる生存権が中心となっている。そして基本的人権の中心になるのが「自由権」なんだ。(p116)
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→義務教育で教えてもらうことの確認のようなところです。実社会ではけっこうないがしろにされている権利だと思うので、こうして確認してみると基本に立ち帰るような気持ちになりました。
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この基本的人権というのが、決して「棚ぼた的」に与えられたものじゃない。
君だけじゃなくぼくも、生まれたときから日本国憲法によって基本的人権が認められていたからピンとこないかもしれないけど、先に書いたように基本的人権は「人類の多年にわたる努力によって勝ち得たもの」であって、ぼくたちにはそれを「保持するだけでなく将来的に発展させていかなければならない」という責務がある。(p117)
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→人権が、ある程度担保された世の中に生まれ育ったことで、人権という権利を守らないといけないこと、発展させていかなければいけないこと、そして、それを先人たちが勝ち得てきたことが頭に浮かびにくいということはあるでしょう(僕自身、20代の終わりくらいまでほとんど考えてこなかったと思います)。平和ボケという言葉がありますが、それに近い状態になってしまう。満ち足りた環境に甘やかされてダメになってしまう、というわけで。これはよく陥いりがちな落とし穴です。人権が大切だと気がついていても、その言葉の表層しかわかっていない状態を含めば、ほんとうに多くの人がハマッてしまっているのではないか。もちろん、僕もそうなのですが。
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何かを選ぶとき、全部を自分で決めなければならないという状況は、人間にとって実はかなりのストレスになることなんだ。
だって、選んだ後、「自分の選択はこれで正しかったんだろうか?」「別のものを選んだ方がよかったんじゃないかな?」という気持ちは、だれにでも必ず湧いてくるからね。
何か選ぶということは、そういう気持ちを断ち切って、自分の選択に責任を持つということだ。(p123)
自由の重みと孤独に耐えられなくなったとき、人間はどんな行動をとるのか。それを研究したのが二〇世紀の精神分析学者、エーリッヒ・フロム...
2025年2月14日
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明るい夜に出かけて (新潮文庫)
- 佐藤多佳子
- 新潮社 / 2019年4月26日発売
- 本 / 本
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山本周五郎賞受賞作品です。
接触恐怖症でいわゆるコミュ障の二十歳の男性。彼が、主人公の富山(とみやま)で、とあるトラブルのために東京の大学を休学していて、実家も東京なのだけれど神奈川県の金沢八景に木造アパートの一室を借りている。
富山はコンビニで深夜バイトとして働き、趣味は深夜ラジオを聴くこと。そのなかでも、アルコ&ピースのオールナイトニッポンにハマっている。トラブルの影響でやめていたハガキ職人も、ラジオネームを新しくし、細々と再開もしている。
そんな彼と、同じコンビニで深夜バイトをする年上の歌い手・鹿沢や、奇しくも出合うことになったアルコ&ピースのANNヘビーリスナーで実力派ハガキ職人の女子高生・佐古田、そして、富山と高校時代の同級生で、この地の居住先を紹介してくれた永川の四人が駆け抜けるドラマが、本小説です。ラジオ番組の解説部分に熱が入っていて、著者はかなりのラジオ好きなんだろうな、と圧され気味になるところもありましたが、おもしろかったです。
エンタメ小説の見本になるようなしっかりとした出来映えだと思いました。そのしっかりさ加減を表に匂わせないような黒子としての仕事ぶりがされていて、探りに探るような読みをすると「たぶん、こうだからこうなんだよな」というように、痕跡から論理的に辿っていけるというようになんとなくわかるのですが、これも、本書の内容に夢中になることでわからなくもなっていってしまいました。
さきほど名前を出しましたが、佐古田というおもしろい女子高生が第二章から登場します。作中、サイコなんて呼ばれ方もしてるのだけれど、キャラクターのアクが強くて、それでいて嫌われることなく読み手に好まれそうなんです、僕もすぐに好きになったキャラでした。そして、こういったキャラの登場で、また一段深く、物語に引き込まれます。どういうキャラをどのタイミングで登場させて、何を担わせるか。物語がうまくいったのは構成の段階での仕事が生きているということなのでしょう。
「明るい夜に出かけて」という、本書のタイトルになっている言葉は、二重にも三重にも意味を成すようになっています。物語内での具体的な部分はさておき、次のような解釈も可能だろうと思いますので、ちょっと書いていきます。
主人公の人生に夜がやってきている。人間関係のトラブルのためメンタルに傷を負い、大学を休学して人生のエアポケットにはまったみたいな状態が「夜」にあたる。そして主人公は、コンビニの深夜バイトをやっている。人生の夜を暗喩するかのような深夜バイト。でも、主人公をとりまく仲間たちが思いがけず彼の人生の「夜」を明るくしてくれてもいるし、主人公を含めた仲間たちそれぞれがそれぞれの夜を明るくしてもいる。自身の内にこもっていただけで終わるはずだった休学期間が、仲間たちとともに外へと開いて、でかけていくようになる。
では、引用をいくつか。
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思ったほどひどくなかったけど、思った以上に気持ち悪かった。俺、カラオケに連れていかれても、人の歌聴いてると、けっこう気持ち悪くなる。うまい、へた関係なく。歌唱ってさ、なんか、そいつの中味、出るよな。(p157)
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→素人が歌うのを聞いて、たしかに、その人自身が出るなあとは僕も思っていましたけど、「中味がでる」という言い方の言い得ている感じがとても気に入りました。それに、そういった他者の「中味」に食あたりするかのように、「けっこう気持ち悪くなる」というところに、この主人公の「浮ついて無さ(≒ノリの悪さ)」が感じ取れます。主人公はラジオにネタを投稿するハガキ職人として名うてだった過去がありますが、感性で感じ取ったものを他者に先駆けて言語化する人ならではの情動だと思...
2025年2月9日
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ヘビ学 毒・鱗・脱皮・動きの秘密 (小学館新書)
- ジャパン・スネークセンター
- 小学館 / 2024年12月2日発売
- 本 / 本
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全世界で約4100種を数えるヘビの生態のあれこれを解説し、さらに全体の2割程度を占める毒ヘビのその毒の種類などについて深掘りし、それからヘビにまつわる事件(違法飼育事件、脱走事件、咬傷事件など)を紹介し、最後に神話や伝承などから人類がヘビに何を見てきたかを辿っていく構成です。
著者名義の「ジャパン・スネークセンター」は群馬県にある蛇専門の動物園で、一般財団法人「日本蛇族学術研究所(蛇研)」が運営しているそうです。執筆には、研究者四名があたっていました。
本書で得られる知識の一端を箇条書き的に少しだけご紹介します。
ヘビには聴覚がない。道にヘビがいてどいてくれないときに、大声で「どいてー!!」などと怒鳴ったり叫んだりしても、ヘビには聞こえないので無意味。
アオダイショウは50mほどもある鉄塔にもするするのぼっていき、高圧電線と接触してたびたび停電を起こしもするそう。どうして高いところにのぼっていくのかははっきりとはわかっていないとか。僕は北海道の田舎に住んでいますけれども、一年に数回は短い停電があります。これってもしかするとアオダイショウによるものもあるのかもしれないなあと思いました。
昨今はペットとして買われるヘビですが「なつく」ことはなく「なれる」だけ。蛇にとって生物に対する思考の選択肢は三つしかなく、「餌かどうか(食えるかどうか)」「敵かどうか」「繁殖の対象かどうか」だそう。そしてどれにも当てはまらないと判断したものには無関心になります。ただ、実際は、人間に接したときは敵かどうかの判断になるでしょうから、そこには恐れや怯えが生まれます。でも、攻撃されない、敵視されていないとわかると、ヘビの感覚はどんどん鈍麻していき、人間になれていく。そうする触ることができますが、犬のようになつくことはないのだそう。
ヘビ毒は大きく三つのグループに分けられる。「出血毒」「神経毒」「カルディオトキシン(心臓毒・循環障害毒)」がそれです。ハブやマムシは「出血毒」系で、この毒が回ると消化器官で出血が起きたり、筋肉や皮下で出血が起きたりする。コブラ科の毒ヘビは「神経毒」系で、毒が回ると呼吸ができなくなり、病院に搬送されて人工呼吸器につながれるケースがいろいろと紹介されていました。また、ブラックマンバというアフリカの毒蛇は、咬んだ相手の体内の神経伝達物質を大量に放出させる毒を送り込み、そのため、相手は神経伝達物質がすぐに枯渇し、麻痺状態になるんだそうです。ナショナルジオグラフィックのテレビ番組で、ブラックマンバに咬まれたライオンがけいれんを起こしているシーンがあったとありました。他、日本にいるヤマカガシは血液凝固作用を起こす毒をもっていて、メカニズムはよく飲み込めませんでしたが、出血が止まらなくなるそうです。
ヘビの抗毒素(血清)は、2000年ころではマムシが1万7000円で、ハブが3万8000円だったそうですが、近年値上がりしていて、現在ではそれぞれ9万円、24万円という高値だそう。医療保険適用になりますが、一般の3割負担だとしてもかなりの額面になります。しかも、ハブでは1~3本程度使っての治療となるので、そら恐ろしいですね。
ヘビの人的被害について。種々のヘビについて個別の節で解説してくれていますが、かの有名なキングコブラにはかなり人間がやられているのかと思いきや、人里離れた区域に生息しているため、主な被害者はヘビ使いだそう。繰り返しますが、主な被害者はヘビ使い。
最後の章では、神話などからヘビと人類の関係を考えていますが、インドの世界観ではヘビは世界を一番下から支えてるイメージがあるんですね。ヘビは宇宙に相当し、そのうえにでっかい亀がのっかり、その亀のうえに亀ほどではないですがでっかい象が何頭か乗って、その象が世界を乗っけている。この図は、検...
2025年2月4日
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チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学
- 小川さやか
- 春秋社 / 2019年7月24日発売
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香港にある安宿、チョンキンマンション。そこには貧困国タンザニアからやってきた多くの人たちなど、多国籍の人びとが住まっている。それぞれが、さまざまに、インフォーマルな仕事をしながら。ブローカー業、衣料や雑貨や家具そして家電製品などを仕入れて母国で売る商人、セックスワーカー、地下銀行業者など。そして明記はされていないけれども、麻薬の販売や窃盗、詐欺などをしている者も少なくはないはず。
そんなチョンキンマンションの「ボス」を自称するタンザニア人のアラフィフ男性・カラマが、論考的エッセイである本書の最重要人物として登場します。著者は偶然にも彼と出会い、それから友好関係ができあがっていき、そのうち彼の連れのようになり、ともに日常を送っていくことで見えてくるものがあったようです(著者は経済人類学者なので、「見えてくる」ことを最初から企図して彼に帯同しているのでしょうが)。見えてくるものとは、商売目的で香港に(長期にしても短期にしても)滞在しているタンザニア人たちの商売の成り立ち方、そしてコミュニティのメカニズムなのでした。そこには、西洋化した資本主義社会から見れば独特の仕組みが息づいており、彼らは香港の商業文化や制度、法律などを受けるかたちで衝突や摘発から逃れるために知恵を使い自らの態度を変化させ、うまく適応したかたちで自然と独自の仕組みが発現してきた、と言えるところがあります。
また、香港で商売をするタンザニア人たちのやり方は、昨今の、Airbnbやサブスクなどのシェアリング経済と仲間内での「分配」という意味合いでの類似性も見出されていましたが、タンザニア人たちの「分配」には分配する者とされる者の間に生じる権威や負い目を回避しながらも「お互いがともにある」と思い合えるマインドがありました。言ってしまうと興ざめですが、約束をいちいち守らなかったり、いい加減さが緩衝材の役目をしたり距離を保ったりしています。
他に、Amazonや食べログなどがイメージしやすいと思いますが、利用者が出品者や飲食店に星をつけて、かれら事業主の信用度を評価するという評価経済型システムが有する「排除の問題」を回避する仕組みがあることも指摘されていました。星が低いと信用度が低いので淘汰されていく、というのが排除の仕組みで、評価経済は行き過ぎるくらいに責任感や気遣いを強いる傾向があります。これは、評価経済に参加している社会全体でおしなべて強迫観念が強化されることを意味するでしょう。タンザニア人たちは、仲間への親切や喜びや遊びを仕事にするというマインドがまずありまず。それでいて「誰も信頼できないし、状況によっては誰でも信頼できる」という集まりなので、一度裏切りがあったとしても、状況が変わればその人の立ち位置は変わりもするので、信じてみることを選択するほうが得策ということにもなり得るのです。これは、強迫観念的な「是か非か」「0か1か」「白か黒か」といった二分思考の枠外にある思考法ではないでしょうか。二分思考は強迫観念をあおるので、やっぱり生きやすさを考えれば、二分思考ではないほうがよいのでした。
読み進めていけば、これは本書の背骨に当たる箇所だなと思える部分はなんとか判別がつき、その尻尾はつかめるのですが、タンザニア人たちの生き方が、あまりに日本人に内面化しているあれこれを刺激したり、俎上にあげたりするものですから、頭も気持ちもぐらぐらぐにゃぐにゃしながらになりました。それでも、海外に滞在してみないと、そういったギャップやショックを受けることはまずないですから、家にいながらそういった経験が少しでもできるのはよい経験です。
また、香港でセックスワーカーとして稼いだタンザニア人女性が帰国して、そのお金を元手に化粧品会社を立ち上げ、母国では誰でも知っている大成功者になっているそうです。...
2025年1月31日
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故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫)
- 魯迅
- 光文社 / 2009年4月9日発売
- 本 / 本
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20世紀初頭、清王朝から中華民国、中華人民共和国へと激しく移り変わっていく時代に、文芸による革命を信条に創作をつづけた魯迅の新訳作品集。魯迅は若い頃、日本へ留学して東京や仙台で7年余り暮らし、漱石や芥川の影響を受けた人です。
最初の短編「孔乙己(コンイーツー)」から心をぎゅっとつかまれました。「孔乙己」は馬鹿にされ舐められきってしまった、貧しい男です。科挙に受かるほどではないのだけど学はあるほう。彼に焦点を当てる意味とはいったい、と考えながら読んでいました。彼がひとときの楽しみのために通う酒屋、そして日々の暮らしのなかで、彼の周囲にいるあまり学のない庶民との対比、そして苦しい境遇に食い殺されて盗みを働きそれをあかるみにだされ、揶揄われ蔑まれる「孔乙己」。
読者は何を問いかけられているのか。こういった暮らしの苦しさや悲劇、愚かさを文学にすることで、この表現が、孔乙己と彼的な人物を馬鹿にしてしまうに違いないおのれの気持ちを、見直せるチャンスとして機能するのだろうと思えました。社会の倫理的欠陥をあぶりだして問いかけている、と。ですが、それだけを考えていくと、文学的目論見として少々あざとい感じがしてしまうのです。もっとこの短編の細部に注目して、とくにその愚かさの心理のメカニズムを読み手自身の内部からえぐりだすようにして考えてみたり、どうして孔乙己という男が社会的弱者にならねばならなかったのか、と社会学的に社会構造や世間の空気などを考えてみたりと、そういった読みを試みることにまた違った意義がありそうに思えるのです。つまり、短い小説ながら、引き出せる知見に満ちているに違いない匂いがするのでした。
次に、短編「故郷」。これは、故郷の実家を引き払うために帰郷する主人公の話です。その最後に書かれている彼の希望の感覚を知ると、希望を持つことに対しても油断をしていないし、希望と夢といったものとは違う捉え方をしているし、そこが中国人なのかもしれないという気づきがありました。去年、華僑の本を読んでうっすら残る現実主義のイメージとも重なるのです。生き延びるため、サバイブのための、長い歴史に磨かれた本性、あるいは民族性を見た気がします。
「故郷」も「孔乙己」や「阿Q正伝」のように、底辺で生活する社会的弱者が描かれています。引用をします。
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「とてもやっていけません。六男も畑仕事が手伝えるようになりましたが、それでも食うに事欠くありさまで……物騒な世の中で……どこへ行っても金を出せというし、決まりっていうものがなくなりました……それに不作で。育てた作物を、担いで売りに行けば何度も税金を取られるんで、赤字だし、売りに行かなきゃ、腐るだけだし……」
(中略)
閏土(ルントウ)が出て行くと、母と僕とは彼の暮らしぶりに溜息をついた――子だくさん、飢饉、重税、兵隊、盗賊、役人、地主、そのすべてが彼を苦しめ木偶人(でくのぼう)にしてしまったのだ。母が僕に言った――不要品はなるべく閏土にあげよう、彼自身に好きなように運ばせたらいい。(p64-65)
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→主人公は幼い頃にいっしょに遊びながら憧れた、同世代の子どもだった閏土。彼は使用人の子どもだったのですが、帰郷した主人公が彼との再会で、子どもの時分にはまぶしく輝いていたまるで英雄のような男の子が、そのまま英雄として大人になっておらず、煤けて輝きが失せたような人物になったことに、哀しみをや寂しいものを感じました。そののち、上記の引用のような気持ちになるのです。
この「故郷」を締めくくる最後の一文が名文です。引用します。
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僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなも...
2025年1月24日
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同期する世界 非線形科学 (集英社新書)
- 蔵本由紀
- 集英社 / 2014年5月16日発売
- 本 / 本
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「同期(シンクロ)」をキーコンセプトとして、さまざまな興味深い現象を見ていき、そして、その都度、その現象を起こしている「同期」について解説しながら、「同期」そのもののイメージを深めていくような本でした。
17世紀、オランダで活躍した科学者ホイヘンスのよって、並べたふたつの時計の振り子が同期する現象が報告されたのが、この分野の起源とされているそうです。ここからこの分野の話が開始されます。この時点で、「同相同期」と「逆相同期」が解説されているのですが、ならべた時計の振り子が同期して、同じように左右に振れているのが同相同期で、片一方が右に振れたときに他方が左に振れるのだけれどもリズムはいっしょというのが逆相同期です。
同期はさまざまな現象の仕組みに備わっていることが本書ではさまざまに紹介されていて、なるほどなあ、と膝を打つことばかりだったのですけれども、僕もひとつ思いついたのが、DVのある家庭環境で育った子どもが暴力に訴えるようになったり、自分の子どもができたときにDVをはたらいたりする世代間連鎖が同相同期なのではないか、ということでした。さらに気づいたのが、DV家庭で育った子どもが大人になって非暴力の人となっていた場合、それは非同期の可能性がありながら、逆相同期の可能性も捨てられない、ということでした。逆相同期だった場合、それは親を反面教師とした場合ですが、逆相での世代間連鎖だと言えるでしょう。
といったことを考えるとさらに気づくことがあります。世の暴力は、個人がその先代の暴力、そのまた先代の暴力、といったふうに、どんどん先祖にさかのぼって受け継いできたと考えることができて、つまりは、ずうっと昔の先祖から世代間連鎖として受け継いできてしまった負の要素だと考えられるのですが(こういったことの解説をする本『恐怖と不安の心理学』もあります)、同期を破綻させることができれば、悪しき連鎖から逃れられるのではないか、というのがその気づきです。
p37-38に同期の破綻について書かれています。それによると、同期状態にある一方が、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻する、とあるんです。
ちょっとややこしくなるかもしれませんが、ここでひとつ例を書いていきます。とある田舎の話です。田舎ですと、もっと都市部の高校に進学したほうがこの子のためになるから、なんて言い方がされるものです。カリキュラムや授業の質の違いが大きいというのはあるでしょう。できない子に合わせないといけないとかで、できる子にとっては学校で教えられるものが物足りなくなります。
同時に、知らずに周りに合わせる心理が、学力の伸びに関係がありそうでもあります。これは同期現象としてです。田舎の高校にいたままで伸びるには、同期を破綻させないとならない。さっきも書きましたが、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻するのでした。同期していた集団からは、「裏切り者」「見捨てるのか」「あいつは俺らとは違うつもりなんだ」などやっかまれたりすることがあります。それをも振り捨てて、速いペースで生きる。それができる人は非同期でいられる。能力ありきということになるのでしょうか。場によっては、孤高になりますね。
僕みたいに在宅介護をしていると、介護面では人と同期するのがほんとうだし(他者への尊厳をもって接するからです)、でも、介護をやりながら自分のしたい仕事なり勉強なりをするときには非同期でいたい、となります。その境界を作ろうにも、境界線ははっきりひけるものじゃありません。そこのつらさがあるんです。頻繁に非同期への侵犯がある。
同期には同期を保つ引力があり、それを破綻させるには速いペースで振り切らないといけません。同相同期からも逆相同期からも逃れる非同期とは...
2025年1月17日
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第5コーナー 競馬トリビア集 (競馬ポケット 2)
- 有吉正徳
- 三賢社 / 2020年9月18日発売
- 本 / 本
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競馬読み物です。記録、データ、ジンクス、血統ドラマ、人間ドラマ、競馬にまつわるおもしろい偶然。そういったもののトリビア集。
書名の『第5コーナー』とは。競馬場は第4コーナーまでしかないコース形態をしています。そんな、存在しない「第5コーナー」という架空の名称を戴いたのは、まだ誰も触れたことの無い記録やエピソードを残すことに挑戦しようと決めたからだとありました。架空ではありますが、誰も走ったことの無いコーナーに読者を誘う意味合いにも取れ、ユーモアが感じられます。
日本軽種馬協会発行の『JBBAニュース』という月刊誌に著者が2008年から書いているコラムがこの『第5コーナー』で、本書が書かれた2020年5月時点までのデータが元になっているそうです。
繁殖の観点から、やっぱりサンデーサイレンスとディープインパクトはすごいなあ、とずば抜けた実績に今でも唸ってしまいます。競走馬として日本競馬の最高傑作と名高いディープインパクトの父がサンデーサイレンスですから、この馬が輸入されたことが日本競馬会の大転換点となったことは、素人目にもよくわかるくらいです。初年度産駒が走り始めたころから、「そのうち、歴史的大種牡馬たちと同じように、サンデーサイレンス系と呼ばれる血統の系列ができる」とこれまた素人のあいだでも囁かれていたくらいです。僕も当時、囁きました。
さまざまなトリビアエピソードが競馬好きにしてみるとどれも興味深いです。「あらま、そうだったのか」と著者に取り上げられたある出来事のちょっとした裏側を今になって知ってみたりと、おもしろいです。
そのなかで、ぼんやりと知っていた話ではありましたが、しっかりここで書き記されているものをひとつ引用します。屈腱炎という競走馬にとって致命的で「不治の病」である難しいケガの話です。一般的な骨折よりも屈腱炎のほうが競争能力への打撃が大きいのですが、近年のそのあたりの話でした。
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屈腱炎の治療としては日本で初めて行う「再生医療」だった。フラムドパシオン(馬名)の胸骨から「幹細胞」を摘出する。それを培養で増殖させた後に幹部へ注入する。そうすると、幹細胞は腱細胞に変化し、炎症で失われた部分が再生される。もともと自らの体内から採取した細胞なので、拒絶反応などの副作用も抑えられる。(p81)
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→フラムドパシオン号は屈腱炎の治療後、別のアクシデントで復帰が遅れますが、約二年間のブランクを置いての復帰戦を圧勝で飾るのでした。
近年の科学の進歩が、医療のあたらしい治療として結実し、こうして、競馬を好きな人からすると身近であるところで活用されているんですね。サラブレッドにはこうやって再生医療が施されていることがはっきりわかりましたけれども、人間への再生医療って、現時点でどのようなものがどのくらいの種類あるのかも気になってくるのでした。そもそも人間にたいしての再生医療って、認可されているんでしょうか。そして、医療保険適用内なのでしょうか。
というところですが、最後に、本書に書かれている「ヘビ年のジンクス」をご紹介。ヘビ年は、三冠レースの勝ち馬がすべてばらばらになるジンクスがあるそうです。二冠馬や三冠馬はでないジンクスです。さあ2025年(ヘビ年)、このジンクスは当たりますか、どうか?
2025年1月10日
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残された者たち (集英社文庫)
- 小野正嗣
- 集英社 / 2015年5月25日発売
- 本 / 電子書籍
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五人しか住んでいない海岸沿いの集落、尻野浦。校長先生と若い女性教師、そして父、息子、娘、の一家がその居住者のすべてです。また、近くには干猿というガイコツジン(外国人)が住む集落があります。尻野浦と干猿ともども、限界集落以上に限界状態なので、もはや地図上からは消えてしまった土地だったりします。そんな土地での日常から生まれた物語でした。
まず。純文学の語り方って、過去と今の間の垣根が低かったりします。混同まではしていないけれど、峻別とはほど遠い。時間認識が、人の意識の自然な再現に近いのかもしれません。人はいろいろ考えながら頭の中で自在かつ自由に時を超えながら1日を過ごしているものですから。そういった感覚かと思います。エンタメだったら、過去と今の垣根が低くなって、読者にも気づかれず行き来するときはトリックとしてのときです。そのトリックを際立たせるためだったり、もしくは読みやすさのためだったりのために、過去と今の間の垣根は平常時には高くして峻別的な語り方をしがちでしょう。
ということに半分ほどまで読み進めたときに気づかされて、最後まで読み終えてみると、これはもっと雄大な小説的思想に基づいた作品だったのではないだろうか、となにかの尻尾がみえはじめ、頭をひねりはじめることになりました。
巻末で西加奈子さんが解説していて「そうか、そうか」とはっきり気づかされたのですけれども、三人称の語りである本作のその視点は、読んでいるうちに、主眼となっている誰かがいつの間にか切り換わっています。また、過去と現実のあいだの時間移動、リアル世界とリアルではないような世界との空間移動(世界移動)もその境界がはっきりしません。型取りをして、あるいは型を仮定して、それから世界を示す、といった方法ではなく、ただ中身を書いていくというような書き方というといいでしょうか。
どうしてそのような方法で小説を書いたのか?
僕が考えてみた答えはこうです。紙にペンで線を引っ張るようにして書いていくと、輪郭のある物語になります。それは多くの小説がそうであるようにです。現実のシーンがあり、回想のシーンがあり、夢のシーンがありというようにはっきりそれらがわかる書き方がされ、主人公を見守る視点は固定されて変わることはなくといった書き方がされるのが、輪郭のある物語だとしましょう。一方、『残された者たち』で用いられているのは、時間や空間そして視点の切り換わりのタイミングが秘密裏に行われていて、読者に明示されない書き方であり、うまくいけば輪郭を書かなくてすむ物語ができあがっていきます。そこを狙った方法だったのではないか。
輪郭を決めてしまわないことで、まるごとをその世界の中に入れることができる、とも考えられるのです。なぜならば、輪郭で区切って排除する部分がないからです。だから輪郭を書かないこの技法は、書かれていないことまでをも、「可能性」として折りたたんで存在させることができる方法でもあるといえばいいのでしょうか。そういった技法だと思いました。
ちょっと、ひとり、興に乗ってきたので、もう少し深掘りしていきます。
大げさに言うと、この小説の構造は宇宙においての星の分布に似ていると言えるかもしれません。星は密集して銀河を作っているし、その銀河も他の銀河たちと近い場所に群をなすように偏って位置しているものです。ということはそれとは逆に、星がほとんど存在していないエリアもあるわけで、宇宙とは平均的に星が位置しているものではありません。つまり、宇宙には、星が密集している宙域と、星がほとんどない宙域が存在していて、宇宙はそのような、密集と過疎でできたアンバランスな有り様をしている。
密集と過疎は、この小説の文章の配置、濃淡にも言えるのです。はじまりから40数ページくら...
2025年1月5日
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日向坂46写真集 日向撮 (VOL.01)
- 日向坂46
- False / 2021年4月27日発売
- 本 / 本
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2021年4月発刊の、日向坂46メンバーみんなによる日向坂46の写真集。気の知れた仲間同士だからこその、わちゃわちゃ感のあるショットや楽しくふざけているショット、隙を捉えたショットなどが盛りだくさんでした。
日向坂46といえばハッピーを生み出すことをモットーとしたアイドルグループですが、彼女たち自身のあたかかな楽しさに満ちた幸福感が本書のページからあふれ出してくるような写真集になっていました。眺めているだけなのに、彼女たちのエネルギーに押され気味になるくらいです。また、メンバーみなさんの個が立っていますから、どのメンバーのショットにも惹きつけられるのでした。
僕は小坂菜緒さんや山口陽世さん、加藤史帆さんや上村ひなのさんたち、名前をだしていくとどんどん出てきてしまいますけれども、まあ「推し」たいメンバーさんたちがいるわけで。でも、日向坂にぐっと注目したのはここ一年ほどですから、知らない時代の彼女たちの輝いているさまを初めて新鮮な気持ちに見られるというのが、なかなかにうれしかったりするのです。そしてそれとともに、この時代からも注目して応援したかったな、という想いも生まれてくる。もう卒業されたメンバーが何人もいらっしゃいますから、そういう意味合いもあります。
さて、そんな卒業メンバーの宮田愛萌さんがホワイトボードに上田秋成の名前を書き込んでいるショットがあって、それには只者ではない感じがすごくしましたね。上田秋成は江戸時代に『雨月物語』を書いた人ですけど、僕も興味がありながら積読なんですよ。宮田さんはたしか日向坂卒業後に小説を何冊か出されています。ちょっと気になってきます。
また、#055のショット。三期生・髙橋未来虹ちゃんをかわいく撮った上村ひなのちゃんのコメントが、「未来虹ちゃんが椅子の間から顔を出して、カメラをじっと見ていました」なのがギャップコメントで、けっこうシュールでツボにハマってしまいました。
というように、前述のようにみなさん個が立っている人たちですし、自分のペースやリズムを持ちつつ仕事をされているその楽屋やレッスンの風景が多いので、キャラの立った人間味のある写真、それも若い女子たちの活気ある写真が、僕には「とっても楽しいなあ」とずっと感じ続けながら読み終えました。
こさかなこと小坂菜緒さんが、メンバーにくっついたりする甘えん坊キャラなところがあるのがイメージとして部分的にピッタリくるところもあったり、今までよりもより彼女たちのイメージがくっきりしたような気がします。
それよか、ほっこりでした。平和な中でたのしく活気あるさまは、眺めている人にも元気をもたらすものなんですねー。
2024年12月30日
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「利他」とは何か (集英社新書)
- 伊藤亜紗
- 集英社 / 2021年3月17日発売
- 本 / 本
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東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。
「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。
そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。
それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。
では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。
では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていた...
2024年12月29日
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猫を棄てる 父親について語るとき (文春文庫)
- 村上春樹
- 文藝春秋 / 2022年11月8日発売
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村上春樹さんが、お父様が亡くなったことをきっかけに、自分の父親について、そして村上さんとの関係性について、時代背景である戦争について、実際に書きはじめてみることで考えを深めていったエッセイです。台湾出身の高妍さんが担当された表紙と挿絵は、なんだかぼんやりとした思索を静かに呼ぶような絵でした。
村上千秋さんという人が春樹さんのお父様で、京都のお寺・安養寺の次男として誕生します。安養寺の住職が村上さんの祖父ですが、もともとは農家の子だったのが、修行僧として各寺で修業を積み、秀でたところがあったらしく住職として安養寺を引き受けることになったようです。
僕は読む作家を血筋で選ぶことはないので(多くの人もそうだと思います)、作家と言えば全般的に、無から生まれた有に近いようなイメージで受け止めているところがありまして(もちろんそうではない方もいらっしゃいますが)、本書のように村上春樹さんのルーツが具体化していくと、また違った世界が開けたかのような、宙ぶらりんだと思っていたものが地面に根を張っていたことに気付かされたような現実的な感覚を覚えました。やっぱり過去ってあるんだ、という至極当たり前なことを知らしめられた驚きみたいなものでしょうか。
さて。やっぱり千秋さんは徴兵されているんです。それも3度も。戦争から生き残ることも数奇な運命を辿ってのことでしょうし、運命の気まぐれのように通常よりもずっと短い期間で除隊されることも、のちに生まれる子孫のことを考えれば、紙一重みたいな運命の揺れを感じます。春樹さん自身、次のように書いています。
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そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。手を宙にかざしてみると、向こう側が微かに透けて見えるような気がしてくるほどだ。(p107)
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自分が誕生したというその出来事は、ほんとうに偶然であって、ちょっとした加減でそれは実現していないもののような、吹けば飛ぶような「事実」であると感じられる。これは、村上春樹さんだけの話ではなく、万人がすべてそうですよね。微妙で繊細な、1mmほどの運の加減で、僕らはそれぞれ、幸か不幸かこの世界に誕生している。そういった大きな運命観を感じさせられる箇所でした。
それでは、再び引用をふたつほどして終わります。
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いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼き付けられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを――現代の用語を借りればトラウマを――息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?(p62-63)
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→ここで言われていることを家族の間でいえば、「世代間連鎖」にあたるでしょうし、歴史という大きなものにも当てはまることとしては「連続性」にあたるでしょう。これらは、ある意味でフラクタル的(全体と部分がおなじ形になる)なのだな、というイメージが上記の引用から浮かぶと思います。なんであれ、人の営み上、負の要素も正の要素も、引き継いで僕たちは生きています。たとえば「世代間連鎖」の暴力なんかは、それを止めるのがと...
2024年12月28日
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心の野球 超効率的努力のススメ (幻冬舎文庫)
- 桑田真澄
- 幻冬舎 / 2015年4月10日発売
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高校時代はPL学園で甲子園で大活躍をし、プロ野球選手になると読売ジャイアンツで長年エースとして実績を残し、最後はメジャーリーグに挑戦しパイレーツでユニホームを脱いだ野球人、桑田真澄さん。彼が2010年に出版した自らの野球哲学、ひいては人生哲学の本が文庫化されたものが本書です。彼がずっと背負い続けた背番号「18」と合致する、全18章仕立てでした。
桑田さんといえば、天賦の才能を持った選手という印象と共に、日々一歩一歩、確実に向上していく選手というイメージもある方でした。努力を積み重ねていくことを愚直に体現した人、といってまったく間違いにはならないでしょう。他方、プロとして駆け出しのころには、不動産で騙されて多くの借金を背負ったり、先発投手情報をよそに流して野球賭博関連に関与したという偽記事の被害に遭ったり、メンタル面で追いつめられた時期を過ごされている。遠征先の札幌で、自殺を考えたこともあった、と本書では述べられていて、その心理状況がそのままのかたちで説明されていたりします。
さて、そんな桑田さんですが、「努力は楽しまなければならない」と本書の始めの方でまず述べています。彼は表の努力と裏の努力の双方が大切だといいます。表の努力は技術や体力などを向上させるための選手としての努力。裏の努力はトイレ掃除や草むしりなどの仕事を人の見てないところでしっかりやる努力。裏の努力は運やツキ、縁をもたらすと経験から述べているのです。
努力は量より質だし、努力と休養を「いい加減(「not 適当」であり、「よい塩梅」という意味のほう)」でやっていくのが身になる、と。努力の質の面では、毎日短時間でもコツコツ続けていくことを桑田さんはやってきて、超合理的かつ超効率的だと自ら評価していました。
桑田さんの言う、裏の努力、徳を積むことが自分に運や縁をもたらすことは僕にもわかります。余談ではありますが、以前、財布の中に3000円しかない状態でしばらく過ごさなきゃならない時期に、募金運動中の集団を見つけたんです。そのとき自分から歩み寄って100円だったけれども募金箱に入れました。赤い羽根をくれそうになったのだけど、少額だし断って帰宅しました。そしてその後……。二週間ほどで、30万円近く手に入れていた。まあ、競馬だとかのあぶく銭ではあるのだけれど、桑田さんのいう裏の努力や徳を積むことの跳ね返りを考えると、もしかするとこれ、僕のケースにも当てはまっているのではないかなあ、と思ったのでした。
閑話休題。次のトピックに移ります。
メリハリのある生活、生活のなかにリズムを持つこと。それらを桑田真澄さんが著書で「こういうのいいんだよ?」というふうに記されているのですが、想像してみるとすごく合点がいきます。朝6時に起きると決めたならば、なにがなんでもそれを守ることも説かれていて、こういうことでメンタルが強くなるから、とあり、それも納得がいきます。僕個人の場合ですと、介護をしていて大変なのって自分のリズムを被介護者に合わせるために崩れていくことですし、「朝6時に起きる」と決めても夜中に介護しなきゃいけなくて睡眠不足に陥り、「朝6時に起きる」が守れないことが起こる。決めたことを守ることでメンタルが強くなるのと反対に、守れないことでメンタルが削れて弱くなるのかもしれなくて、少しずつ疲れていって、しんどさは増していくのです。自分で決めた規律をひとつでも守れてリズムのある部分を作ることは、メンタル保護の観点からも大切かもしれないです。
あと、驚いたのが、PL学園からスカウトがきて、進学を決めたときの話。桑田さんには他校からもわんさか誘いが来ていて、なかには、桑田さんがウチに来てくれるのならば、他の野球部員もまとめてうちに進学してもらう、というものがあったそうで...
2024年12月27日
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かがみの孤城 (下) (ポプラ文庫)
- 辻村深月
- ポプラ社 / 2021年3月5日発売
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下巻は、大きく物語が動き、「なんだ、いきなりやってきたな!」といった感のクライマックスはぐいぐい読んでしまいました。
内容にはあまり触れずに、抽象的ではありますが、以下に感想を。
「だいたいみんな、同じようなものだ」という多数派の幻想に目をくらませられがちな、「個別性」というもの。人はそれぞれ違うもの。環境も能力も違うのだから、違って当たり前です。そして、この作品に出てくる7人の中学生たちが抱える生きづらさも、それぞれが誰のものとも当たり前に違う、個別の生きづらさだったりします。それを本作はわからせてくれるところがあります。
最後、エピローグは10ページほどの分量で書かれていました。正直、エピローグ直前までは、「なるほど、そういうことだったか」という、謎解きができた知性的な脳の部分ばかりが活動してしまい、物語の整合性に気を取られるような気分でいました。しかし、それが見事だったのが、上下巻併せて700ページ以上の物語が、その10ページで驚くほど見事に終点へ着地するそのさまです。読者の昂った気持ちが、すっと、それもワンランク上の清澄な場所に昇華されておさまる感覚というか、それまでの物語の重みが闘牛のようにこちらへ走り飛んでくるなか、作者がひらりと赤いマントを翻してその勢いを削ぎ、いなしながら、読後の余韻のほうへと転化して、おさまるところへとおさめてしまうというか。ちゃんと、読者の感情面をふくらませて、納得と感動をさせて、終わらせていくのですから、作者の「物語る力量」を見た気がしました。
作者の「物語る力量」といえば、設定やプロットは練られていますし、キャラクター構築ではそのキャラクターの心理がどう形成されたのかが、納得のいく形で為されているなあと思いました。ただ、こうやって事前にきちんと裏側や細部を決めて物語を作ると、あれはこういうことだし、これはこうだし、これは作者がこう考えたのだろうな、などと、すべて理詰めでわかってしまうきらいがあります(「おそらくこうだろう」という推測も含めて「わかる」とすると、です)。これは今の時代傾向としてそういう物語が好まれているというのはあるでしょう。仕掛けたものががおさまるところにすべておさまってすっきりするということもそうです。ですが、「わからない」ということを感じさせることも大切ではありますし、これはきっと好みや気分の問題なのかもしれませんが、ちょっと、この物語がまた違う形で編まれていたら、というifをうっすらと想像せずにはいられなかったのでした。
2024年12月17日
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かがみの孤城 (上) (ポプラ文庫)
- 辻村深月
- ポプラ社 / 2021年3月5日発売
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かがみの孤城に集められた7人の中学生。彼らは5月から3月までのあいだ、鍵探しと鍵の部屋探しを課されます。鍵を見つけ、鍵の部屋を探し当てたものは、そこで願いをひとつ叶えられるというミッションです。また、7人の他にもうひとり、彼らを集めた張本人である狼面の少女が監督者として、たびたび出現しますが、年齢不相応の話し方がおもしろいです。ギャップの妙、というものがあります。
「言葉が通じない」と主人公のこころが思うところがあります。こころがひどいいじめを受けた真田さんや、担任の伊田先生に対して強く。また、様々な地区から集まった中学一年のクラスで、最初から遠慮もなく自分たちが主人公というように自己都合優先で、つまりでかい顔をして学校生活をするタイプの人たちがでてきますが、これは僕にとってもそういう人たちがいたなあ、と眠っていた記憶が甦るシーンでした。しかしよく、こういったことを言語化して、物語にできるものだなあ、と感嘆しましたねえ。
ここは下巻につながることではあるんですが、こころがいくら説明しても気持ちが通じず、「言葉が通じない」ような自己都合の強い傾向で、生きづらい人の気持ちを想像もできないような人たちを、「ああいう子はどこにでもいるし、いなく、ならないから」(下巻p170)と断じるセリフがあります。これには僕なんかはいい歳をしていながらも、身が引き締まる思いで読んでいました。
あと、登校せず勉強もせず外出もせずひきこもっている主人公・こころが「怠け病」だと思われることを嫌がり、恐れているシーンにいくつか出くわすんです。「怠け病」というのは、そういうレッテルを貼りやすい人がいるんですよね。「怠け病」に見える人には、だいたいにおいて事情があると僕は思うほう。
上巻は5月から12月まで。7人が、お互いを知っていき、絆が深まっていきます。
2024年12月17日
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恐怖と不安の心理学 (ニュートン新書)
- フランク・ファランダ
- ニュートンプレス / 2022年4月18日発売
- 本 / 本
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著者はニューヨークで開業している心理療法士です。セラピー現場での経験と、学んできた知識とがうまく融合したような知見が語られていて、とてもエキサイティングな読書となりました。
心理学や精神医学分野の読書感想ではそうなることが多いのですが、今回も勉強モードでの長文レビューとなります。今回はより箇条書き的なレビューですが、ご容赦ください。後半部はいくつか引用をまじえながら書いていますので、まずさらっと知りたい方はスクロールしてそちらから目を通してみてくださるとわかりやすいかもしれません。
暗闇という状況に恐怖を感じるように、人間はできています。それは原始の頃から。夜行性の肉食動物に襲われる危険がありましたし、それでなくても、歩けば足を踏み外してケガをしてしまったり、どこかに体をぶつけてしまったりしがちでした。それゆえのこういった恐怖は、脳の深いところで発生するらしいです。まだ下等生物だった頃からの機能としてあったそうです。
それでこんな心理実験が載っていました。何枚かの写真を被験者に見せるというのがその実験で、写真にはそれぞれ別々の人が写っており、被験者はそれぞれにどのくらい危険を感じるかの印象を答えるというものです。これを、実験する部屋の明度を低くして薄暗くした中で行うと、写真に危険を感じる度合いが増すそうです(まあ、影が射して、人相が悪く見えるだろうなあとは思いますが、そもそもそれこそが、そういったかたちでの「闇」による心理的影響と言えるものかもしれません)。
不安症の人などは、部屋を明るくして過ごすといいのかもしれないですね。電気代がかかるからと、不安性的な貧困妄想の人もいますけれど、そうやって薄暗い中で過ごしがちだとさらに不安度は増していくのでしょう。(あと別な話ですけど、薄暗い中にいると眼圧が上がりますから、明るくすることで緑内障のリスク減にもなったりします)
一方と他方を結びつける「比喩」は想像力を使う行為ですけれども、そうして比喩を使うことによって培った想像力の作用で、他者の心を慮ることができるようになる、という本書に書かれた気づきは見事です。心はそうやって発達していった、すなわち比喩の能力が心を作っていったとする理論でした。他者の心ってわかりません。でも想像はできます。そしてそれは比喩的なもの、とする考え方でした。こうして思いやりや同情が生まれ、かたや、嫉妬や裏切りも生まれました。なかなかに説得力があります。
空っぽな心を感情で満たしたい、喜びでも怒りでもいい、という欲求があってセラピーを受けにきた患者が、パートナーへの怒りを表出し心をそれで一杯にしているシーンがありました。怒りの奥には悲しみがあり、つまり悲しみや裏切りへの傷つきを怒りにしていた。これらの気持ちを自分で許容できるようになれば良い傾向だそう。
怒りを伴って表れる世代間連鎖の暴力も、もしかすると幼少時の満たされなかったりした悲しみや傷つきがその奥にあるのかもしれません。また、介護が必要になった伴侶への怒りと暴力も、その奥には伴侶の状態への悲しみとともに、自分だけが残された悲しみ、寂しさ、傷つきがあるのかもしれないなあ、と思い浮かびました。
こういう視点で、修復的正義の介入って望めないものなんでしょうか。暴力があると相談したら「はい、分離します」じゃなくて。この方面でのマニュアルがまだないでしょうし、ということは前例もないわけで、進んでいかないというのはあるのではないか。
ここからは引用をはさみます。まずひとつ目。
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意識化されない心(無意識)を、フロイトは疑いの目で、ユングは希望の目で眺めた(p118)
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→フロイトは無意識を、...
2024年12月9日
本を読むことで旅をする。行ったことのない土地、異国、ファンタジーの世界、未来そして過去の世界。ひととき、日常を忘れ、本の世界に浸る。そうやって、本を読む人たちはリフレッシュしたりする。知らなかった世界を知るばかりか、考え方を教えられるというよりも発見するに近い経験をしたりもする。と、まあ、ここまで書いたことも、読書のほんの一面に過ぎないとは思います。
ピン芸人・ヒコロヒーさんによる全18編の短編集『黙って喋って』はどんな世界へ読者を連れて行ってくれるのか。簡単にいうとそれは、若い年代の女性がしっかりと地面を踏みしめながら歩いていく日常の世界へだと思う。そこには恋愛がもれなくくっついていて、テーマとしてはそっちがメインにはなっている。ただ、「薄い」ともいえず、「浅い」ともいえないくらいの日常のあれやこれやの場面の記録が虚構世界に刻まれていることで、虚構世界が現実世界の匂いをしっかりと帯びている。だから、生まれた土地を離れて住み着いた地方都市なんかで希薄な人間関係にある人や、引っ込み思案で引きこもりがちな人、つまり、メインストリートは華やかすぎるから棲み分けを選んだような人が、選ばなかった世界を覗くこと、つまり生々しいifの現実を虚構世界で体感することが本作品集からはできそうな気がするのでした。でも、不用意にページをめくると咽てしまうかもしれません。
もちろん、メインストリートまたはメインストリートの端っこを歩く人たちが本書のページを繰ってもおもしろいと思うと思います。誰それの体験談を読むみたいな感覚になるかもしれない。
さて、すべてに唸りながらも僕が「これいいじゃないですか」とあげたくなったのは二編です。まずは「覚えてないならいいんだよ」です。学生時代に仲の良かった女子の心理が隠されての再会。主人公の男子は、彼女との「生きるスピード感」が違う。そのため、最後になる会う時間に対する覚悟も、その時間の味わい方も、期待していたりしてなかったりすることも食い違っているのだけど男子はよくわかっていない。ラストまで淡々と流れていきますが、うっすらと後悔のまじった軽いため息に似た苦味のような気持ちが生まれる余韻を味わうことになりました。僕にとってそれは悪くないものでした。二人が住んでいた同じ世界が、ある時点から分岐してしまって、別々の世界を生きることになってしまったような切ない感じすらありました。
次に挙げるのは「問題なかったように思いますと」。舞台はどこかの企業。本社から出向してきた女性社員が、なあなあでなし崩し的に横行するハラスメントが満ちる職場でひとり戦う。その姿を見る主人公の別の女性社員が、処世術を優先した生き方に圧倒されながら、それと相反するまっすぐな生き方との間で揺れるんです。
それでは引用をまじえながら。
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社会で生きるということ、その上で自分を楽にさせてくれるものとは諦めることであると、悲観的な意味合いではなく現実的に、いつからかそう心得ることができていた私にとって、凛子さんの芯を剥き出しにするような部分は解せないものがあった。恋人の有無を聞かれても、ある女性社員の容姿を嘲るような冗談めいた会話を振られても、たとえ自分自身にその矢が向いてきたとしても、その場を凌いで笑顔で対応していれば決して波風が立つことはない。そのくらいのことならやればいいのに、なぜ頑としてやらないのか、何の意地なのだろうか、もっとしなやかに生きればいいのにと、何度も彼女に対して、そう思っていた。
笑いたくないジョークにも適当に笑い、苦痛だと感じる質問にも態度に出さず愛嬌で逃げる、傷つくようなことを言われても傷ついていないふりをしていれば彼らにとっての「やりやすい」を創造することができ、それこそがこの社会で生きる「術」なのだと理解して、...
2024年12月3日
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ガリレオ はじめて「宇宙」を見た男 (知の再発見双書 140)
- ジャン=ピエールモーリ
- 創元社 / 2008年9月25日発売
- 本 / 本
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ガリレオの人物像とその時代を、カラー図画などをふんだんに使いながらコンパクトに伝える本でした。
キリスト教カトリック派の力が強大だった中世ヨーロッパ、聖書と齟齬をきたさないプトレマイオス説(天動説・地球が宇宙の中心で太陽をはじめ他の星はすべて地球の周りをまわっているとする説)と、異端視されるコペルニクス説(地動説・現在の太陽系観である、太陽が中心で地球もその周りをまわる星であるという説)が、どちらが正しいとも決着を見ていない時代にコペルニクス説を確信しつつ、実際に当時オランダで発明された望遠鏡の風聞を聴いて自ら光学を勉強しながら作製し、性能をアップさせたものへと改良していき、宇宙をはじめて肉眼以外で観測した人がイタリア人のガリレオ・ガリレイでした。
その観測によって、コペルニクス説の正しさを証明する明確な証拠をガリレオがつかんでいきます。木星に4つの衛星があること、金星の満ち欠けについてのことなどの観測からガリレオは考察を深めていったのでした。
しかしながら、妬みや嫉妬を持ったり、聖書に反するものの見方だとして旧来の秩序を守ろうと敵視してくる人たちがいます。それはイエズス会の神学者たちであったり、学者たちであったりしますが、その批判の内容は幼稚な言いがかりレベル(今で言えば、SNSの「クソリプ」のようなものかもしれません)のものだったりもして、ガリレオははじめこそひとつひとつ反論して打ち破っていったようではあります。
ここでちょっと、思ったことを書かせていただきますが、新しい思想というものは危険視されやすいものです。たとえばイエス・キリスト。彼は当時としてはまったく新しい思想を広めて同胞を増やしていき、それを危険視したユダヤ人の罠で裁判にかけられました。時代は下って中世ヨーロッパ。ガリレオは当時まだ主流のアリストテレスの科学を批判し地動説を支持し、キリスト教カトリックによる裁判にかけられました。キリストがかけられた罠を、その信者たちが、かつてのユダヤ人たちがキリストに対してしたのと同じように「新しい思想の排除」のため、ガリレオにかけた。皮肉が効いているというか、ミイラ取りもミイラになるというか、やっぱり内省や自己批判などが大切なのではないだろうか、と思うなどしました。
そうなんですよね、有名な話ですがガリレオは最後には異端裁判にかけられて、アリストテレス科学を暗に批判した書物などは禁書とされ、自らの信念ともいうべき地動説も捨てさせられます。ガリレオが異端裁判にかけられる一昔前には、ブルーノという人物がやはり地動説を支持したことを罪とされて火刑に処されています。ガリレオが禁固刑と、その後の監視処分で済んだのは(それでも厳しい処分ですが)、僕がこの本から感じ取るに、その対人関係の誠実さと柔らかさにあるような気がします。あからさまな敵への反論でも、感情的な文面で返していません。相手に対して、丁寧に説明し、責め立てて追いつめたりもしていません。そういった人間的な性質が、「ガリレオだから、火刑はきつすぎるか」とためらわせたのかもしれない。また、科学に明るい枢機卿や貴族との強いつながりを持っていたので、そういった処世的な柔らかさが自らの命を救ったのかもしれない、とも考えられると思います。
ガリレオって、愚直で、一歩一歩確実に歩いていくタイプだったぽく感じられるんです。だけれど、その歩みは日々続けられ、重い一歩が着実に積み重ねられて、常人との大きな差となっていったような感じがしました。天才的な飛躍だとか、軽妙なひらめきだとかはあまり感じられないほうですね。ただ、偏見や既成概念に捕らわれない人だとは言えそうです。なんていうか、ちゃんと世間の中にいる科学者です。象牙の塔で自分だけ最先端へ行っちゃうタイプではなさそうです。
...
2024年11月25日
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人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか (ブルーバックス)
- 中川毅
- 講談社 / 2017年2月15日発売
- 本 / 本
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古気候学者である著者によって、地球気候の最新10万年ほどの様子を福井県・水月湖に堆積した年縞などの解読を用いて解説しながら、そのメカニズムを解析するための挑戦的考察が語られます。
地球の気候変動というのはとてもダイナミックで、人類が登場してからでも海面の高さが100m以上変動するような事件が繰り返し起こってきたそうです。大きく、氷期と間氷期というように、寒冷期や温暖期が区別されますが、そこで働いている力が何かについて大きな示唆を与えたのが、およそ100年前に唱えられたミランコビッチによるミランコビッチ理論なのでした。
ミランコビッチ理論は、地球の公転軌道の変化によって、地球と太陽の平均的な距離が変化することで気候変動が起こる、とするもの。公転軌道が円に近い時期は太陽との平均的な距離が大きくなり、扁平な公転軌道のときには太陽との平均的距離が小さくなります。前者は氷期で、後者は間氷期にあたり、約10万年周期で繰り返しているそうです。この変化にくわえて、地軸の傾きの変化を考慮すると、過去の気候変動にさらに理由がつけやすくなるのでした。
ミランコビッチ理論は、天文学と気候学を結び付けたことでとても大きな功績がある、とあります。当時までの考えの範疇であったその壁には外があるんだということにはじめて気付かせたようなものだったのかもしれません。
本書前半部分では、ミランコビッチ理論を大きく扱いながら、カオス理論(ここで用いられたのは、ランダムなプログラム上でも、それぞれがバラバラな乱雑期と、歩調が同期する安定期があって、それらはトータルでカオス遍歴と呼ばれること)とも照らし合わせて気候変動のメカニズムを探っています。
そして後半部分からは本書の主役である福井県・水月湖の湖底に溜まる堆積物をボーリングして得られた詳細な年縞データに焦点をあてて、年縞研究の歴史からはじまり水月湖が世界のスタンダードの資料となるまで、そして、そこから見えてくる鮮やかな古気候の様子が語られます。前半部もエキサイティングなのですが、後半部からもぐいぐい読ませてくれる読み物になっています。
さて、ここからは雑学的部分をひろっていきます。
全球凍結という過去に地球がすべて凍結した時期がありますが、それを打破したのは火山活動だったらしいことが述べられていました。凍結状態によって白い地表面は太陽熱を跳ね返して地面が熱を保持することもありませんでした。そうして寒冷化がさらに進んていった中、火山活動で出る二酸化炭素が地球を暖めたようです。排出された二酸化炭素を吸収する植物はなかったしおなじく二酸化炭素を吸収する海洋は閉ざされていました。それで次第に濃度が増していき、温室効果が得られていった、と。
全球凍結状態での人類の生存は厳しいですが、逆に長い地球の歴史上で何度もある温暖期は、温暖化と言われる現在よりもさらに平均気温が10度も高かったらしいです。どでかいトンボなんかが滑空していた時代で、その気持ち悪さや恐怖のせいではないけれど、これだって人類の生存は厳しそうではないでしょうか。
現在の地球の気候はこれでもまだ寒冷期の範囲に入るみたいで、すなわち寒冷期に特化して繁栄した生き物が人類だから、そのうち地球のダイナミックな気候変動に適応できず淘汰されないかな、と悲観的な想像が浮かんできました。戦争で、とか、小惑星で、とかを待たず、地球の気候のリズムが理由で滅ぶ、あるいは大打撃、というシナリオです。
以下は箇条書き的に。
◇水って4℃のときが一番重いとのことでした。それよりも温かいとき、冷たいときは、4℃のときに比べて軽いのでした。4℃の名を冠したブランドはこの特徴に意味づけしてるでしょうね。
◇現在の温暖化は、人間活動によるものだと言われますが、その起源は産業革命にある、という...
2024年11月22日