百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春

  • 文藝春秋 (1990年1月1日発売)
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 ロシア文学者、湯浅芳子(1896~1990)の前半生を描いた伝記。映画は未見。湯浅の業績についても詳しくないまま読んだのですが、それでも読み応えのある本でした。
 
 同性愛者であり、「自覚しないフェミニスト」として描かれる芳子には、女性の立場をめぐる問題が最大の命題としてつきまといます。耐えるだけの人生を送った母、奔放でありながら恋愛に縛られた女流作家・田村俊子、虐げられた芸妓の恋人・セイ、そして“女を愛する女”として生まれた彼女自身。「どんなに強がっても、どんなに悪ぶっても、結局のところ女を裏切れない。心底愛してしまう」性質でありながら、「愛した女はみんな、男のもとへ去っていった」彼女の前に現れた百合子は、その純粋さと透徹した知性、豊潤な感性で芳子をひきつけます。失敗した結婚に苦しんでいた百合子もまた、独自の鋭さと自尊心を持った芳子に惹かれ、やがて二人は恋に落ちます。
 
 女性でありつつ身を立てることができ、性的にも男性を必要としなかった芳子は、男性と女性を「恋愛」によって結び付けながら、それによって支配―被支配関係を強固にする当時の結婚という制度とは無縁の場所にありました。その芳子と百合子との「新しい愛」は、自由であるゆえに、はじめのうちは純粋で美しいものです。筆者の言葉を借りれば、二人が目指したものは対等に、互いが互いを高めあう「友愛」そのものでした。
 しかし、二人の個性はすれ違いを生みました。それはかえって絆を深めもしましたが、やがて二人の関係には当時の男女の関係そのものの影が落ち、亀裂は大きくなっていきます。
 女に対する男の暴力性を憎みながら、それに抗うために憎むべきはずの男と同化し、時に百合子に手を上げさえした芳子。芳子を愛しながら、「恋はする、しかし愛しきれない」自己を抱えて、次第に“本物の”男性を渇望するようになる百合子。ロシア留学を経て百合子は社会主義に傾倒していき、とうとう帰国後、宮本顕治のもとへと出奔しました。それは「友愛」という遥かすぎた二人の愛の理想が、「恋愛」という現実に屈したことをも意味していました。

 最後のほうに引用された芳子の日記に、「女だから百合子を愛したのではない、百合子が百合子であったから愛していたのだ」という意の文章があります。その愛の境地をまっとうしようとした二人が残した日記や手紙に横溢する感情は、百年近く経った今も印象的です。
(対象の性別にかかわらず)社会的ないし心理的に「女性」であるひとが愛する、または愛し合うとはどういうことなのか。湯浅芳子自身の強烈な個性と、現代社会におけるジェンダー問題への意識がからみあって、かなり共感を覚えます。
 といっても、私はきちんとフェミニズムを勉強したことがない口でした。フェミニズムのみならず、セクシュアリティ・ジェンダーといった大きな問題というより、「恋愛」そのものに違和感を感じたことのあるひとにはお勧めできる本かなと思います。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2019年1月13日
読了日 : 2019年1月2日
本棚登録日 : 2019年1月13日

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