初の寺山修司。カドフェスより。
『書を捨てよ、町へ出よう』を、先に読んでおくべきだったかな、と感じている。
「幸福論」の不在から唱えられる『幸福論』。
有名なアランのものなどは、けちょんけちょんにのされてしまう。
なぜなら、書物の中でのみ生を与えられた論に学ぶことなどないから(と言いたいのだと思う)。
書物とはモノローグである。一方向的に説かれる幸福とは、いかなるものか。
そこで寺山修司は、身体性•双方向性を持つことに意味を見出す。とはいえ、それを説くためにはやはり書物という媒体を通すしかない不自由さに苦さを感じてもいるのだが。
「想像力も、交換可能の魂のキャッチボールになり得たときには、「幸福論」の約束事になり得るのである。」
「山椒魚人間にとって、変装は想像力の超克になり、生き方の選択につながるように思われる。」
「陽が昇ったり沈んだりすることは、必然であり、それ自体に少年たちのギターの神話の力が及ぼすものは何もないだろう。だが、それでもギターを弾かねば偶然と「幸福論」とのあいだをつなぐ、時の架橋工事などはじまらないのである。」
「幸福は決して一つの「状態」ではないのだと知ったとき「幸福になってしまったあと」などということばは失くなるはずである。」
自己否定ではなく自己肯定に繋げるように歩み続ける寺山修司の後ろ姿くらいは、見つめられたように思う。
読書状況:読み終わった
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カテゴリ:
2015年
- 感想投稿日 : 2015年8月12日
- 読了日 : 2015年8月12日
- 本棚登録日 : 2015年8月12日
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