求めていることに、応えてくれる一冊でしたー。
繰り返しの部分が少し目立つけど、読みやすい。
「さようなら」と「goodbye」の違いって。
「さらば」(それならば)に含まれた意味って、何なんだろうと思っていました。
そこから、やはり死生観に入っていくのね。
西田幾多郎、九鬼周造、柳田邦男から古典文学まで幅広い引用もあり。
死とは、不可避の状態である。
自分にとっては経験のない非日常だけれど、あらゆる物事にとっては当然そう在るものだとも言える。
そうした「自然」自ずから成り行くことを、「あきらめをもって受け入れる」態度。覚悟。
互いの別れを「いざ」「ならば今」と受け入れることで、見送る方も見送られる方も、心にケジメが付くということのようだ。
面白いのは、日本では死者が彼岸と此岸を行き交っているというイメージ、風習があること。
確かに、死んでも案外と身近な場所にいるのかもしれない、という思いは、死への恐怖心を和らげるのかもしれない。
「おのずから」と「みずから」の違いにも言及し、そこに日本人の諦念、悪く言い換えれば無責任さを見出す。
ここから、「る、らる」つまり「受身、可能、自発、尊敬」という多様な意味を持つ助動詞にまで触れて、ワクワクする。
中古では「ゆ、らゆ」であり、「尊敬」の意味はまだ付加されず、「自発」の意味を軸とした動詞がその後も残っていく。
おのずからそう感じられるという自発の姿勢は、栄枯盛衰、様々な推移に対して「まあ、人生ってそういうものだよね、仕方ない」と言ってしまう感覚のルーツなのだろうな。
「もの」と「こと」の違いについて、また運命については引用。
「『もの』的世界とは、原理的・法則的・普遍的な、発語者の力ではどうにもならない、不動なもの、運命的なものを表しており、われわれは、そうしたものを過剰ともいえるかたちで表現し、それにしたがってきたという指摘」
「つまり、この世の普遍的・集団的な論理・原理にしたがうときには『もの』という言い方をし、その時その場での、一回的な出来事については『こと』という言い方をしているのだ、という指摘」
「運命とはそうしたものであるがゆえに、それにただ巻き込まれ翻弄されるべきものではなく、それをそれとしてあらためて認め、受けとりなおすところに、真に運命となりうる」
「詩のもっている、押韻、リズム、畳句(リフレイン)といった技術は、すべてその『現在の今』を繰り返し反復するということにおいて、そこに『永遠の今』を顕現させうるものだと九鬼は考えています。
韻と韻とが重ねて踏まれることは、われわれの偶然性としての出会いが重ねて反復されることの象徴です。」
- 感想投稿日 : 2018年2月18日
- 読了日 : 2018年2月18日
- 本棚登録日 : 2018年2月18日
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