読書状況 読み終わった [2019年7月29日]

小さいころは、ごく単純に、「平等な人間社会にあって、天皇制とはいかがなものか」と思うだけだったが、様々な知識を得て、これも一つの社会の仕組みとしては必要な構造として働いてきたのだと見直してきてもいる。
しかし、「天皇」は、日本独自の呼び方としても、「皇帝」「王」などの、日本語訳されたもののルーツや意味、また、「帝国」と「王国」の違いなど、あいまいなままのものは多い。「帝国主義」とはいうけれど、だからといって、その国が「帝国」であるとは限らない。
「エンペラー」「キング」「カイザー」「ツァー」「ハーン」「ハン」「「スルタン」「シャー」「アミール」「サパ・インカ」「トラトアニ」などなど、世界中で使われてきた呼称の意味や格までが示される。
そして、その継承のされ方も様々だということがよくわかる。
そのほか、同様に権力を持った、「教皇」や「カリフ」などについても解説される。

日本人にとって、王は、万世一系、つまり、男性天皇の血筋のみが継承する一つの長いつながりを当然と受け止めるのが普通だろうが、例えばヨーロッパ王室はそれにこだわらず、女性の継承もある。皇帝位は、ローマ帝国皇帝位を引き継ぐものであり、そもそも、ローマからして、血統をそこまでつなげようとするものでもない。また、中国では、易姓革命の建前で、皇帝位は簒奪を繰り返される。
そもそも、「王」が収めるような国が集まってできた集合王国の長を「皇帝」というのかなと思っていたけれど、そういうわけではない。


いつの世にも合う最適な社会制度などありはしない。
日本の歴史上、天皇が世俗権力とは一段違うところにあり、様々な形で求心力を発揮し続けてきたことが功を奏したこともあろう。
それぞれの国や地域において、王が国を束ねることにより、他者の侵入を阻み、国民の利益を守った例もあろうし、その反対に、不利益をもたらした例もあるだろう。
社会が変化し続けることの意味とは、人々の価値観の変化であり、それは、その時に応じて社会制度を変化させる必要を生む。


ただね、うーん。あまり、書きぶりが、公平な視線によるものと思えないんだよね。これ。

2019年2月11日

読書状況 読み終わった [2019年2月11日]

詩の定義とは何だろう。
手元の辞書には、「自然や人事について起こる感動などを圧縮した形で表現した文学。……」新選国語辞典、とある。
そして、よく悩んだのが長恨歌だ。
これは、お話ではないの? と、はじめは悩んだ。詩って、何だろう。まあ、定義にこだわる必要はないんだと思い直しもしたけれど。
それでも「詩的な」という表現は、なにやら、美しいものがあることを想起させられる。
的確で、簡潔でいて、美しく感じる文章、それを「詩」だと思う。

本書の中の、「鑑三に試問されて」を読んでいて、まさに、これは詩ではなかろうか、という思いにとらわれた。

一杯の粥によって始まる朝の穏やかな浄福に浸されるとき、人は、俗世における野心や利害からつかの間超越しているのだ。欲念や憎悪や孤独からふっと解き放たれているのだ。街角でさして来る斜光を浴びて一瞬世界が変貌したり、空を圧する密雲の切れ目に一筋塗られたコバルトを見出したりするとき、現世を超越していま在るという思いは偽りではない。義しいか義しくないかも最早問題ではない。……以下略


このように表現している渡辺京二の内部には、詩の世界が広がっていなければ、評論を詩にすることはできない。端正な文体は、時に、評論や叙述で在ることを忘れさせ、詩に触れさせる。
丹念な職人の手仕事が、鍛錬されたスポーツマンの競技姿が芸術であるのと同様に、端正な文体もまた、詩という芸術になるのだろう。
山田風太郎の作品のあらすじを述べる中で、作中人物が強姦を働くような描写でも、下品にならないのはさすがだと思った。ただし、氏は女性が好きなんだろうなあ、というのは、全体を通してよく伝わってきたけれども。

さて、詩かどうかは印象の問題と芸術性の問題であって、内容は、明治についての評論集である。
浅学なわたしには、明治という時代が明確でない。通常の学校教育の範囲すら危うい。先年放送されていた「西郷どん」で時代の雰囲気を感じる程度でしかなく、その後の日本の近代化の軌跡となれば、さらに不明瞭だ。

そんなわけで、内容をどうこういえるはずもなく、そうか、とうなずくよりほかないわたしだから、内容とは別に面白いと感じたことを書きたい。
歴史学者の磯田氏は、司馬遼太郎を歴史小説の書き手として高く評価し、そうした書き手が増えていくことを願っている文章を以前読んだが、渡辺氏は、「第三章 旅順の城は落ちずとも」で、司馬遼太郎の歴史認識に大きく疑問を呈している。これまた、司馬遼太郎の多くも未読のわたしには「歴史認識」などという大それたものはないのだから、二人の立場を面白く思うのみだけれども。

歴史というのは、勝者が自由に改ざんできる歴史書と、どの立場か難しいジャーナリズムと、エンターテーメント性の高い小説やドラマ(映画)、今ではマンガなどで、人々の中に作り上げられるイメージの総体が大半だろうと思う。
そうした中で、氏が見つめたいのは、その合間に行き交う人々、夜空であれば、光る星々の間にある黒い隈に隠れた、地球まで光の届かない無数の星々なのだろう。
見えていないけれど、存在する星々は、自ら光り輝かなくとも、詩のような言葉を添えられて、つかの間、わたしたちに姿を垣間見せてくれる。

2019年2月11日

読書状況 読み終わった [2019年2月11日]

物語の中には、その時の一般人の生活がよくあらわされている、という基本姿勢から、様々な「文学」として残る古典やおとぎ話の中から、当時の老人の地位を読み解いていくものです。

今日のような社会保障のない時代、老人の地位は危ういものでした。
現代でこそ、望めば結婚ができる環境にはありますが、かつては、「結婚できる」ということ自体がステータスで、独居老人も多く、また、結婚していても、子がいない、子がいても、若い夫婦から無駄飯ぐいと疎まれることも多いのが実情です。
そんなわけで、現代なら退職しているような歳でも、生きるために働いているのが当然で、そうした人たちのサクセスストーリーであれば、大どんでん返しといえるのだそうです。

「姥捨て」の話については、物語にはあるにせよ、日本で実際に行われていたという確証はないものの、他国にはその事実があるようですし、そこから伝来した可能性や、あるいは、無文字であった縄文時代の生活を引きずった口伝である可能性もあり、そこまでさせる過酷な状況がうかがい知れます。

異国の地では、老人を宝と考えるところもあるようですが、どうも、日本はお荷物のように考え、その地位は低かったようです。老人の性や様を笑ったり、嘲ったりするものも多く、しかし、昔語りの語り手となることで、老人たちは、自分たちの様々を伝えていくことの中で、若い人たちとのつながりを持っていたといえるようでもあります。
それで、多く、おじいさん、おばあさんを主人公とした物語が語られていくこととなったようです。
口伝のおとぎ話は、「昔々あるところに」と語るニュースの役割もあったと、以前、習ったことがあります。イキイキとした老人の話は、誰もの行く末として、興味のあるものになったことでしょう。

現在も、死に方に多く関心が寄せられ、死ぬ前に持ち物を減らしたり、年金の額に頭を悩ませたり、痴呆や介護におびえるなど、悩みは尽きません。
しかし、もっと貪欲に生きてもいいかな、そんな希望を持つのが健全だなぁ、なんて、少し気が軽くなりました。

2018年11月18日

読書状況 読み終わった [2018年11月18日]

「不思議すぎる」とまではいかなかったが、人体図鑑としては、基本機能に加えて、他の動物と比べたり、進化の過程を書いたりと、詳しい。

哺乳類の先祖は、恐竜全盛期において、「弱い生き物」として、隠れるように住んでいたことから、視力に頼らない暗闇の生き物であったという。
しかし、一部のサルが……というので、考えていくと、やはり、人は、神に愛されたのではなく、環境によって人になったのだと思う。

進化の残滓はそこかしこに人間にもあって、現時点では極みであると同時に、未来から見れば、中途でしかないのだと思う。

人は、しっぽや毛を失い、口蓋や色彩を見る力を得た生き物だが、この先に失い、得るものは何なのだろうか。

そのうち、顎が細くなるだろうし、親知らずは失うだろう。代わりに、どこかの脳が発達していくのだろうか。
今はできるものができなくなり、できないものができるようになる。
いつ人間でなくなるのか。
交雑できない新人類が誕生するより先に滅亡してしまいそうだと、つい考えてしまった。

2018年11月14日

読書状況 読み終わった [2018年11月14日]

周りのことに過敏な人についての話題だったが、逆に、無頓着である「低登録」も同様に生きづらいらしい。
結局は、人が生きるうえで「困る」かどうかが、生きづらさや不幸感のカギになるのだ。

氏の提唱している生きづらさを決める特質の一つに「愛着障害」があり、今回もそれにつながっていく。
その「愛着形成」のために必要なのは、他者からの「反応」であり、この先、それがAIにとってかわられていくという部分には、人間の、生き物としての知れなさに怖さを感じる。

人らしさをあえて追求しつつある現代社会は、「人らしさが失われても平気な社会」が実現しつつあることへの反作用と考えると、言うまでもなく、「人らしさを失う」速度の方が速い。
どこかで底打ちになるのか、それとも、他者としての人を必要としなくなる社会が来るのか、それを見守ることはかなわないだろうが、かなり変容した社会になることは想像に難くない。

とはいえ、だれかが生きづらさを持ち、愛着の支えを必要としたとき、、その本人よりむしろ、その人を支える人を支えることが、早い回復につながることが往々にしてあるらしい。

「人」という字は、本来は、人が足を開いて立っている姿であり、支え合っている姿ではないのだが、実は、それが本質で、人は一人では立てない、誰かが誰かの支えを必要とし、また、他の誰かの支えを借りる、それが人、そう思い直す。

2018年11月10日

読書状況 読み終わった [2018年11月10日]

読み始めて最初は、「今回少し薄っぺらいかな」なんて思った。
顔の比率などの見た目、睡眠やたばこなどの行動、しかし、確率的にはやや的中率の高い占い程度にしか思えない。著者のよく見かけるメンタリズムの方法かとも思って読み始めたのはいいが、それとも少し違う。

しかし、ジャッジメント能力の研き方になると、非常に興味深いものになった。

他者の何を見抜きたいと人は思うものだろうか。

自分だったら、
「この人は、怒っているのかな」
「この人は、わたしのことが好きかなあ」
「この会話で何を言いたいのかなあ」
など、言語の先を見たいと思うだろうか。
しかし、
「騙されているかも」
などということは疑わない。
なぜ疑わないのだろう。信じやすいから? 人は嘘つきではないと。単純なせいかもしれない。
そんな風に思ったこともある。

しかし、実は、自分は騙されないという自信がどこかにあるのでは。


人は、先入観を持たない印象によって、ある程度正確に相手を診断できるものらしい。それは、歴史上培った本能や経験がそうさせるのだろう。
しかし、それに反して、読み誤ることもある。
人を欺き、だますことで得られる利がそこにあれば、そのためのテクニックもまた発達するからだ。

人をだます要素として意外だったのは、「笑顔」である。
人は、思うように表情を読めない。表情は嘘をつく。それでも笑顔を好意的に評価しすぎる。
そして、意外でもなんでもなく、過大評価になるのが美男美女だ。いやいや、だますとはされていない。実際にIQが高くなるからだ。しかし、美男美女が必ず賢いわけではないのに、好意的な評価が過大だろう。ハロー効果のせいで得をしている。

そうした様々な読み取りを阻害する「ノイズ」を除去するために、別のテストもあるが、それよりも、共感力を駆使した方法が面白い。
「相手の立場で考える」という、ずっと進められてきた方法が、結局はかなり有効で、表情やしぐさなどの結果で得られるものよりも、もしかしたら、より効果的に精度を上げられる。
そして、それで終わらない。その「共感力」を上げる方法が、思いもよらないトレーニングとともに紹介されている。
ここでは紹介しないけど。

さて。信用できる人を見抜く方法として、むやみに人を信じる効果が挙げられている。信じるから、うそを見抜く能力が磨かれ、また人を信じる。
だから、「人を信じる気がする」なんて思っている人は、人を見抜く力が伴っているため、信用できない人を無意識に避けている。
まずは、自分から信じたほうが良い。
ただし、今は、詐欺が巧妙化しているから、これはこれで怖くて難しいんだよね。

パートナーを見抜く章で、面白い記事があった。
「深い話」というのは、自らをさらけ出さなければならないため、自分語りにも強力な快感を伴う。
それは、おいしい食事やセックスに匹敵するとか。
こうした書評サイトは、「深い話」になりやすいから、会話をすると快感から病みつきになるのかなあ。

2018年9月22日

読書状況 読み終わった [2018年9月22日]
読書状況 読み終わった [2018年5月27日]
読書状況 読み終わった [2017年10月19日]

久々の新刊は、塩野氏のクールなプロフィールがグラビアとなったカバー大の帯をつけて登場した。
一国の存亡を見つめる大作をいくつも世に送り出しつつ、男女の機微にもするりと入り込む、よくありがちな、仕事一本やりではないところが格好いい人の姿である。


今回は、各国の政治家に対する言及が多い、となると、塩野氏のこと、支持に関しても明快だ。
2013年11月〜2017年9月の「文藝春秋」に掲載されていたものなので、一つの政権が立ち、倒れるところまで含まれているものもある。そして、それぞれに塩野氏の意見や提言が何にひるむことなく書かれているのが頼もしい。
政治家に言わせれば、「そんな単純なものではない」のかもしれないが、どちらかというと、「石橋をたたいて渡らない」になりがちな自分自身の行動を顧みるにつけ、とにかく、完璧を期す前にやってみるしかないと思わせられるだけの決然たる背中を見せられた思いだ。


そのなかでも、「政治家は、使い捨て」というのがよい。使って捨てられたのなら、本望である。似たようなのが、「一発屋」で、一発でも世を穿ったのだから、十分大成功と思うのは余談。時が変われば、適材も適所も変わるものであり、その一時の適材として選ばれ働けることを良しとする気概が仕事を生み、政治屋ではなく、政治家となるのだ。


戦後70年というが、今、平和がおびやかされているように感じる。つまり、我が家や職場の上空を厚木からの飛行機が低空飛行する轟音を聞くからで、報道とが相まって心を怯えさせられるのだけれども、では、日本が勝ち取るパクスニッポン(?)とは、どんな形だろうか。
100年にも満たない期間でしか、まだない。しかし、ローマ、ヴェネツィアの繁栄といえば、1000年というのだ。そう、100年後では、孫の代までだが、1000年後は、世界平和のレベルといえよう。しかし、政治は、それを目指してこそ、である。


政治とは、リストラをしないでの回復、経済とは、リストラをしてでもの回復、と塩野氏はいう。
高校で、ギリシャの政治を世界史にて習った時に、ギリシャの民主制と衆愚制、その境は何に発するのか、との思いは未だに解決を見ていない。そもそも、政治経済にさほど興味もなく暮らしている自分は、民主制の一員というより、衆愚制の一員といわれても言い返す言葉はない。
さて、明日はどうなるのだろうか。少なくとも、民主制であるとの自覚は持たねばなるまい。

他サイトより転載

2017年9月24日

読書状況 読み終わった [2017年9月24日]
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いつも、歯磨きをした後には、ごく簡単に口をゆすいでいた。
しかし「あなたのいつものうがいの仕方、間違っています」、と言う。
その帯を見て、もしかしたら、間違っていたのかなと、つい手に取ってみる。


普段 ぐちゅぐちゅと2,3回、口の中で 水をかき混ぜるようにして吐き出すといううがいをしていたけれど、やはりそれでは物足りないらしい。


うがいの目的は、口の中の汚物を取り除くことだ。
特に食事の直後は、食べかすなどが口の中に入ったままになっている。それらをこの方法でうがいをすると、歯磨きと同様に取ることができると言うのだ。


簡単に言ってしまえば、「しっかりとしたうがい」なのだが、これをきちんとすると口の筋肉が疲れる。歯の間に水がしっかりと通り抜けるように、打ち付けるようにして、上下左右 それぞれ10往復ずつのうがいをするのだ。
これだけの数をすると、かなり頬の筋肉に負担がかかる。それで、ほうれい線のシワ伸ばしにもなると言う。


しばらく続けてみると、どうしても、10回というのが体のリズムにない。そこで、4拍子で上下左右を3セットやることで12回と言う数え方をしている。


確かに ここまでしっかりとうがいをすると、雑に歯磨きするよりも、よっぽど歯の表面が綺麗になったと感じる。もちろん、うがいだけで完璧というわけにはいかないけれども、 効果は十分にあるような気がする。
もともと、甘い飲み物が苦手で、飲んだ後の口の中の粘つく感じが嫌いなのだけれども、多分これなら、口の中の甘味は消えるし、歯ブラシがなくても効果が高いというのがよい。
プラークができにくくなり、口内環境がよくなるため、口臭も出づらい。
かぜをひいたときなども、のどうがいだけではなく、こうした歯の間のごみまで取るうがいが有効なのだそうだ。


どれだけやってもよいそうなので、シャンプーしながら、ドライヤーで髪を乾かしながら、顔を洗いながら、など、場面を見つけてやってみようかな。

別サイトより転載

2017年8月5日

読書状況 読み終わった [2017年8月5日]
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