漱石: 母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004311294

作品紹介・あらすじ

漱石が生涯抱え続けた苦悩。それは母の愛を疑うという、ありふれた、しかし人間にとって根源的な苦悩であった。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』から『明暗』まで、この「心の癖」との格闘に貫かれた漱石作品は、今なお自己への、人間への鮮烈な問いとして我々の前にある-現代を代表する文芸評論家が、批評の新たな地平をしめす一書。

感想・レビュー・書評

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  • 一人の女性をめぐって、三角関係に陥った二人の男性が、自殺することで自らの生き方の筋を通そうとする。

    そこのところを、教科書を作っている人たちが高校生に読ませたがる、そういう、小説「こころ」。

    しかし、この小説の面白さ、本当の悲劇性は「悲しくなってしようがない」奥さんを描いているところにあると僕は思います。

    現代社会に生きる僕から見て、先生やKのような男性にさほどのリアリティを感じることは出来ません。現代にも通じる普遍的な悲しみは、むしろ、この奥さんの悲しみの方にあるのではないでしょうか。

    三浦雅士は、評論「漱石」の中で、作家漱石を母の愛を疑い続けながら、その疑いを隠し続けた人間として捉え、彼のすべての作品の底には、その〈心の癖〉が流れていると論じています。

    たとえば、ユーモア小説として名高い「坊ちゃん」の下女「おきよ」に対する、偏執的とも言える坊ちゃんの甘え方は、その具体例であるという具合に。

    三浦の論に、誰もが納得できるかどうかはわかりません。しかし、僕には先生とお静のなにげなく、しかし、哀しい場面を引用し、漱石の〈心の癖〉が露見しているという三浦の指摘はかなり納得のいくものに思えます。

    ここにこそ、漱石の作品の凄さがあるのだと思うからです。
    https://www.freeml.com/bl/12798349/1000018/

  • 漱石の文学的主題は、捨てられるのがこわいから、相手に捨てられる前に捨ててしまうという、 心の「癖」のようなものだった。『坊っちゃん』から『明暗』にいたる、いうならば、漱石文学の交響曲にあたる主要な小説は、その主題をめぐって階段を上るように、一つ階を上がるたびに新しい視野が開けるようにして書き続けられた。漱石自身が自らに問い続けた「今の自分はどうして出来上がったのか」という問いは、漱石が母に愛されなかった子であるという事実に由来する、というのが三浦雅士の着眼点である。

    母が子を愛しているかどうかなどという問いは成立しない。母親自身に聞いてみたところで分かるはずがないのだ。人は誰でも、自分は母に愛されているのかどうか、という問いを一度は自分の心に問いかけるものだ。多くの人が思春期にそうした疑念を抱きながらも、とことん問いつめることなく年とともに忘れてしまう。漱石にはなぜそれができなかったか。

    漱石は、母親が懐妊を恥じるくらいの年になってから生まれた子である。生まれてすぐに貧しい道具屋夫婦に里子に出され、四谷の夜店に並べられたがらくたと一緒に笊に入れられていたところを可哀相に思って姉が連れ帰ったというエピソードが『硝子戸の中』にある。その後も養子に出されるが、養父母の側の問題で大きくなってから実家に返されるという経験をしている。母親が愛してくれていたのか、という疑念を抱いても不思議はない育ちなのだ。

    『坊っちゃん』の中に、お前の顔など見たくない、と母親に言われたので親戚の所に泊まりにいっていたら母親が死んでしまい、死に目に会えなかった。こんなことになるのならやめとけばよかったと後悔するくだりがある。建前上の言葉と分かっていながら相手の言葉を文字通りに受けとめて「じゃあ、 消えてやる」と行動してみせるのは、甘えであり、僻みである。

    漱石の小説の主人公は、相手の女性を愛していることに気づかず、愛されてないという答えを聞くのが恐ろしいばかりに、先に自ら捨ててしま う。捨てられるのがこわいから、相手に捨てられる前に捨ててしまうという、このパターンが、どの小説にも現れることに三浦は着目する。これは、母親に愛さ れてなかったという事実を知ることがこわいために、先に母親を捨てた自身の心の無意識の反映だろうというのだ。

    この骨絡みの愛憎に終生取り憑かれながら、漱石は小説を書き続けた。一作ごとに、自分の知らない自分の心を、作家ならではの想像力を通して、他者になりきることで明らかにしていったのである。自分とは畢竟他者にほかならないのだ。

    今まで、漱石について書かれた評論はいくつも読んだが、これほど作家とその作品を綯い交ぜにして、まるで小説のように読ませてくれる評論は はじめてである。丸谷才一ばりの「です、ます調」と「だ、である調」を混在させた文章は、初めは異様に感じるのだが、新字新仮名でカギや改行なしに引用される漱石の文章が、三浦自身の文章に自然にとけこむように工夫されているので、いつのまにか漱石の講演を聴いているような気がしてくる。

    新書版で発表されることを意識してか、難解な理論もかみ砕いて誰にでも分かるように書かれているし、出てくる名前もベルグソンは別としてフロイト、ニーチェ、マルクスと一般的なものに限っている。漱石の作家論として読んでも画期的な評論だが、それだけでなく、自分というものがどのようにして作られるに至るのかという哲学的とも言える考察が随所に挿入されたエッセイとして読んでも面白い。三浦雅士が初めてという読者にはうってつけの入門書であ る。

  • 漱石は母に愛されなかった子だった。

    少なくとも漱石はそう思っていた。

    そのことはたとえば『坊っちゃん』を読めばすぐに分かります。

    と著者は漱石のことを分析した。

    そして、そのことに起因して数多くの漱石の作品が書かれたのだと主張する。

    歩んだ人生との因果関係を探りながら、すべての作品のそのテーマの連関状況の説明をしている。

    漱石の考え方にはマルクスやニーチェやフロイトに通じるところがとても多いとする著者の分析は、さすが現代を代表する文芸評論家であると思った。

  • 夏目漱石の作品から、彼の「じゃ、消えてやるよ」という「心の構え」をすくい上げ、漱石が望んだほどには得られなかった(と少なくとも漱石は確信している)母の愛と、それによって生まれた漱石の、無意識の苦悩と対決を指摘する文芸評論。

    私は漱石が嫌いなんだけど、なんで私が漱石が嫌いか、核心をつく答えがここにあった(笑)

    もっとも、著者の三浦雅士さんはそれを指摘しつつも漱石がたぐいまれなる天才だと信奉してやまないわけだが…

    自分を愛さなかった母を罰するために、愛を受け取らず、女たちを殺したり虐待したりする。小説の中で。だけど現実の漱石も相当酷い…扱いを、女性たちにしている。彼にとっては女とはそもそも人間じゃない。対等な人間じゃない。

    「他者の観点に回り込んでいる」と三浦さんは書いてるけど、そうじゃないんだよなぁ。徹底して、漱石は、女性たちの心なんかわかってない。「相手の立場」になんか立ってない。ただ、自分の理論を相手に当てはめて先回りして「そうなんだろう」と決めつけて相手をいじめているだけだ。

    だから、漱石は、涙にくれる女性たちを「書いている」んだけど、「わかってない」。三浦さんのいう「無意識」とはそれのこと。自分が何と向き合ってるのかわかってない。だから何度も同じことをくり返す…(三浦さん曰く、「後退」さえする)。

    うーん。人は漱石を神経症だというけど、私、彼はパーソナリティ障害だと思う。今だったら、自己愛性パーソナリティ障害と名前がつくんじゃないか。

    例えば、東京が私を適切に扱ってくれないから、東京を罰するために松山に行く、松山が私を適切に扱ってくれないから、松山を罰するために熊本に行く…ってどんだけ…。いや別に、あなたがいなくなっても東京も松山もなーんにも困ってないから…(^_^;

    文中に時々フロイトの話が出てくるけど、いや…そこは…そういうことではないんじゃないか…。むしろ漱石を説明するのはクラインの方が適切では…と、心理学徒としては言いたい。

    あと、文体が非常に読みづらい。である調とですます調が一文ごとくらいに混在してて、それを三浦さんご自身は自分の文体の味と思ってらっしゃるのかもしれないが、非常〜に読みづらい。

    まぁ、もし漱石が天才?なんだとしたら、自己愛性パーソナリティの人の心の内をつぶさに(無自覚に)書き記したっていう意味でだと思うな…

    うーん。そうそう、だから漱石が嫌いなんだよね、と苦い煙草でも噛むように読みました。

  • 幼少期、もっと言えば胎内に生じたその時から二十代後半まで抱えていた問題、そのほとんどが肯定感の欠落と承認者の不在に依る不安だが、漱石との共通性に対してまず驚いた。それに伴って、過去に存在していた世界を身体上に再生する能動的行為が漱石という輩を得て、半強制的に行われることになった。ほとんど義務のように感じさせるタイミングで。過去の記憶が何かに阻害され、記憶障害と呼んで差し支えないほど回想すらできないまま生きてきたことは一つの投げかけであり、回収しなければならない。

    問題は、自らが感じているように承認欲求の克服は成されたのか、それともただ承認されないことに慣れたのかであって、この違いは無視することができない。訓練による癖付けにせよ、ただの耐性にせよ、慣れと成就は紙一重で危険な綱渡りである。

    ここ数日あった母からのアプローチを、ことごとく拒絶している。宅急便で送られてきた食品を受取拒否するという行為は、自分にとっては彼女の死を願って喪服を新調した時よりもかなり明確な決別であり、復讐だった。食べるという生を存続させる行為と、生まれた時から、それ以前に生まれる前から生命を維持させるために必要としてきた母との関連を断つということは、おそらく自覚しているよりも大きなことだった。それは、この行為のあとに毒が全身を回っていくように感じている。

    父からは、援助もしないが強要もしない、将来何をしてもいいがその世界で一番になれと言われていた。今思えば具体性のない、間抜けな命令である。その意味はおそらく、責任を一切とらずに達成不可能な目標を強要することで、主従の関係性を保持するためであったのだと今は理解できる。実際それは、その目標が不意に達成された時に顕在化した。報告に対して父は明らかに動揺し、権利を喪失したことを直感し、消沈したのだ。今、父から連絡が来ることは無くなっている。

    そのように失望と勝利が同時に行われた時、承認欲求からの脱却が完了したように思える。エディプスコンプレックスとも関連しているであろうが、既に母の死を願っている状態にあって喜びも報酬も伴うことはなかった。

    「吾輩は猫である」の成功、小説家になるという自己実現は、漱石と両親との関係性にどのように変化をもたらしたのか。

    漱石の手を取り、考えるべきことはまだ尽きていない。

  • 私が夏目漱石をなんだかどうにも気に入らなかったのは、ただの同類嫌悪だったかもしれない。君も一生懸命に生きてたんだな漱石。悪かったよ。仲直りしてもいい気分。また読もう。

  • 承認欲求をめぐる夏目漱石論。
    承認欲求というと、イメージよくないけど、モチベーションとしても重要だし外せないものなんだと思った。

    あと、感動家の著者らしく、ほとんど手放しで『それから』を褒めていて嬉しくなった。

  • わたしは、この本を読み、漱石はすごく文学に貢献した人物だから、気になりました。とても良かったです。

  • 愛は本来証明不可能なの問題なのだが、漱石は「自分は母に愛されなかったのではないか」という疑いを払拭できなかった。どの作品にもその問題が追求されている、というのが著者の考え。

    『道草』で「いまの自分はどうしてできあがったのだろう」という問いを発している。「自己とは何か」という問いではなく、父母未生以前 に視点を置いている。

    前期3部作では「愛に気づかない罪」が主軸。これは単に初心な男性ということでは説明されない。

    「愛しているとしか思えないあなたがなぜわたしを捨てたのか」という三千代の問いは、漱石の母への問いと重なる。

    「愛されていると気づいていながら気づくことを拒否する性癖」「愛されていないという言葉を聞くことが耐えられない、そういういうことに超然としていたい」という性癖がみとめられる。

    会話においても「自分がどう思っているか」ではなく、「相手が自分をこう思っているだろう」と先回りして捉えて話してしまう。


    「母に愛されなかった子」という物差しをあてて読めばこう解釈できるという展開。やや強引の感もあるが、なるほどと思った点も多かった。文末表現の不統一は意識的なものか。

    ☆は4以上。

  • 文豪・夏目漱石を「母から愛されなかった」とあくまでも仮定し、その観点から漱石作品を見渡した研究書。私としては「どーなんだろうなー」と思ってたけど、これも一つの見解だなと思うと新たな発見があって面白かったです。他の作品が読み返したくなった。でも今は三四郎再読に行こうかと思います。。。

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著者プロフィール

文芸評論家

「2022年 『ベスト・エッセイ2022』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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