この人の閾 (新潮文庫 ほ 11-2)

  • 新潮社 (1998年7月1日発売)
3.41
  • (23)
  • (53)
  • (103)
  • (9)
  • (5)
本棚登録 : 525
感想 : 52
5

保坂和志の小説を読んでいると、記憶の回路を宝物を探し当てるみたいにして進んでいくような感覚になる。記憶の回路は日常の中で起こる些細な、乱暴に言ってしまえばどうでも良いことの切れ端をつなぎ合わせて構成されている回路で、まぁ色んなものが飛び出してくる。例えば相手すら覚えていないような、もうずっと過去に交わされた会話の断片だったり、何気なく通り過ぎてきた風景だったり、幼い頃の遊び場で行われた、今となっては入り込む隙のないくらい小さな世界のルールで固められたおままごとだったり、それらの一部分がふと頭に浮かぶ(五感をくすぐる)時が普段からあって、なんでそれが今出てくるのかわかんないんだけど、記憶の回路からひょこっと顔を出した彼らに対してなんのためらいもなく消化していくことが可能だけれど、積極的に彼らの存在と関わり合おうと思えば、彼らは実に面白い連中で、保坂和志がやろうとしているのは、そうした連中と交信(というと超常現象のように聞こえる)し、どこまでも気に留めることなのだろう。小説家とは言葉に対して疑問を持つことのできる人間のことで、物語を書くのはただの物語作家だという保坂和志の言葉を念頭に置いて彼の著書を読んでみると、実に多くの見落しを引き出されることが多い。私はこうして書評ともなんとも言えない読書記録を書いているのだけれど、おそらくこれがブログというスタイルで蓄積されていくものでなければ、わざわざ習慣として記録しようとも思わないし、記事を書いたところで何か特別なことを考えているのかといえばそうでもない。読んで何かを考えるという行為は私にとって面倒以外の何ものでもなく、書評だのなんだのとは甚だ遠い話で、最近思うのは、読了後に襲う満足感の中身は空っぽで、あとからあとからじわじわと、読んで考えるというやつがやってくるというとだった。食事をしているとき、テレビを見ているとき、急ぎの用事を足しているとき、恋人の隣にいるとき、読み積まれた言葉の断片がふっと現れたりする。そのときはじめて、読んだと思っていたものが本物の読んだものとして認識されるのではないだろうか。もちろん、認識されずに流れていく言葉も数え切れないほどあって、だけど表向きは自分の中に蓄積されたことになっていて、蓄積されたからにはいつかは消えてしまうのだけれど、それはそれでいいことで、もしかして目に付いた言葉をあれこれ書き留めてしまうことは読んで考えるという法則に反しているのではないかと思うようになってきた。ちょうど『この人の閾』で真紀さんという女性が言うような感じで。
「真紀さん、これからずーっとそういう本を読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ――本当にいまの調子で読んでいったとしたらいくら読んでも感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで灰になって、おしまい――っていうわけだ。」
「だって、読むってそういうことでしょ?」
(保坂和志『この人の閾』)
誰もが言うように、保坂和志の小説に物語性はまるでない。保坂自身が初めから物語を書こうとしているわけではないからだ。阿部和重との対談なんかを読んでいるとよく分かるんだけれど、彼は自分の小説が正しく読まれていないということを十分に承知していて、確か『小説の自由』という著書は僕の小説を解説してくれる人がいないのなら自分で書いてしまおうという意識があったとか、なかったとか。初めて保坂和志の『カンバセイション・ピース』を読んだときは本当にしんどかったけれど、今ではあぁ本物の小説家というものはこういうものかもしれないと、眉間に皺を寄せてながらも楽しく読んでいる。小説に流れる時間を読書という経験を通して共有することはとても貴重だと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学 / 男性
感想投稿日 : 2006年4月4日
読了日 : -
本棚登録日 : 2006年4月4日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする