自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

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レビュー : 33
著者 :
凪紗さん ☆心と体☆   読み終わった 

須原一秀氏。大阪の大学で哲学の講義をされていた先生で、2006年65歳のときに自死しました。
この本と自死決行は彼のひとつの『哲学プロジェクト』で、「一人称の立場での死の認識論」、現代人にとって、死にたくなったときや死なねばならなくなったときに読みたくなる本を書きたかったそうです。
上原隆氏の本で、彼のことを知りました。上原氏は彼の妻と息子と、自死を計画していたことを知っていた友人に会います。

きっとすごく変人なんだろうと思って読んでみました。ソクラテス三島由紀夫伊丹十三の気持ちはわからないけど、他のことはすべて納得いく内容でした。
批判の余地はまったくありませんでした。自死というと暗いですが、遺族もさっぱりしていて、mixiの彼のコミュに息子さんがお父さんの本を紹介しています。

最近渡辺和子さんの数年前に出た本を読んで、老いに向かう辛い気持ちが伝わってきました。
また、彼女のお母さんは絶対ひとの世話にはなりたくなかったけど、最後は施設(病院?)のお世話になった、認知症になっていたから自覚していなくてよかった、というのを読んで、それって本当にいいことなんだろうかと思っていました。
そしてこの本には渡辺和子さんみたいなキューブラーロスという聖女が登場します。彼女も実際に自分が脳梗塞になり死を間近にすると変化していきます。聖女であり続けるのが難しいのです。

そんなことを考えながら読んでいくと須原氏の死に方というか生き方はものすごく共感します。
でも自分がそういう方法を選択するかというと今の時点ではなんともいえません。
ちょっとケガをしただけで辛いし、海で二回ほどパニックになったときの恐怖の体験を思い出すと。
私が老人になったときには安楽死が認められているかもしれないし。
いちおう心にのこった文をコピーしておきます。↓


ここでいう「老人道」にはそのような泣き言を言う暇はない。人生を愛し、人生からの愛も素直に受け入れ、そして時折の人生の冷たさや厄介なわがままも耐え忍び、また時折は情熱的に与えてくれる人生からの愛に満喫し、やがてはそんな「愛の交歓」も永遠に続くわけではないことを悟り、間髪をいれずに死んでいく人間(以下省略)

「老人道的自死」は共同体からの逃避ではなく、共同体内で共同体の構成員として立派に生き続けていくために絶対に必要な「自尊心」と「主体性」を最後まで維持し続けるための「共同体内での生活の一環」と見ることができる。

少なくとも問題を本気で考えずに先送りして結局は周辺に迷惑をかけて無気力のまま自然死していく「受動的自然死派」の人々よりは敬意を表されてしかるべきであるし(以下省略。ただし著者は「積極的自然死派」には尊敬を惜しみません)

スーパーで嫁か娘に介護されつつも不機嫌そうに車椅子に乗っている90歳位のお年寄りに出会う時、そしてその生気のない顔を見るとき、自分がこのような状態に陥ることはないことにほっとしてしまう。

レビュー投稿日
2018年3月3日
読了日
2012年12月6日
本棚登録日
2012年12月6日
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