ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

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naichiさん サイエンス   読み終わった 

早いもので、もう4月。新しい年度を迎えて、新社会人、新入生など、新しい生活へと身を転じることになる方も多いのではないだろうか。

新しい環境に入ると、えてして慣れるまでに時間を要するものであるが、この要因の一つに文脈の把握に時間が掛かるということが挙げられる。話している言葉そのものは理解できても、本当の意味で理解できるようになるためには、その組織体の文化を含めた背景がきちんと理解されている必要があるのだ。ほんの些細なことでさえも、異文化間で解釈が大きく異なるということは起こりうるものである。

そんな中、本書の著者の異文化体験のユニークさは、群を抜いている。ブラジルの先住民、ピダハンの人々と30年以上に渡ってともに暮らし、彼らがどのように世界を見て、どのように理解しているのかを観察し続けたのだ。当初の目的はキリスト教の伝道師として、布教活動を行うこと。しかし、そこでの生活は著者の運命を大きく変えるようなものであった。

南アメリカ北部、アマゾン川を河口から南南西へ向かうとアマゾン川はやがてマデイラ川と名前を変え、南へと支流が分かれている。その支流のさらに支流となっているのがピダハンの母なる川、マイシだ。支流とはいえ川幅が200メートルにもなる大河であり、その川辺の約80kmくらいのエリアに棲む400〜500人の部族、それがピダハンだ。

ピダハンは羽毛飾りをつけないし、手の込んだ儀式もしない。ボディ・ペインティングもせず、アマゾンのほかの部族のようにはっきりと目に見える形で文化を誇示しない。いわゆるヤノマミのようなフォトジェニックさに欠けるのだ。しかし、その最大の特徴は、彼らが使用する言語そのものにある。

ピダハン語は、現存するどの言語とも類縁関係がないという。音素は現存する言語のなかで最も少ない11種類しかなく、その他にも多くの言語に見られる要素が欠落しているのだ。

まず数がない。そして物を数えたり、計算をしたりということもしない。また、「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。それだけでなく、左右の概念もない、色を表す単語もない、神もいないという、ないない尽くしなのである。

しかし本当に驚くポイントが、さらに2点ある。一つ目は、きわめて音素が少ないピダハン語だが、声調やアクセント、音節の重みなどを駆使し、口笛や鼻歌、叫び声や歌のようにさえ聞こえる言葉を発生するということだ。

これを著者は、「ディスコースのチャンネル(伝達の回路)」と呼んでいる。ピダハン語には5つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっているのだ。5つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり子音と母音を用いた語りだ。

口笛語りは狩りの時に使われ、ハミング語りはプライベートな語りの時、音楽語りは新しい情報を伝達する時など、文化的な用途に応じて語りが選択されるのだ。このような手段が存在するということは、文化が言語に多大な影響を与えているということの確固たる証拠とも言える。そして、この文化と音声構造の関係というのは、長らく言語学によって完全に無視されてきた領域であったのだという。

もう1つが、多くの言語学者が普遍的な文法の1つと考えていた「再帰」という形式を持たないということである。例えば、「魚を釣った男が家にいる」というような文を例に見てみよう。

「魚を釣った人物」という関係節が「これこれの男」という名詞句のなかにあり、それがさらに「男が家にいる」という文のなかに登場している。このような文や句が、別の文や句のなかに現れる入れ子構造は「再帰」と呼ばれ、言語に無限の創造性を与える基本的な道具であると考えられてきた。これがピダハン語には見られないのだ。よってピダハンの文章は、単純な構造の文章のみで構成される。

このことが真に重要なのは、大部分の人の思考のプロセスで当たり前のように行われている「再帰」が、ノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」、あるいはスティーブン・ピンカーの提唱した「言語本能」であるという定説に真っ向から反する事実であったということだ。文法というものが、遺伝子の一部という先天的なもの依拠しているのではなく、知性の働きの一部という後天的なものに依拠している可能性すら示唆しているのだ。

一体なぜ、ピダハンの言語はかくも特徴的なものとなったのか?著者の更なるフィールドワークにより、このピダハンの言語を規定している決定的な要因が「直接体験」というものにあるということが、導き出されてきた。ピダハンの言語と文化は、直接的でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。

この原則に依れば、ピダハンが実際に見ていない出来事に関する定型の言葉や行為を退け、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌うということの説明がつく。数や色がないことも、その一例である。これらは直接体験とは別次元の、普遍化のための技能であるからだ。

その代わりに、実際に経験した人物、あるいは直接聞いた人物が、その価値や情報をできるだけ生の形で言葉を通して伝えようとするのが、ピダハン特有のコミュニケーションということなのである。

このような思考様式を持っているからこそ、ピダハン社会は外の世界の知識や習慣をやすやすと取り入れないようになっているとも言える。実際に、宣教師として訪れたはずの著者は、キリスト教の布教を断念し、なんと最終的には無神論者へと鞍替えしてしまうのだ。

そして本書が問いかけているのは、我々がこのピダハンの特異な文化を、どのように受け止めるべきなのかということでもある。僕は、この「直接経験の法則」に基づく言語を、「言葉の断捨離」と位置付けたら、その捉え方も大きく変わってくるのではないかと感じた。

ピダハンはその法則に基づき、自分たちの思考の範囲を「今、ここ、自分」に絞っている。このことによる機会損失はもちろん否定できないのだが、同時に不安や恐れ、絶望といった西洋社会を席巻している厄災をも、ほとんど取り除いてしまっているのだ。

事実、ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業界の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないのだという。また、著者自身、ピダハンが心配だという言葉を発することですら、聞いたことがないそうだ。

これに倣えば、我々が普段口にする発言の内容を「今、ここ、自分」に絞り込むことによって、さまざまな弊害が消え、毎日の気分が軽くなる可能性だって否定はできないと思うのだ。

今日、世界には6500ほどの言語があり、その半数が今後50年から100年の間に消滅する恐れがあるという。すでに400人を割っているとされるピダハン語も、その一つだ。そして、これらの消滅言語が一体なぜ残されなければならないのか?本書は、そんな疑問に対するシンプルな解答も提示している。そこには、消えてしまっては二度と取り戻せない、生きるための智慧があるからなのだ。

レビュー投稿日
2012年4月2日
読了日
2012年4月2日
本棚登録日
2012年3月23日
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