ロラン・バルト 喪の日記

  • みすず書房 (2009年12月23日発売)
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感想 : 10
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 2009年2月にスイユ社から出たばかりのロラン・バルト『喪の日記』が、早くも邦訳刊行された(みすず書房)。翻訳家たちの完璧主義とやらが災いしているのだろうか、世の中には、何年十何年と訳者の書斎で居眠りを続ける洋書が多いというのに、今回の早期刊行は非常に喜ばしいことである。

 バルトという人は周知のように、みずからの家庭を持つことはなく、「生涯で唯一敬愛した女性」である母親とずっと二人暮らしをしてきたが、1977年10月にその母がついに病死する。そして1980年の2月に起きた交通事故が、彼自身の命をも奪ってしまうわけだが、母の死の翌日から悲嘆と孤独の心情を綴りはじめた『喪の日記 Journal de deuil』と名づけられたカードの束が、死後、IMEC(現代刊行物研究所)によって厳重に保管されていた。没後30年近くが経過し、日記に登場する関係者のプライバシーが問題視されなくなったと思われる中、このカードの束をIMECの研究員がまとめた本書は、バルト著作史上もっとも悲痛な作品となった。単なる肉親の死という理解では片付けられない悲しみと自殺衝動が、単純なことばの集積の中に何度もくり返される。

“10月31日 今までにない奇妙な鋭さをもって、人々の醜さや美しさを(街路で)眺めてしまう。”(29頁)
“11月11日 ひどい一日。ますます不幸だと感じる。泣く。”(47頁)
“1978年5月28日 喪の真実は、単純そのものである。マムが死んでしまった今、わたしは死のふちに立たされているということだ(わたしを死から分かつのは、もはや時間だけである)。”(133頁)

 しかし、わずかな変化の兆候が現れる。悲嘆だけに染められていたことばがやがて、写真をめぐることば、写真についての本を書くことへの希望へと変化していく。のちの『明るい部屋』の構想みたいなものの始まりである。書くことだけが、バルトを支えていたことがわかる。

“1978年6月13日 けさ、やっとのことで写真を手にとり、一枚の写真に心ゆさぶられる。少女のマムが、おとなしく、ひかえめに、フィリップ・バンジェのかたわらにいる写真だ(シュヌヴィエールの温室、1898年)。涙がでてくる。自殺したいという思いさえなくなる。”(107頁)

 このようにして私たち読者は、晩年の代表作『明るい部屋』が生成される、その初期衝動を悲痛なドキュメントとして受け取る。私たちはすでに、彼自身の突発的な死が、もうそこまで近づいていることを知っているわけであり、まるで悲劇の舞台を最終幕から逆算して観ているかのような奇妙な感覚に襲われるだろう。しかも、その後の『明るい部屋』のスピーディな完成が、なにか喪の完遂、昇華のようなものにはなり得なかったという事実をも知っているのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 現代思想
感想投稿日 : 2010年9月15日
読了日 : 2010年1月16日
本棚登録日 : 2010年9月15日

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