この熱を、どうにもうまく消化できず、次に読む作品はどれにしようと本棚の前に来ても、ぶるぶると溢れてくるこの熱が、次の作品へといこうとするわたしのこころを、ひっぱる。
2020年に読んだ作品の中で、一位二位レベルの作品かもしれない。
これまで村田紗耶香さんの作品をそれなりに読んできたけれど、これほどまでに物語に呑まれ、苦しくなったことはなかった。いつも、彼女が作り上げた世界の中で、「確かにこういう世界だったらそんなこともありえるかも」と、少し客観的に見つめていた部分があったからだ。
でも、この作品は、ずきずきと心と感情が疼いた。心を、ズタボロにかきむしられた。冷静に読んでいることなんてできなくて、久々に平日に夜更かしをして、仕事中も早く続きを読みたくて休憩時間が待ち遠しく、一気に引き込まれてあっという間に読了。
思春期の一人の女の子が、成長することに対して恐れ、スクールカーストに脅え、その中で本当の自分の気持ちを見つけるまで、痛く、苦しい毎日を、気持ちをすり減らしながら必死に足掻いている。屈折して、最後は苦しみの中にその感覚が放射して、再度収束していくような。
名付けようのない感情が沸きだしては、わたしの心の器ぎりぎりでゆたゆたとゆらめいている。物語のラスト、その感情は完全に溢水して、からだじゅうのそこここまで染みわたり、やがて熱となって、身体の中と外に、残る。
あの頃の自分を思い出す。学校という戦場に、駆りだされる日々。教室の中に無条件に存在するヒエラルキー。下から数えた方が早いグループに所属していたわたしは、しかしなぜか、塾や部活では「上」の人たちと過ごしていた。「上」の人たちは、教室の中にいなければ、普通に話をしてくれた。いや、普通に話すことができた。この、呪縛から解放されたような感覚は、自分がそう感じているだけなのか、事実、彼女たちの態度が懐柔していたのか。
いずれにしても、事実としてわたしの中学時代は死んだ方がマシってレベルでしんどかった。それに、わたしを苦しめた彼ら彼女らは、成人式で再会した時には、何もなかったかのように接してきたし、友人の葬儀で再会した時には、「変わらないね」と、安堵するような笑みすら浮かべていた。だったらなぜ、当時その笑みをくれなかったの。どうして昔は、その「変わらなさ」をなじったの。
東京で生活している今、学歴なんてたいして価値がないと思いながら生きている。結婚していないこと、子どもを持っていないことにコンプレックスを感じつつも、自由でそれなりに楽しく生きている。しかし彼ら彼女らに映るわたしは、その学歴や職歴は華々しく、結婚していないことはかわいそう。唯一、わたしを守ってくれたのは、たいして価値がないと思っていた、学歴だけだった。
そんなことを思い出した。
解説は西加奈子さん。この作品を読み始めた当初わたしは「村田紗耶香らしくない」と思っていたけれど、そうじゃない。解説で西さんが「村田紗耶香の『村田紗耶香性』が綺麗に引き延ばされ、そしてその核が少しも薄まっていない」とおっしゃっているように、いわゆる彼女のクレイジーさが突出ではなく、ゆるやかに「引き延ばされて」いるのだ。それによって、「村田紗耶香の入門書としても、永久保存版としてもふさわしい」ものとなっているのだ。この表現は本当に的を得ていて、わたしは今後、彼女のおすすめの作品を問われたら、間違いなくこの作品を挙げるだろう。
次は、そんな西さんの「さくら」を読もうと、本棚の前、熱の中で、決意する。
- 感想投稿日 : 2020年9月17日
- 読了日 : 2020年9月11日
- 本棚登録日 : 2020年9月17日
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