キップをなくして (角川文庫)

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本棚登録 : 431
レビュー : 48
著者 :
newtongakuinさん 国語   読み終わった 

初めて一人で電車に乗ったのはいつのことだったろう。誰もがどこかで経験しているはずなのに、あまり覚えていないものだ。大きな声を出してキップを買うところからはじまり(昔は自動券売機なんてなかった)、改札ではさみを入れてもらい(そんな優雅な儀式があった)、行き先に向かうホームをまちがいなく選び、車両に乗りこむ。いくつ目の駅で降りるかを頭の中で復唱し、車内アナウンスに聞き耳を立てる。降りる駅が近づいてくると妙にそわそわして落ち着かなくなり、いざホームに降りたら、今度は正しい出口をさがすために目を皿のようにして表示をさがす。そのかんずっと手にはキップを握りしめている。母から言われているからだ。「キップをなくしちゃダメよ。キップをなくすと駅から出られなくなるから」と。
時に母親のひとことは子どもの心に甚大な影響を及ぼす。いや、本当に。あるひとことにおびえて、夜中に3メートル先のトイレに行くことにすらたじろいでしまうのだから。キップをなくすと大変なことになる・・・その強迫観念は子どもを緊張させる。
が、しかし、じっさいキップをなくしたらどうなるのだろう? 子どもだった自分はキップをなくすことにおびえていたけれど、その先に待ち構えている世界を具体的に思い描いていたわけではなかった。小説家・池澤夏樹はきっとキップをなくしたにちがいない。そのとき幼いころの母の言葉を思い出したにちがいない。駅から出られなくなったらどうなるのだろう? そこにはどんな世界が広がっているのだろう? 小説家の自由な空想力に羽がはえ、一遍の小説が出来上がった。そんなことを空想します。
山手線で恵比寿から浜松町に向かう途中でキップをなくした少年イタルは同じようにキップをなくした子どもたちと東京駅で一緒に暮らすことになります。彼らは「駅の子」と呼ばれ、電車通学する生徒たちを危険から守る仕事をしています。「駅の子」の中に、一人だけ何も食べない女の子が登場します。彼女がこの小説の鍵をにぎっています。イタルはそこでの経験を経て、ひとまわり成長しますが、児童文学としてはめずらしく「死」のテーマを大きく扱います。それも「死」を受け入れるという、深く複雑なテーマを。ファンタジーの要素を持ちながら同時に、目を閉じ静かに考える時間を持たせてくれる小説ともいえます。作家じしんはこの小説を「東京駅の『十五少年漂流記』」と表現しています。小学生から大人まで、それぞれの読み方で味わえる作品だと思います。

レビュー投稿日
2013年3月25日
読了日
-
本棚登録日
2013年3月25日
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