小説から遠く離れて

  • 日本文芸社 (1989年1月1日発売)
本で見る
3.56
  • (4)
  • (2)
  • (9)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 72
感想 : 5

 どうしてもはすみんのを読み終わった時ってはすみん的修辞法を用いて内容をまとめたくなってしまうのだけど、それって単純によくわかっていないだけなのよね、ということで今回はその誘惑に抗って書いてみる。
 はすみんはここで、80年代に書かれたいくつかの小説、それも井上ひさし、村上春樹、丸谷才一、村上龍、中上健次、大江健三郎といった日本を代表するような純文学フィールドの作者が書いた小説を取り上げ、それぞれまったく関連性を持たないにも関わらず、そのどれもが同じことを繰り返しているように見えることを指摘する。
 たとえば文学というのは、一見同一のことの繰り返しに見えても、個人の語りによって、無数の語り方ができるもので、そこにこそ価値があると考えられる、そういう意見がある。これは別に突飛でもなんでもない、現代では当たり前の考え方の一つではあるけれども、その語り方の差異というものが、果たして根本から差異足り得るのか、問題はそこにある。で、それが一見差異であるかのように見えても、物語の磁場を脱し得ていないのであれば、つまり物語に小説が従属するという力関係が見出せるのであれば、その語り方は結局小説としてというよりは、物語としての機能に留まるものとなる。
 はすみんはここで、井上ひさし、村上春樹、丸谷才一をこの類に属する作家だとする。彼らの語り方はそれぞれに独特ではあるけれども、それは物語に対して同一方向の変化しか与えず、だから物語というものの機能性はまるで失われていない。彼らの独特の語り方はその機能に対して同方向にしか働き得ないのであって、そこでの力関係は物語>小説となってしまう。
 これに対して、中上健次や大江健三郎はどうかというと、彼らの語り方は、勿論物語になぞるということから逃れることは原理的に不可能でありつつも、そこに重ねられる言葉はもはや物語の機能性に対して貢献しようとはしない。むしろ、物語をなぞりつつもそれを否定するような運動がそこには見られるのであって、それこそが小説が小説らしくあるための条件であるのだ。中上健次は『枯木灘』で秋幸に起源のない私生児でありたいと望ませる。父の血を受け継ぐことなく、しかし父の想像する神話的な一族の流れに接続されたものとして、存在したいと願わせる。そしてそれはそのまま小説のあり方と重なるのだ。異端の私生児として、父を持ちながら父を持たないことを望む小説。それは物語として生産されることではなく、小説として交通されることを望む。交通ということは、コミュニケーションということであり、それによってのみ、共有された物語の土台を揺るがし、物語というものに対して小説が優位性を保つことを可能にする――それは本質的に不可能な運動であるかもしれないけれど、物語の類型が無数に記録され、いずれ語りなおされることを不可能とする時代が到来することが見えている今、やはり求められるべき一つのあり方なんじゃないか。まあそんなところとして理解しました。
 物語の類型、なんて言葉そのものがどうしようもなく廃れて、類型と戯れる、とかそんなとこまで行き着いている今、果たして著者の掲げるような「小説」から遠く離れた小説が消費され得るのか、とは誰もが思うことでありながら、ただその消費のうちに小説の自由さが失われていることにまで、不感症になってしまえばそれは単純に勿体無い。自由な小説はどこまでも自由であり続けるべきだしそう信じて書かれる場所がなければ。理想論だとしてもちょっぴり元気付けられる一冊だったという感じはします。ただ、ひたすらだるそうに悪罵を盛り込んで続いていく文体は、感じる精神的疲労も半端なものではないから、用法には注意が必要。よっぽど共鳴しそう、という予感がある人以外はむしろ読まないのが吉かもです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: エッセイ
感想投稿日 : 2011年11月25日
読了日 : 2011年11月24日
本棚登録日 : 2011年4月19日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする