放送室 第214回 さだまさし - 償い
http://www.youtube.com/watch?v=I4PVj-x8K_E

 ↑を観て、「償い」という唄を知った。CDは持っていない。

 以下。その唄「償い」の感想。

 この唄を聴いて泣けるという人がいるようであるが、私はそうは思わず、面白いなと思った...私はヘンなのであろうか。

 それと、今の時代はラブソングばかりでつまらないと思っている人もいるようで、それには私も同感で、だからこうした唄がもっと増えてくれたらなと思う。〔平成22(2010)年2月15日〕

カテゴリ 音楽

 観たのは映画(レンタル)であるが、
 思ったのは、何故に小山ゆうはこうした漫画を描いたのであろうか、と。
 決して悪い意味ではなく。〔平成22(2010)年2月15日記〕

2010年2月15日

読書状況 観終わった [2010年2月15日]
カテゴリ 映画

 ビジュアルなものやテクニカルなもの、
 そういったものはあまり好まず、
 クラシックなものを好むところが私にはある。
 そういった人間であるため、
 こうした作品に食指が動いたのであろう。〔平成22(2010)年2月14日記〕

2010年2月14日

読書状況 聴き終わった [2010年2月14日]
カテゴリ 音楽

 ドラゴンクエストシリーズの中で私の一番好きな作品。
 当時、このロム容量で、このような章仕立てのストーリーに感動した人もいたという話を聞いた事がある。
 今となっては、この程度の容量はとても少ないのであろうが。
 その事を踏まえた上で、本作をプレイしてみると楽しみが広がるのではないかと思う。〔平成22(2010)年2月14日〕

2010年2月14日

読書状況 プレイし終わった [2010年2月14日]
カテゴリ ゲーム

 古いものを好む、という性格が私にはあったりする。
 そういうのもあってなのだろう、こういう本に惹かれたりするのは。
 そしてその性格は今でもあまり変わりようは無い。
 そこで思う事を述べれば、
 表層にあるものに囚われる事無く、
 深層にこだわろうとし、それを見出す事、
 その作業に従事する事、さすれば人は自然に保守化していくのではないかと思う。
 単なる懐古趣味を気取るのが保守ではない...いや保守であったとしてもよいにしても、その場合、保守は信用できる概念であると私は考えない。
 ともかくそうした態度を有していれば、流行・新奇なるものを嫌おうと意識的に努める事はなく、無意識的に流行・新奇なるものを退ける構えが熟成されていくのではないかと私は考える。
 そしてそれは、気づけば歴史・文化・慣習・伝統といったものへの愛着へとなり、むやみやたらに文明に流さない生を確保し、精神の安定へと導くのではないか。
 その橋頭堡を築くための参考になる一冊ではないかと思う。〔平成22(2010)年2月14日〕

2010年2月14日

読書状況 読み終わった [2010年2月14日]
カテゴリ 思想

 テレビ番組「うたばん」でこの唄の存在を知った。
 買う気は無いが、
 こういう心情だったんだなと思ったりしたし、
 こうした芸能人の心情に興味があったので、本棚に入れてみた。〔平成22(2010)年2月11日〕

カテゴリ 音楽

 一時期は、こういうアウトローな書物を好んでいた事がある。
 今となっては、こうした本からやけに離れていったように思う。
 何故にこういう本を好んでいったのかと考えれば、
 命を張ったやり取りというのが格好良く思えたためなのか。〔平成22(2010)年2月11日記〕

2010年2月12日

読書状況 読み終わった [2010年2月12日]
カテゴリ ヤクザ

 最近、読み返している本。
 読み返していると、
 かつては持っていた大事な感覚が、
 今となっては失っている、そんな気がした。
 そう思うと、人生のバイブルと言える本を有しておく事、
 それが大事なのかなと思った。〔平成22(2010)年2月11日〕

2010年2月12日

読書状況 読み終わった [2010年2月12日]
カテゴリ 思想

 まだ観ていないが、いつか観たい作品。
 その理由は、多分私はブラマヨの漫才が好きではないかと思うため。
 もう一つの理由は、こういうのが幾らかウケる時代の流れになってくれた方が自分にとって都合がいいんじゃないかと思うため。
 ちなみに私は、チュートリアルよりはブラマヨの方が好き。
 その理由は、ブラマヨは男前では無いので。〔平成22(2010)年2月12日記〕

読書状況 観たい
カテゴリ お笑い

☆☆☆以下引用☆☆☆
 のっけから自分のことで恐縮であるが、小学生の頃、私はおおむね孤独を好むようにして生きていた。いや、他者との接触が否応もなく喧嘩沙汰に至るので、孤独に傾かざるをえなかったのである。中学生の頃は、遠方からの汽車通学のために独りになることが多く、一時とはいえ万引きに耽るというような形で、少々不良化していた。高校生の段階では、妹を交通事故に遭わせるという失策をやったこともあって自閉的でありつづけていた。
 その自閉症の気味を打ち破りたいという衝動に駆られてのことであろう、大学生になると、政治運動に参加し、二度逮捕され、三つの裁判で被告人をやっていた。被告人になると同時に政治運動はやめ、また独りになった。家族や友人の付き合いなしに、物質的に最低の暮らしをしながら刑務所に入るのをただ待っているというのも、「小人、閑居して不善を為す」の一種であったとしかいいようがない。
 妙な具合で刑務所にいかずに済むことになり、そして学者の職業に就くことになった。だが、自分のやっていた学問分野がとてもつまらないものだと思われはじめ、そこからの脱出口がみつからぬという苛立ちのせいもあって、麻薬や賭け事を少々体験しながら、憂鬱な時間を過ごしていた。当時、高校時代のたった一人の親友であった在日朝鮮人が暴力団の行動隊長のようなことをやっていて、そうしたアウトローとの付き合いだけが私の生活に緊張感を運んでくれていた。
 仕事の上での脱出口の見当が何とかついたあと、留学と称する精神の休眠状態に入り、国に戻ってきて、日本における「戦後的なるもの」が高度大衆社会の徒花となって咲き誇っていることに精神的な嘔吐を催しはじめたときに、私はもう四十歳代になっていた。その代が終わりに近づく頃、訳あって所属大学と喧嘩しなければならなくなり、それから十二年間、主として評論家という世間からは蛇蝎のように嫌われる、また嫌われて当然の、職種のあたりをうろうろして今に至っている。
 敗戦とともに自意識というものを持つこととなった私の人生はいつも世間からずれていた。その意味でならば私は不道徳漢であったし、またそうであることに居直って、我ながら制裁を受けて然るべしと思うしかない行為に走ることも間々あった。私の心理の奥底には、どうも、制裁を受けてみたいと思う性癖があるようでもある。その意味では、軽率を美徳とみなす不徳の気味が私にはある。だから、いくらつまらない時代とはいえ、よくもこういうつまらぬ人生を送ってきたものだ、という虚無の気分が、ごく軽いものではあるのだが、私の脳髄に黴のようにとりついていることも否めない。(3~4頁)
☆☆☆引用終了☆☆☆

 この箇所を読んで、当時の率直な感想を述べれば、
 「知識人にも、面白い奴がいるんだな」と思った。
 それ以前までは、私は知識人や学者をどこか毛嫌いしており、
 これを読んで以降、知識人や学者を幾らか好意的に思うようになった。
 我が人生としては、この著書が私が読書家の道へと向かわせる動機の一つになった一冊のように思う。(2010年1月26日記) 

2010年1月26日

読書状況 読み終わった [2010年1月26日]
カテゴリ 思想

 このゲームが発売されて間もない頃、このゲームの映像に圧倒された、そのように感じた人も多かったのではないかと思う。

 だけども私は、なんというのか、こうした映像・技術に対し、冷めてきたというのか飽きてきたというのか、そういう事を感じていた。

 そういう事を感じたりするが故に、こうした技術的な事柄よりも思想的な事柄にへと興味関心を駆り立てられたのだろうか、と思った。

 そんな事を何故か最近になって思い出した。
 その意味で思い出深いゲームである(2010年1月26日記)

カテゴリ ゲーム

 撮影技術であるとか特殊効果であるとか、そういう点では、当時としては凄いものであったのだろう。

 ただ、私個人の趣味嗜好としては、こういう作品が好きか嫌いかといえば、嫌い。

 ただ、こういう映画はこういう映画で、あってもいいとは思う。(2010年1月26日記)

2010年1月26日

読書状況 観終わった [2010年1月26日]
カテゴリ 映画

 唄っている時、客の顔やリアクションを観て、
 こういう事を考えているのかなとか、
 こういう事を思い出しているのかなとか、
 そういう事を想像するのが、ライブをするミュージシャンにとっての楽しみなのかなと思った。(2010年1月23日記)

2010年1月23日

読書状況 観終わった [2010年1月23日]
カテゴリ 音楽

あっけない最期にジーンとし、
そして、爆笑した。(1月20日記)

2010年1月20日

読書状況 読み終わった [2010年1月20日]
カテゴリ 小説

 忌野清志郎亡き後に発売されたアルバム。
 それに、これだけ長いこと唄ってアルバムを出しているフォークミュージシャンも珍しいのではないかとも思うし、
 私は、泉谷しげるが好きであるから、
 私としては興味があるアルバムなのである。
 世間的にはたいした注目されていないようであるが。(2010年1月19日記)

読書状況 聴きたい
カテゴリ 音楽

 本書を読んで、率直に思った事を3つ。

 ①司馬遼太郎は、自分が思ってたよりたいした事ないな。
 ②司馬遼太郎は、たいした想像力が無いな。
 ③これなら、俺の方が面白い歴史小説が書けるんじゃないか。

 ...この感想は善し悪しあるだろうが、ともかく思った事を書けばこうなる。

 「自分がつまらないものを周りが面白く感じ、自分が面白いものは周りはつまらなく感じているのだろうか」と思い、
 「この世から、自分が楽しめるものがどんどん無くなっていくのではないか」というちょっとした危機感に襲われる。

 私がブクログを再開したのは、そういう理由もある。(1月19日記)

2010年1月19日

読書状況 読み終わった [2010年1月19日]
カテゴリ 小説

 ある時、ブログで映画感想を書こうと思い、参考になる本はないかなと思い購入したのが本書。

 感想を言えば、
 「俺がやりたそうな事を、こいつが先にやっちまいやがった」という気がなんだかしてきて、
 私がブログで映画感想を書く気を失わせた一冊。(2010年1月17日記)

2010年1月17日

読書状況 読み終わった [2010年1月17日]
カテゴリ 映画

 「俺はもう我慢ならねぇ。もう言わなくちゃ気がすまねぇんだよ!」とでもいう感情があって書かれたのかなという気がする一冊。

 そういう気がするので、思想書や学術書という意味合いで書いたというよりも、社会にインパクトを与えようという意味合いで書いたのではないかという気がするので、その意味で政治的な一冊ではないかと思う。ちなみにだから、おそらく、論理的には問題があるのではないかとも思う一冊。

 そのように私は思うので、本書が人々に何かしらの衝撃や印象を与えたとするならば、本書の目論見の一つは成功したという事になるのではないかと思う。(2010年1月17日記)

2010年1月17日

読書状況 読み終わった [2010年1月17日]
カテゴリ 思想

 STAY DREAM
 http://ja.wikipedia.org/wiki/STAY_DREAM

 ウィキペディアによれば、相当に荒んだ精神状態で製作されたアルバムなのではないか、と言われている。

 それもあってか、このアルバム内に収録されている唄が私の脳内に駆け巡っている時は、「今、自分の精神状態は荒んでいるのかな」と思い、自身の精神分析の指標となっている模様である。

 ちなみに、2009年12月31日以降の自分のブログ(http://siawasenotameni.blogspot.com/)は、このアルバムを聴いているうちに、ブログでこういう事をやってみたいという気に駆られ、やってみたという次第である。(1月17日記)

2010年1月17日

読書状況 聴き終わった [2010年1月17日]
カテゴリ 音楽

 何故に私がこのCDアルバムを購入したのかと言えば、私が長渕剛ファンだあからである。

 そう書くと、長渕ファンなのに何故に桑田佳祐のアルバムを購入したのか、そう思われるのかもしれない。

 その理由は、そのアルバム内に収録されている唄「すべての歌に懺悔しな!!」が長渕の事を指しているのではないか、もう少し言えば、長渕の悪口なのではないか、そういった話が私に聞こえてきたからである。

 中には、その唄は長渕の事を指してはいないであるとか、長渕以外のミュージシャンも含めているであるとか、そういった事が言われたりもしているようであるが、私の見解を述べると、理由は省くが、私は長渕のみを対象にした唄であると思っている。

 ちなみに、その唄を巡る騒動について興味ある方は、以下のサイトを観るとよいと思う。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%A8_(%E6%A1%91%E7%94%B0%E4%BD%B3%E7%A5%90)

 で、その唄の率直な感想を述べると、桑田に対して「なんだこいつは?」と思った。(2010年1月16日記)

読書状況 いま聴いてる
カテゴリ 音楽

 本書は、面白いほどよくわかる孫子の兵法、と題される。
 
 面白いほどよくわかる本なのかについては、私には分からない。だけども、難解というわけでもないと思う。
 
 本書は孫子の兵法を引用し、そしてそれに戦史の事例を照らし合わせている。本書の後半には、孫子の兵法を全文掲載し意訳も付いている。
 
 本書の「はじめに」の方では、「現代社会は、ビジネスなど、さまざまな戦いの戦国時代である」と書かれている。実際に現代社会においても、孫子の兵法は有益なのだろう。だからこそ、現代に生き残る古典となっているというのだと思う。
孫子の兵法は、2500年も前に書かれた世界で最も古い兵法書であるのだという。時代を経ても、孫子の兵法に書かれたことは色褪せてはいないという事なのだろう。
 
 第1章は“知っていそうで知らない『孫子の兵法』”と目される。日本の戦国武将も愛読の兵法書、東洋と静養の考え方の違い、などが書かれている。
 
 第2章は、“不敗の原則はここにあり―勝つための心構え”と目される。冷静な状況判断が勝利を導く、数百倍の兵力差で勝つ方法、などが書かれている。
 
 第3章は、“事前の情報収集と状況分析が勝敗を分かつ”と目される。スパイは軍事行動の要だと主張、情報収集の成否が戦いの雌雄を決する、などが書かれている。
 
 第4章は、“変幻自在の戦いが勝利をもたらす”と目される。前面衝突だけが戦い方ではない、敵を打ち倒すことだけが戦いではない、などが書かれている。
 
 第5章は、“戦いに勝ち抜くためのリーダーの条件”と目される。資質の疑われるリーダーは破滅を招く、民意を無視した戦いに勝利はない、などが書かれている。
 
 孫子の兵法で有名な言葉に「戦わずして勝つ」というのがある。そしてその孫子の兵法の全体において、この「戦わずして勝つ」という考え方が貫かれている、そう感じた。

2006年2月21日

読書状況 読み終わった [2006年2月21日]
カテゴリ 戦略

 自由という言葉は、私個人にとっては、どちらかというと嫌いな言葉である。
 
 過度に自由が抑圧されているという事であれば、自由に価値を見出すのは理解はできる。しかし、そうではないということなら奇妙な感じがする。それは思うに、自由以外に価値を感じる事ができなくなったのではないか、などと私は勘ぐってしまう。
 
 佐伯氏はイラク人質事件の事を引き合いに出し、自己責任について語る。そしてその事件から、その個人の自由は政府、国家によって支えているということになる、と述べる。
 
 どういうことかと私なりに説明すると、たとえ個人の自由意志だからといって異国の地に銃弾が飛び交う危険地帯に侵入しても、それを自己責任だからという理由だけで国家が放置してはならないという道義的な理由が生じる、という事だ。
 
 「自己責任」といっても、必ずしも「自己のみ責任」にとどまるというわけでは無いわけだ。自己責任といっても、とある何かに波及していく。
 
 自由によって秩序が支えられている面もあるのだろう。だが、一方では自由によって秩序が脅かされる一面もありうる。そのように考えれば、個人に自由をどこまでも委ねる事はできないであろう。
 
 ホッブズは契約論において、自然状態において人間は無制約に自由であり、社会状態では人間は権力に服する限りで自由な活動ができる。そのような事を言ったのだという。
 
 だがこの場合はどうなるかといえば、人間は私的利益を求め、公的事項に携わらなくなる。だからそれでは、個人の自由による弊害が生じ、「国家の論理」と「個人の論理」の対立が生じる。そうならないために、佐伯氏は「公のために何かしなければならない、というエートスがどうしても必要となる」のだという。
 
 本書は「自由とは何か」と題される。自由というものを考える上で、参考になる本だと思う。

2006年2月21日

読書状況 読み終わった [2006年2月21日]
カテゴリ 思想

 まえがきによると、“本書は、一般的な意味での「三国志」解説本ではなく、「北方三国志」をより一層楽しむための手引きとして企画されたもの(6頁)”との事である。
 
 本書には、北方謙三氏のインタビューがあるので、北方三国志をより楽しむための本にはなっているのだと思う。
 
 ただ、北方三国志を読む前に本書を読んだ方がいいのか、北方三国志を読んだ後に買った方がいいのかとなれば、どちらかといえば後者だろう。北方三国志を読み終えた後、北方謙三氏がどういう考えや思いを込めて三国志が書かれたのかと、想像するのに役立つと思う。
 
 とはいいながらも、私は実は北方三国志を全ては読んでいない。それで、この本書で北方謙三氏がどのような三国志を書いたのかと想像して楽しんだ。
 
 北方氏は、馬超を最後まで生き残らせた。なんでも史実には、はっきりとした馬超の生死は分からないらしい。列伝には「馬超は死んだらしい」と書かれているらしい。そこで北方氏は馬超を生き残らせて、三国時代とは何だったのかというものを見極めさせる人間として設定したのだという。
 
 私は、漫画家の横山光輝氏の三国志は全巻読んだが、その他の作家はどのような三国志を書いたかは知らない。だけども、そのように馬超を設定したのは北方氏ぐらいではないか、とは思った。
 
 私が思う北方三国志は、一風すると変わっているのだと思う。かといって、ただむやみに奇異ではない、と思う。北方氏のインタビューを聞いてそう感じた。

2006年2月15日

読書状況 読み終わった [2006年2月15日]
カテゴリ 小説

“コンピュータが道具だというのは、わざわざ識者に言われるまでもない常識である。だが、なぜそれを、識者と称される人が、あえて言わなければならないのだろうか。その方がぼくには気にかかる。(28頁)”と奥野氏は言い、

“識者がわざわざ「道具」だと強調するのは、彼らはコンピュータを使っているうちについつい「道具」以上のものにみえてしまうという識者らの恐怖を告白しているように思えてならない(28頁)”と奥野氏は言う。
 
 道具または機械は多種多様であろう。そして時を経るにつれ進化されたり発明されてきたというのが、道具・機械の歴史なのではないかと思う。そしてその道具・機械を用いたり頼ったり振り回されたりと、正と負の両面があるのだと思う。
 
 また“人間が道具を一方的に使うのでなく、道具が人間の発想に影響し、人間の発想を解発する。コンピュータは、人間の道具として、人間の発想過程に入りこみ、人間の脳と協調して人間に発想させる。このような脳とコンピュータの「融合」が、近未来には様々な領域で起こってくるだろう。(30頁)”と言う。人間とコンピュータ(道具・機械)の在り方・付き合い方を考えさせる本なのだと思う。

“マクルーハンにしても、ウィーナーにしても、ドーキンスにしても、一方で強引なまでに「人間機械論」を主張しておきながら、最終的には、人間が機械とはぎりぎりのところで「決定的に違う」と必死で言いたがる。おそらくそれは、彼らが西欧の近代的価値観にとらわれているからだろう。 
 ぼくたちに必要なことは、その西欧近代主義の価値観から、人間と他の生物、あるいは機械との違いを強調することではなく、遠いぼくたちの祖先がほかの動植物と交わしていたアニミズムの世界を、近未来の情報環境に取り返すことだ。
 かつて、東アジアに住む人々が、自分たちの周りの動物や植物、草木虫魚とあまねく話をしていたように、今日、この地域で電子機械が環境化するとともに、そこに生きる若者たちは、クルマやケータイ、コンピュータ、ロボットなどと親和的な関係をもっている。これを、今日のアニミズム、つまり「テクノ・アニミズム」と名づけることができるだろう。(45頁)“

2006年2月10日

読書状況 読み終わった [2006年2月10日]
カテゴリ 思想
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