「備忘録」という名の醜い意志の塊(ただし、エロ本は除く)

もう1年以上前になるか、縁あって成毛さんにインタビューに行くという企画に同席させてもらったことがある。小一時間喋って、面白い人だなぁという印象を受けて帰ってきた。で、その後時は流れ、先日たまたま空いた時間に本屋に行ったらこの本が平積みになって置いてあって、これも何かの因縁と買って読んでみた次第である。結論から言うと、飲み屋でおじさんから説教されているような気分になる本だ。8割方は「なんでぃ!」と心の中で舌打ちする。残りの2割、たまに良いことも言ってるのでその辺は心に留めておく。本の読み方の方法論なんかは、別にその人のスタイルがあってよいと思うので、「この本を読んで、一遍に10冊本を読むようになりました」というような人がいたら、それこそ庶民だと思うが、例えば本に向き合う姿勢とか、読んだものを自分の中にどう生かしていくかとか、その辺の部分は非常に示唆に富んでいたと思う。とりあえず気になるのは、この本を誰が買うんだろうという疑問で、本を好きな人は今更こんなこと言われなくても分かってるだろうし、本を読まない人は当然この本も読まない。うーん、全国にどれだけ成毛ファンという人がいるのだろう。この本がベストセラーになったら、それこそこの国は終わってると思う。

2008年3月8日

カテゴリ その他

『蹴りたい〜』よりもずっとよかったと思う。あくまで、個人的に。私の卒業論文のテーマは「なぜ、若者は“夢”を持つことを強いられるのか」だった。一方で、本作が語りだすのは、「夢を与える」側の、ある種の偶像的な崇拝の対象(まさにアイドル!)の悲哀である。どちらにも通底しているのは、「夢」という本来的には内発的かつ前向きな志向として発生するはずのものが、現実社会においては外部要因によって多様に決定され、またそれに起因して自己の内部に矛盾を生じさせるというプロセスにおいてである。「夢」を与える側とそれを求める側は、単純に二項対立的な構図では説明されえない。むしろ、そこに新たなz軸を持ち込み、より重層的な構図で理解しなければ的確に批判をしたことにはならないだろう。では、綿矢氏にそれが出来ていたかというと、それが結構微妙なところである。読み方によっては、それが充分達成されているとも思えるのだけれども、また違う側面から見れば、案外単純な指摘に留まってしまっているような気もする。一応留意しておくと、それは「夢を与えられる側の視点が入ってない!」とかいう類のいちゃもんではなくて、本当に彼女がこの本で書いたことが「夢を与える」という行為における回路の全てを網羅しているのかどうかという疑問だ。もちろん、全てを描ききることなんて不可能に近い。だが、「夢を与える」という作業が現代的に見て市井の人々にとっても大きな意味を持っていると思うからこそ、その主体の位置や行為の描写をよほど繊細に描かなければ、その作品がリアルなものになることは決してないと思う。まぁ、結局のところそれは書いた本人に聞いてみないことには分からないのだけれども、とりあえず綿矢りさという人がこの作品を書いたという事実は、例え同じようなテーマを扱っていようとも、私が密かに論文を書いたという事実に比べれば、その社会的影響力の外においても、極めて重要なことだといえるだろう。

2008年3月8日

カテゴリ 小説

「イヌによる現代史」という看板に嘘偽りのない、壮大な叙事詩である。視点のズラし方が壮絶に上手い。「これはフィクションだってあんたたちは言うだろう。おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?」。まさにその通りである。さすが、古川日出男。しかしながら、例えそれが虚構だろうと“現実”であろうと、そこに意味が存在しなければ、それは結局ただの文字の羅列になってしまう。この場合、従来語られてきた「ヒトの現代史」から視点をイヌに移動させることで、いったい何がどう変わったのか。果たして、「イヌの現代史」の中にイヌたちの主体性は存在したのだろうか。いつの時代も、詰まるところ「イヌの現代史」もまた、「ヒトの現代史」の論理に勝手に翻弄されてきたのではないか。あるいは、この物語を語りだす超越者然とした主体は誰か。宇宙に上ったライカ犬か、古川か、はたまた現在より未来の誰かか。そうした瑣末な部分にこだわってしまう人間としては、面白い、確かに面白いんだけど、で、それでどうするよ?というところで後一歩届かない、何かに。ちなみに、最初の方を読んでるときは「イヌ」ってなんかのメタファーなんじゃねぇの、と思ったりもしたのだけれど、どうだろう、やっぱりそれはちょっと安直過ぎる読みかなぁと、思ったり、思わなかったり。

2008年3月6日

カテゴリ 小説

多くの人がこの作品を読まずに死んでいくのだ、ということが残念に思えるくらいの傑作。ストーリー自体は「主人公の自分探しの旅」の物語なのだけれども、その過程で明らかにされる「歴史的事実」と、それが個人の内面に与える影響という点においては、ミハエル・ハネケの「隠された記憶」に似たところがあると感じた(コチラの方が多少大河ドラマっぽくなっているが)。本作はフランスの高校生によって決定されるというゴングール賞を2005年に受賞した作品だが、この小説を選ぶことの出来るフランスの高校生の教養力に脱帽である。筆者はレヴィナスの下で哲学を学んだ人なんだそうだが、高校生がそれを理解できるとはね。いやはや、さすがエスプリの国だと思ったけれども、それはあくまで本書の外での話。

2008年3月6日

カテゴリ 小説

帯で浅田彰が「新聞小説とはかくも面白い物だったのか!」と絶賛していたけれども、確かに面白い。400ページを越える長編作だが、ちっとも冗長ではない。作者渾身の力作である。ただ、ただ単に面白いだけ、という印象もどこかで拭えない部分もある。(これはあくまで私の印象だが)出会い系サイトという設定自体、少し時代遅れな感がするし、肝心の「悪人」の描写がもう一つだったかなぁ、と個人的には感じた。テーマ設定自体はすごく上手いし、提示の仕方も非常に私は好きだっただけに、もう一つ何かあったらなぁというスッキリしない印象が残った作品だった。

2008年3月6日

カテゴリ 小説

「長崎」というところには、何か普通とは異なった雰囲気があると思う。何て書くと長崎の人に猛烈に怒られるだろうけれども、8月の原爆忌の時だけでなく、長崎の町には静謐さと同時にある種の危うさのようなものが潜んでいるような気がして、例えば長崎市街は周囲を小高い丘で囲まれているわけだけれども、そこには住宅地の合間にポツポツと無数の墓地が林立していて、それが通常の生活空間にまで張り出してきているような気がして、何となく心が落ち着かない。それは単純に私の気のせいなのかもしれないけれど、青来有一の文章を読んでいると、そうしたある種の特異さというものがズバリ表現されているように思えて、あぁそういう印象を受けるのは私だけではないのだな、という変な安心感みたいなものを得ることが出来る。青来氏はその豊かな描写力でもって、それが長崎を舞台にして起こる必然性を感じさせる作家だ。だから、文章に力があり、そしてリアルだ。長崎という地を知っていれば、またそこが背負ってきた歴史的背景に明るい人であれば、それが土台に敷き詰められた物語にグイグイと引き込まれるに違いない。「長崎」という場所を見事に紙面に再現した本作、間違いなく傑作だと思う。

2008年3月6日

カテゴリ 小説

恐らくは、祖母井さんという人を知らない人が読んでも十分に面白い本だと思う(その場合は、若干自己啓発本チックになることは必死だけれども。苦笑)。かつて寺山修二はアンドレ・ジッドを引いて「書を捨て、町へ出よ」なんて言ったけれども、祖母井さんの本を読んでいて、思わずその言葉を思い出した。物事を実現する力とは、それが必ず出来ると信じて、迷わず行動することだなぁと、改めて中学生みたいな感銘を受ける。本書の中で筆者自身が言っている通り、そうやって行動することが様々な人脈や運を呼び込む原動力になるのですね。私も、書を捨てて出来る限り「現場」に向き合っていけるような人間になりたいものです。

2008年2月28日

カテゴリ その他

羽海野チカの新連載。「ハチクロ」の次のテーマが、まさか将棋指しの話とは!「ハチワンダイバー」といい、最近青年誌で俄かに将棋ブームだなぁ、と(しかも、明らかに村山聖だろこれ的キャラまで!)。内容としては、相変わらず作者のギリギリ感が伝わってくる感じで、個人的にはすごく好き、テーマも含めて。でもまぁ、まだ1巻なので、今後どう転んでいくか。噂では、これは「ラブストーリーになる」という話もあるけれども、出来ればそういう方向には転がらないで欲しいなぁと思う。

2008年2月28日

カテゴリ 漫画

『わたくし率〜』とは打って変わって、非常に小説っぽく読みやすい印象を受けるストーリーと文体だけれども、やっぱり内容は濃かった。川上未映子という人は、物語を語る「私」の位置づけを非常に上手いところにもってくる印象を受けるのだけれど、今回も巻子・緑子という親子関係を「私=ナツ」という語りの主体を通して非常に上手く描き出していると思う。芥川賞の際の山田詠美のコメントを借りれば、非常に「無駄口が少ない」ということになる。内容に関しては、『わたくし〜』の時と比べると非常に社会的なあり方で個人の内面を注視していて、個人的には『わたくし率〜』の時の社会性零度の世界をアプリオリに提示する作風の方が好きだったりもするのだけれど、「社会化」という形式を文学にするのであればこれしかないというくらいに上手くまとめられていて、この人の批判的文章表現には嫉妬したくなるほどだ。特に、最後の晩の描写は絶妙でしょう。最後に、蛇足であるけれども「これは豊胸手術のために上京してくる“女”の話ではないですよ」と、いまの都知事に言ってやりたい。単に母性や女性性といったものの批判に留まらず、それを包括的に支配する社会性というものを批判的に描いているという点においては、“障子破り”なんかよりもよっぽど高尚な作品であると、個人的には思うのだが。

2008年2月28日

カテゴリ 小説

「周辺視野が大切」という主張自体は理解できるものの、じゃあ一体何が「周辺視野」なんだというのは難しいところで、そこら辺の定義に関してはかなり曖昧な印象を受ける。筆者は「周辺視野」への気づきの重要性を述べる一方で、情報過多による混乱を回避することも必要であると述べており、上述の通り「周辺視野」に関する厳密な定義が存在しない以上、何が重要な情報であるかということに関しては非常に曖昧霧散、もっと言えば後付けの感が大きい。ただ、常に目の前だけを注視するのではなく、そこからこぼれ落ちている事象を勘案しながらビジネスを執り行わなければならないという「態度」は非常に社会科学的であり、改めてその重要性を認識させられるところはある。でもやっぱり、「強い会社は“周辺視野”が広い」というタイトル以上のことは言ってない気がするので、出来ればもう一歩踏み込んで欲しかったなぁというのが、正直な感想。

2008年2月28日

カテゴリ 経済・経営

なぜこの流れで舞城に来たかといえば、偶然に見たブログなどで「本作は『万延元年』の設定を借り受けている」と言われていたからであり、結論からいうと確かに設定的に似ていない部分がないことはなかったけれども、どうにもそのこじつけは強引過ぎで、内容的にもまぁこんなもんだろうというレベルで。とりあえず、いい意味でまとまってなくていいねー、というぐらいの印象しか受けなかったのは、結局ミステリーとしてはかなりB級だからという線が強いかも。

2008年2月27日

カテゴリ 小説

今更ながら村上春樹。タイトルから大江健三郎へのオマージュとして捉えられるが、個人的にはどこら辺がオマージュなのかさっぱりわからず。いや「分からず」という言い方は実に微妙なニュアンスで、確かに大江の「万延元年」と本作の主人公の特徴はよく似ているのだけれど(職業が翻訳家ということを除いても)、大江とハルキにおいて絶対的に異なっているのは彼らと「社会」の位置関係であり、それ故に「似ていないんだけど、むしろ相反することで因果関係が生まれている」というのが、私の個人的な感想。そういう意味では、本作は舞台になった70年代、あるいはそれが書かれた80年代のメンタリティをある部分で表現していたのかなぁと思う。

2008年2月27日

カテゴリ 小説

久々に小説以外を。私の友人で、朝鮮学校出身の在日コリアンなのに在日コミュニティの閉鎖性を批判する妙なヤツがいて、その人が「重要なのは、双方が妥協することなんだ」と言っていたのを本書を読んでいて思い出した。たぶん、その彼に言わせると朴裕河氏は相当に「中立的」な人だという風になるのかもしれないのだけれども、それはあくまで彼の微妙な発話の位置に影響される部分もあって、少なくとも自分自身が“純粋な”日本人であると認識する私たちは、間違っても本書を「中立」的な意見であると捉えてはいけないだろう、という話は巻末で上野千鶴子が述べている通りだと思うので、興味のある人は是非読んでいただきたい。とりあえず、細部の歴史認識に関しては流石に認識を異にする部分もあったけれども(私の知り合いの研究者はそれを「大問題」と言っていたけれど)、全体的に日本人にとってすごく耳障りのいい本だと思う。やっぱり元々韓国国内の読者に向けて書かれた本なので、若干韓国における従来の認識を否定する傾向が強い(というところが上記の上野千鶴子氏の解説に繋がってくる)。今月の『論座』(2008年3月号)に筆者のインタビューが出ていて、それを読む限り韓国国内での評判は予想に反して概ね良好なものだったようである。ただ、筆者曰く「それって、要するに本当に読んで欲しかった人は読んでないって事ですよね。苦笑」ということで、確かにまぁ本書の性格上その指摘は正しいだろうなぁと思うと、問題解決の難しさを酷く痛感させられる。でもまぁ、理想がどういう状態かということはさておくとして、恐らくはこういう努力を双方がしていくことが、「解決」というゴールに届く近道になるのかなぁ・・・という漠然とした期待は抱かせるものはある。まぁ、それに対する批判というのも、当然にあるわけだがね(ちなみに、筆者は大江健三郎をハングルに訳したりしているようで、微妙に1個前の書評から続いてたりもする。ただ、大江の翻訳をする人なら、もっと戦後日本社会論に明るくてもよかったんじゃないかなぁと思った)

2008年2月21日

カテゴリ 政治

話は暫く遡るが、町田康の『告白』を読んだあたりで、私以上に大変な読書家である友人が「阿部和重→大江→中上健次→ガルシア・マルケス→古井由吉と読みあがるべし」との指南をくれた。そのアドバイスに従って阿部和重の『シンセミア』を買ったのはいいのだが、如何せん重厚長大な外観をした文庫本4冊に思わず足踏みをしているうちに、気付けば大江健三郎の方を先に読み終わってしまった。という極めて個人的な事情はさて置くとして、確かに町田の『告白』と大江の本作は同じ系列に並べられるような類似性をもって我々に迫ってくるものがある。主題は極めて似ている。ただ両者において決定的に異なっているのは、大江の本作がまさに大戦後の社会変革・動乱期を経て安保闘争から全共闘に至るまでの大きな物語を敷衍させて書かれるのに対して、町田のそれは現代の地平において決して参照可能な対象を見出すことが出来ていないということではないだろうか。言い換えれば、大江において問題化される「不安」や「脅威」というものが、町田においては既に問題化される以前の根源的な問題としてアプリオリに設定されている印象を受ける。そして、大江がまさにそれを「時代」の問題性として描き出すのに対して、町田や古川日出男といった作家はあくまでそれを「個人」の問題として定置させ、それと社会のつながりの中でしか、ものを語ることが出来ていない。しかしそれは、決して現代作家に対する大江の優越を示すわけではなく、結局は1967年と現代の時間軸における「社会」の捉え方の相違に還元されるべき問題であって、例えば大江と町田をタテに並べる場合、単純にそこから受くる印象や物語の主題を比較するだけでは決して足りず、むしろ、対象とされる主題の合致に対して、それに対するアティチュードが大きく異なるという事態自体を問題化することが、本作を社会的に捉えつつ現代の時制に引きずり出してくる上で非常に重要なのではないかと、阿呆なりに考えてみた次第である。

2008年2月19日

カテゴリ 小説

2008年2月14日という日に、私は2人の人間の「生と死」に立ち会うこととなった。とはいっても、モデルになった人々こそいれど、両人ともあくまで虚構の世界の住人である。その日、私は夕方に映画「潜水服は超の夢を見る」を渋谷で見て、夜に荻野アンナの本作を読んだ。先に断っておくと、両方ともなかなかの力作だったと思う。毛色の違うこの両作を単純に比較することは余りに暴力的ではあるが、私という媒介を通じて同時に受容されたこの2つの作品を、ここでは強引に結びつけて理解してしまおうと思う。「潜水服〜」も本作も、共に一人の人間の「死」を巡る物語ではあるけれども、「潜水服〜」が「死」を人間的な孤独と結びつけて描写しようとするの対して、本作において「死」は人と人の<間>に存在する物として取り扱われる。それは単に語りの主体の位置の相違のみに起因するものではなく、両者の間に存在する絶対的な断絶として理解されるべきであろう(しかしながら、それは実は絶妙に紙一重なものであることを、我々は本作の“パタさん”の描写を通して知ることになる)。この両者は、決してどちらが正しいということはなく、実際には同時に成立するものであろうと、幸いなことに未だ身内が存命である私は貧困な想像力を働かせて思う。ただ、そうした同時並行的に進行し、そしてどこかで必ず交差することになるその両者のうちで、本作で荻野氏が語りだすテーマは、自分の/自分の親しい人の「死」という絶望的な瞬間を受容していく上での、ポジティブなパワーを提供してくれるメッセージとして捉えることが可能だ。「潜水服〜」が「死」を持って物語の終焉を迎えるのに対して、本作はそこから生まるる「生」をもって物語を完結させる。この意思こそが、恐らくは「死」と向き合う人間にとっては、あるいは「死」を見取る人間にとっては必要なのではないかと感じた。ちなみに、余談であるが荻野氏は元々16世紀のフランスの詩人・ラブレーの研究から始められた人であり、彼女のポジティブなメッセージや独特の作風はそこから影響を受けているものと思われる。私は荻野氏が教鞭を取られる学部の学生であったが、フランス語を専攻していなかったこともあって、残念ながら彼女の授業を受けることは遂になかった。本書を読んで、彼女のラブレー論は聞いてみたかったなぁと、今更取り返しのつかない妄想をしたりもした。「潜水服〜」の中にこんな一節が出てくる。「笑うものがないときに笑うのは、それは道化ぐらいだ」。荻野アンナのラブレーは、笑えない現実を笑ってしまうだけの「覚悟」を持って、我々に人間の「いきかた」を提示してくれているのではないだろうか。まぁ、バレンタインの日に「Love」が「0(零)」である私にとっては、「逝き方」の前に現在の「生き方」を真剣に考え直す方がよっぽど先決かもしれないが。苦笑

2008年2月15日

カテゴリ 小説

これを「小説」と読んでいいのだろうか。どこまでが本当の体験かどうかは定かでないものの、基本的にこの小説は筆者の個人的な体験に基づいて書かれている(少なくとも、そのような体を取っている)。表題作と並んで収録されている「9・11ノート」は、2001年9月11日の筆者を描いた限りなくノンフィクションな語りである。もちろん、小説家は自分の体験したことや、自分の頭の中にあることしか紙面に落とすことはできない。だから、例えどんな作品であったとしても少なからず“虚構”の枠の外に飛び出す部分があるものだが、本作においてはそうした体験の中に“虚構”が流れ込んでくる隙間が存在していない。それは、9・11テロ以降の非現実的な現実が“虚構”よりも“虚構”らしく存在してしまうという矛盾を激しく指摘する。本作は、そうした意味ではある意味で極めて文学的ではなく、しかしある意味では極めて文学的であると言えよう。ところで話は変わるが、リービ英雄が日本語で文章を書くようになったのは、彼自身の“ニューヨーク”への抵抗があったからだというのを、以前にどこかで目にしたことがある。自ら望んでディアスポラとなった彼は、9・11という出来事を通じて、再び祖国アメリカと、ニューヨークと対峙することになった。4機の飛行機がアメリカの象徴へと突っ込んだ瞬間、彼の中で千々にくだけたのは何か。彼は、日本語という武器を駆使して、彼の中の「アメリカ」と対峙してゆく。アメリカにはリービ英雄がいる。果たして、日本には誰がいるだろうか。

2008年2月13日

カテゴリ 小説

作者は「日本人」ではない、という触れ込みの段階で既に何らかの固定観念を勝手にこの作品に押し付けてしまっていたようである。だから、読了後、なんとなーく「平凡」な作品であるという風に思ってしまったのは、私の個人的な責任であろう。「日本人」ではない作家が何かを表現する、という際に無意識的に働いてしまう思考の力学がある。すなわち、彼ら/彼女らが抱くであろう、われわれには体験し得ない出来事や感情の機微が作品に何らかの形で投影されているに違いないという、独善的な期待感がそれだ。そういう意味においては、この作品は「平凡」な作品に過ぎず、一つの文学作品としても「まぁまぁいい話」の域を出ない。作品中で描き出される微妙な人間関係の諸相は、ある部分ではものすごく批評的な側面を持っている。「われわれでは描けない」物語も、確かにそこには存在しているのだが、しかしながらそれらが悉く我々の望む「核心」を突いてはくれないが故に、読者である「日本人」の私は、どことなく不満足な感情を覚えずにはいられない。もし私が彼女の生きた、そして彼女の同胞の生きる「中国」という異郷の地のことを、彼ら/彼女らが生きてきた時代の背景を、もっと深く理解することが出来ていれば、この作品に対してもっと深い感動を持つことが出来たかもしれないが。あるいは、この物語が「ワンちゃん」の話ではなく「木村紅」という人の話であったならば、この作品に対する印象は大きく異なっていたに違いない。作品の最後でワンちゃんが直面する現実とは、果たしてそれは絶望かあるいは微かな希望なのだろうか。それすらも分からない私は、一人の読者である前に、人間としてまだまだ未熟者であるなぁ。

2008年2月13日

カテゴリ 小説

とりあえず、ヤバイ小説である。何がヤバイのかといえば、よく分からないけどとにかくヤバイのだ、という台詞しか浅学な私の口からは出てこない。とりあえず、私は彼女の言葉のセンスにものすごく惹かれた。一個前のところで「アサッテの人」を出したけれども、それが実にいい意味での布石になっていて、やはり川上氏のこれもまたウィトゲンシュタイン的であると感じる。諏訪氏がその言語戦略を「挿入」としてしか使用できなかったのに対して、川上氏はそれによって世界を「支配」することに成功している。まずは、そこがすごい(町田康に似ていると言われるけど、そういう意味では全然違うわな)。それから、「私は奥歯なのです」という認識論、これは人によって好き嫌いが分かれるところではあろうけれども、私はすごく好き、というか「好き」以外のまともな言葉をもっと使えよって話なんだけれども、やっぱりそれしか言葉が出てこない。文章全体を通して「発話の位置」というのが非常に掴み辛くなっていて、あんたの中にも私がいて、てか私って結局何やの、一人称の「私」って誰やねん、という逡巡が上手いこと紙面に表現されていて驚く。その不安定さがたまらなく安定していて、そしてリアルだ。そう、「安定した不安定」さというのは、幾つか前に絲山秋子氏のところでも書いた覚えがあるけれど、現代社会の内面を説明する上で絶妙に使いやすい言葉だ。これがリアルだと、小説全体が生きる。特に本作の場合、そのリアルの対象が個人の内面に向かうことによって、絲山氏の『袋小路の男』とはまた別の側面を照射することが出来ている。素晴らしい。素晴らしいと思いながらも、でもやっぱりまだ「川上哲学」を完璧に理解することが出来ず、文章の合間合間に意味不明な私がいて、それは私の問題であると同時に彼女の問題でもあるはずだから、とりあえず★は4つだけにしておこうと思う。でも、確実に『アサッテの人』よりは面白いよ。

2008年2月12日

カテゴリ 小説

また偉そうな書き方をしてみると、何だかウィトゲンシュタインの意味のゲーム論を小説にしたみたいだわ、ということになる。お前にウィトゲンの何が分かるんだという指摘はさっくりと却下するものとして、作者は哲学畑出身、だからその読了感はあながちち間違いでもないのかもしれない。要するに、コミュニケーションというのは一種のゲームであり、言語というのはそこで仕様される乗り物でしかない。言語に存在する「意味」は決して内在的なものではなく、極めて外部からの決定によって委ねられているものだ、というのが私のウィトゲン理解を簡単にまとめたものである(恐らくこれは多分に誤りを含んでいる)。こうした言語を拘束する条件を利用し、それを文学化しようとする筆者のこの作為は、決して新しいものではない。挿入される吃音のエピソードも、比較的よく目にするアレゴリーだ。筆者は、「作為」という言葉を使って「言語の目的化」を説明し、最終的に意味不明の散文によって文章を収束させる。恐らく、最後の文章は筆者も意味が分かってないんじゃないだろうか。そういう意味で、作品自体は面白いのだけれども(構成とか)、最終的に考えて考えて考え抜いた末に意味不明なものに到達してしまったとするなら、それは作品としてどうなのだろうか、と感じた。あるいは、仮にそれに筆者なりの意図があったとして、でもウィトゲン的な意味理解をしようとするとコミュニケーションの大部分は読者側によって決定されるわけだから、やっぱりそれは読み物としてどうなんだろうということになる。中途半端にウィトゲンシュタインなどという堅物を持ち出したために、私自身意味不明な状況に陥りつつあるので、この辺で。あっ、頭がいいと自分で思っている人ほどこういう本を好きそうだ、という妙な評論だけ最後に付け加えておく。

2008年2月12日

カテゴリ 小説

1つ前に取り上げた古川の作品が「出ようとするんだけど、結局出れない」ことをテーマとしていたけれども、この作品も実は同じようなことをテーマにしているんじゃないかと邪推する。いや、内容もタッチもぜんぜん違うのだけれども、「死」を意識しながら地方へ「脱出」した主人公が、でも結局そこで“生かされて”しまうことで当初の「脱出」は失敗してしまう、という構図自体は、基本的には変わらないのではないかなぁ、という(もちろん、そこに留まることを許されないという点においても)・・・うーん、非常にこじつけですね。作品自体はすごく丁寧な感じで書かれていて、主人公の内面とかもよく描写されていて、それはそれで上手いのだけれども、私は個人的にあまりそういうスタイルが好きではないので(どこかで文章から脱出することを求める)、そこはまぁ、好き好きだと思われます。

2008年2月12日

カテゴリ 小説

分かるようで分からないこと。なぜ、本作の主人公は「トウキョウから脱出したい」と思うのだろうか。もちろん、過去3度の「脱出」劇は本文中で詳細に描写されていて、その理由も何となく分かる。でも彼は、3度失敗しようとも、そして今後も恐らくは「脱出」が不可能であることを予期しながらも、なお「脱出」することにこだわる。なぜだろう、面白い。そんな与太話はさておき、私はこの作品に関して恐らくは正当な評価を下すことが出来ない。なぜならば、私はRMXの元ネタとなったムラカミハルキのそれを読んでいないからである。だから、最終的に彼が脱出できたのかどうかは不明である。が、たぶんやっぱり脱出はできないんだと思う。その開き直りがなかったら、この作品の魅力も半減してたかもしれないしね、と妙に分かったような口を利いてみるものの、やっぱり分かっているようで分かっていないのは、私の書評も同じである。苦笑

2008年2月12日

カテゴリ 小説

例えるならば、シーソーがちょうど吊り合っている状態で、どっちかが動いてしまえばその均衡が一気に崩れてしまうという様子。それが、本作で描かれる「彼」と「私」の関係性だ。まさに、この「不安定な安定」とでも言うべき状態を、物凄くリアルなカタチで描き出しているのが、表題作でもある「袋小路の男」だ。セックスをしなくても、愛していると言わなくても、そこに確かに「愛」が存在するのだからこれは列記とした恋愛小説である。「愛」とは何かという問いには古今東西様々な答えがあると思うけれども、私的にはこの2人の関係性は理想的な恋愛状態だな、と思う。そういう不安定なものを嘱望する心性というのが、果たして私自身に独自のものなのか、はたまた現代的なメンタリティなのかは定かでないけれど、単に所有欲や性欲では還元されない「愛」というものの存在を認識している作家がいるということの証明という意味で、この作品は非常に価値のあるものなのである、私にとっては。

2008年2月12日

カテゴリ 小説

今更ながら金原ひとみである。若干、ブームが去った感はあるものの、一個前にレビューを書いた吉村萬壱からのつながりで、この本を読んでみた次第である(ただし、この“つながり”は私以外の人間には理解不能であろう)。社会学でも最近、タトゥーやピアスといった所謂「身体改造」を大賞として扱う研究が少なからず現れている。だが、その大半はそれが「自己の所有」へと傾いているのに対し、本作で挿入される「スプリットタン」の表象は、明らかに他者との“つながり”を志向したそれである。タトゥーやピアスによる身体拡張は、「私」という存在の空白を前提としながら、その帰結として他者との微弱なコミュニケーション回路の資源としての「身体」の利用を明らかにする。そのコミュニケーションは極めて閉鎖的な空間によって管理されるが、やがてその空間は突然の「暴力」によって支配され、その脆弱性を露呈する。吉村の作品の主人公がその空間における「暴力」を所有することを目指したのに対して、本作ではその排除が問題化される。そして、最終的に訪れる「自己放棄」。自分の感情を敢えて「分からないもの」として認識しようとする性向は、現代人のメンタリティを非常に端的に指し示しているものであると感じた。

2008年2月12日

カテゴリ 小説

「人の痛みが分かるかどうか」というのは難しい問題であるが、倫理的には「そりゃぁ分かったほうがいいだろう」ということになるに違いない。本書の描写からは、まったくといっていいほど「人の痛み」とか「悲しみ」という感情が欠落している。主人公の心情吐露も、また作者の描き方も、非常に独善的で他者を寄せ付けないものがある。それは、筆者が意図的に挿入した「倫理としての暴力」の一端なのかも知れないが、そこは読み手の判断として難しいところである。本作を「暴力的表現が過剰に盛り込まれた変態小説」という風に理解してしまうのはあまりに一元的な評価の仕方であると思うものの、それ以外に「筆者が何を描きたかったのか」ということは、非常に分かりにくい。ただひとつ、本作で描かれるような「暴力」性はわれわれの日常と非常に密接なところにあるのであり、実はそれに嫌悪感を示したり、目を背けようとする読者の行為それが、もっとも文学が対象としなければならないものなのかもしれないとは思った。

2008年2月11日

カテゴリ 小説
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