グロテスクな描写といい、恐らくこれは、同じじゃなくともかなり体験に基づくものを取り入れている気がする。
その上で、なんか妙に共感してしまうところが多かった。
いや、私は覗き趣味はありませんけどね。
妙に観察眼的に性器を見る感覚だとか(そんな機会なかったが)
自分にセックスなんてできるのだろうかと思ったりとか、
語らないがゆえに神秘的に捉えられるが、俗にまみれた人間だという後ろめたさのようなものがあったりとか、
「信用のおける相談役」だと思われるが、その実、自分のことを、一番相談しちゃいけない人間だと自覚しているところとか、
失恋した瞬間だが、別の思考回路を働かせて、持ち前のポーカーフェイスを活かしてものすごく冷静に振舞うところとか、
性体験に関することとか…なんか、自分の「わたし、変?」みたいなところをぐっさぐさ突き刺してくるみたいで、面白おかしく読んでる反面、ものすごく痛い気持ちになった。
「僕は性的に変態でインポだけならまだしも、精神的にも恋愛にインポなんじゃないか?もっと極端に言えば、僕には心や感情なんてほんとうの意味であるんだろうか。
ただ自分でも面白いのは、さっきから胃だけがキリキリと痛むことだった。時たま耐えられないくらいの痛みが走る。そういう時僕は顔を歪ませながらも、何か暖かいものを感じて、腹の底から笑いが込み上げてくる。胃だけが失恋の痛みを味わっている。僕の真心は胃だけに残っているようだ、そう思って。頭も心も、よくわからないけれど何か近代的な不感症で嘘つきな毒素に犯されきっている。その中で、体にだけ太古からの敏感な誠実さが残っている、そんな図式が頭に浮かんだ。僕は今後どんなことが自分の身に降り掛かっても、最後まで気が狂うことだけはできないだろう、と今確信している。父親が一度罹ったから、僕は胃潰瘍のことはよく知っている。きっと頭は正常なまま、胃袋にだけ穴が空いてゆくのだ。たぶん根性の腐ったミーハーには、そういうくだらない末路しかのこされていないのだ。」
という言葉が胸に刺さりました。
もう少し考えて言葉を書きたい。
追記:
わたしは、人を好きになることができているのだろうか、という疑問を、自身に投げかけてみる。
今、彼氏がいる。彼の優しさに甘えながら、差し出される温かいものを、ずうずうしくも受け止めながら、私自身は、彼に何かを差し出しているのかと問われると、「いえ、まったく。」という答え方しかできない。
たまたま私のそばに彼がいて、わたしはたまたま、彼のそばにいる。私が言えるのは、それだけだ。
精神的にもインポ。わたしは、そういう類の人間なのかもしれない。もしくは、そう思いたい自分がいるのかもしれない。なぜ思いたいのかは、まだよくわかっていない。アーティストってやつを、気取りたいのかもしれない。だが、それが図らずもうまくできないのは、事実だ。
※ここから書くことは、下ネタと変わりません。個人的な性思考です。読みたくない人は読まないべき。
最近読んだ本のレビューに、「わたしは、男が性欲のままに振舞うのを見るのが好き。」と書いた。
多分わたしは、自分が「もの」になった感覚だから、そう思うのだと思う。
見かけとは裏腹に、わたしはもんのすごい淡白な人間で、別にエッチなんてしなくたって、いいわ、と思っている。過去そのような関係になった人はまぁ人並みにいたわけですが、一様にそのように思っていた。
ただ、その時々の相手が望むので、応えていた、という感じ。
男にとっちゃ知りたくない事実でしょうが、わたしは、相手に体を預けながら、心は別のところにいて、その時間を、第三者が冷酷に観察しているような状態にある。
そんな自分が、「性的に変体インポ」と「精神的に恋愛にインポ」の言葉に集約されてる気がして、痛いとこ突かれたわ、という気分になった。
体が、痛みや快楽に反応しながらも、神視点的第三者の自分が、その状態を、冷やかに実況中継している感覚。
わたしは、何かを怖れているんだろうか。
徹底的に傍観者であろうとしている無意識の行動が、自分の体内にまで染み付き、蝕んでいる。
近代的な不感症で嘘つきな毒素、という言葉の感覚に似ているかもしれない。
男のEDの感覚なんて、分かったもんじゃないですけど、傍観者の自分が、体の反応を味わおうとしない限り、わたしは女でありながらEDであり続けるのだと、
宣告された気がしたのが、とても痛かったのだと、今のところの納得。
さて、それが分かったところで、わたしはどう生きなきゃならんのか。
- 感想投稿日 : 2012年3月5日
- 読了日 : 2012年3月5日
- 本棚登録日 : 2012年3月5日
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