人間、この非人間的なもの (ちくま文庫 な 2-1)

  • 筑摩書房 (1985年12月1日発売)
4.22
  • (13)
  • (7)
  • (7)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 113
感想 : 10
4

「ケシカラン!」「それがどうした?」ーなだいなだ追悼

最近亡くなった医者であり作家であったなだいなださんの代表的エッセイである。ブックオフで買って本棚にしばらく置いていたが、彼が亡くなってやっと読んだ。
感想と言うより抜粋。

ナチスや戦争や凶悪事件などを非人間的な行為だと糾弾する考え方について、
「こうして、動物の親子を見れば、あなたも、子殺しや子捨てのような行為が、非人間的(残酷である)と人間に呼ばれるのが間違いだとわかるでしょう。それは、非道徳的と呼んでよいにしても、人間的な行為以外のなにものでもないのですから。」


ナチス、戦争、公害など残酷なことを人間がするのは想像力の欠如が原因と述べて、
「誰が想像力が欠けることが、もっとも大きな罪なのだと考えているでしょうか。しかし、それこそが、現代人の意識されていない罪深さなのです。私たちが、自分たちの周囲をとりまいている血なまぐさい現実に対して、関心を持つために必要なことは、想像力の豊かさを持つことです。たくましい想像力を持つことは、あなたの属する世界から、血なまぐさい残酷さを消し去るために必要なことなのです。」
先週「インポッシブル」というインド洋大津波の実話の映画を観て、東北大地震大津波も含め自分の想像力の欠如を痛感した。
「人間はどうして自己の想像力を失っていくのでしょう。そのひとつが、組織の中への埋没です。(中略)水俣病の場合でも、町や工場の人々は、残酷ともいうべき態度をとりました。もちろん、そこに自分たちの生活がかかっているという意識があるでしょう。しかし、生活がかかっていると思うことが、どれほど私たちを残酷にさせるか、残酷であることを許してしまうかを、考えねばなりません。そこに、組織に属してしまう、個の特性を失ってしまうことの、残酷のはじまりがあります。(中略)組織の中に入った人間は想像力から遠ざかり、現実との接触を失っていきます。」
この文章が書かれたのは1971年で42年前である。今、原発などの問題を考える時、日本人の考え方や問題点は時代が変わっても変わらないなと思う。

日本人の「ケシカラン」という体質の危険性について、
「たとえば、ある事件が起こります。一人は、「それがどうした、おれの知ったことか」とつぶやき、もう一人は「なんだと。それは本当か。ケシカラン」とつぶやきます。それは、その事件に対する、二種類の反応といえますが、それはこの二人の無意識の構造によって、当然みちびかれるべき反応と考えてもよいでしょう。フランス人たちと日常生活をともにしていると、どれだけ「それがどうした。おれの知ったことか」というつぶやきを耳にすることでしょう。そして、対照的に私たち日本人の日常生活では、どれだけしばしばケシカランというつぶやきがもれるのを耳にすることでしょう。」
「戦前の軍国主義への傾斜は、どうかすると「それがどうした」的無関心が日本が戦争に進むことを避けさせなかったといわれてきました。しかし、私はそうではなく、ケシカラニズム的な民衆の参加が、そこに積極的になだれこませたと考えるのです。戦争の間、同じような服装をさせ、同じように考えさせたものは、平常なものからとびだした、型をはずれたものをケシカルといい興味をいだいた精神を捨て、それをケシカランものとして否定した精神だったのです。」
「しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚が混同されてはなりません。ケシカラニズムは、感情的正義であるといえるでしょう。(中略)ケシカラニズムは、民衆運動の原点となるものといえるでしょう。しかし、それだからこそ、ケシカラニズムの大きな欠陥を考えねばならない。(中略)それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だと思います。しかし、同時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険をもつものでもあるので。す過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだけ味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」
半世紀近く前の氏の意見であるが、今月の参議院選前に新聞やネットに掲載したくなる内容である。

閉鎖的な集団について、
「こうした集団は、どこの国にも存在していますが、その集団と個人のかかわりあいの深さは、国によって変わります。それは、実は集団に属する個人の意識にかかわるといっていいでしょう。そして、作られた集団の閉鎖性は、集団がそれを構成する個人のプライベートな生活を、どこまで縛るかによってはかることができます。(中略)このような閉鎖性の強い集団が存在すれば、はげしい利益の対立の中で、個人も集団とともに(一般社会から、国民からー筆者註)孤立するばかりです。そして、この孤立からぬけだすために、日の丸にたよることになるのです。あるいは国益などという言葉を持ちだすのです。日の丸を掲げることによって、日の丸に掲げられた人たち(政治組織・思想団体・スポーツ団体の長などー筆者註)は、こうして他の集団の閉鎖された扉を開く合鍵をえるのです。」
「私たちは(市民運動の)「××の会」を越えて、これから純粋に、どこまでも一個人として、個人の権利を守るために、市民としての公正の感覚を梃子にしてたたかうことを学ばねばならないでしょう。集団の利益のためではなく、市民の生活の中に公正の原則を確立するためにたたかうのです。」

政治家・官僚・産業界のトップたちに耳をかっぽじって聞き、目を眼にして読んで欲しい本である。それともしょせん、あなたたちには理解できても出来ないことなのか。
この本を雑誌に10ヶ月連載した後、同時進行の日本社会を眺めてなだいなだ氏は「今、私をとらえるのは無力感です。しかし、ここで、やめるわけにはいきません。」と巻末に記している。この本は彼が亡くなった今、今と言う時代への遺言である。
近い将来、「なださん。最近の日本は少しはましになりましたよ。」と言ってみたい。
くたばれ!日本社会と我が内に巣食う組織、集団、世間!

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 随筆・エッセイ
感想投稿日 : 2013年7月4日
読了日 : 2013年7月4日
本棚登録日 : 2013年6月30日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする