断片的なものの社会学

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  • 朝日出版社 (2015年5月30日発売)
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学生時代にこの本の著者である岸先生の講義を受けていた。金曜日の三講時という時間帯の講義だったのだが、この時間の講義というものは昼食後ということと、これが終われば休みだ、という開放感からか、油断するとついウトウトしてしまいがちな時間帯だ。しかしこの講義は、比較的集中して臨めたと思う。

映画『パッチギ!』を取り上げたりゲストスピーカーを招いたりと、板書以外の授業形式が何度かあったのもそうだが、なにより岸先生の話術が巧みだったからだろう。教室が笑いで満たされることはしょっちゅうだった。

 この講義以外で岸先生と直接関わる機会はなかったのだが、その話ぶりや人脈の広さから、なんとなくだが明るくて気さくな人、というイメージを持っていた。そして今回、岸先生の著作の書評を担当することになった。

この本はイントロダクションに始まり、約15ページのエッセイや著者が行ったインタビューが17題、そしてあとがきへと続く構成となっている。タイトルでは社会学という言葉が使われているが学術的な要素は薄い。それもそのはずで、この本は社会学者である著者が分析できなかったこと、解釈できなかったことが書かれているのだ。

著者は研究のため、多くの人々の語りを記録し、その語りを社会学の枠組み内に収まるよう解釈・分析してきたがその一方で、その理論や解釈に外れるところに印象的なものがあるという。そしてそうしたものは日常生活にもあるとする。

そうした理解できないことがらは、聞き取り現場のなかだけでなく、日常生活にも数えきれないほど転がっている。社会学者としては失格かもしれないが、いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。
本書p7

そして著者が分析できなかった人々の語りや、様々な出来事、社会問題について書かれていく。

 著者が分析できなかったもの、それが「断片的なもの」である。では断片的なものとは具体的に何を指すのか、詳しく見ていこう。

 著者が焦点を当てようとするのは、一人ひとりの人間をカタチ作っているものである。それは骨だとか筋肉だといった外見上のものではない。著者はそれを「語り」や「物語」という言葉で説明する。

 聞き取り調査で著者はたくさんの人と出会ってきたが、その多くが一度のインタビューのわずか数時間のつながりである。こうした断片的な出会いで語られた、断片的な人生の記録を著者はこれまで聞き取ってきた。こうした聞き取りをしていく中で、普段は人々の目から隠された(普通の生活では誰も気に留めない)人生の物語が姿を現すという。

 また一方で、著者は聞き取り調査以外の断片的な語りにも美しさを見出す。例えばネット上のブログ記事だ。誰を意識して書いているわけでもない、月に一度更新されるかどうかのブログ、それは存在こそしているものの、誰の目にも触れない語りだ。どうしてそうした意味のない語りを美しく感じるのか。
 
ロマンチックなもの、ノスタルジックなものを徹底的に追い詰めていくと、もっともロマンチックでないもの、もっともノスタルジックでないものに行き当たる。徹底的に無価値なものが、ある悲劇によって徹底的に価値あるものに変容することがロマンなら、もっともロマンチックなのは、そうした悲劇さえ起こらないことである。
本書P32より

 たとえば私たちは、災害など不幸な事件があり死者が出た時、その死者の生前の様子を知る人の話や、使用していた私物、幸せそうに写る写真を報道などで見て悼ましいと思う。それは死者の二度と帰ってこない日常を悼んでいるということでもある。

 しかし、もしその災害が起こらなければどうだっただろう。死者の日常は平凡な物語として報道されることもなく、誰も知ることはない。筆者はそうした悲劇の起こっていない日常の語りが、美しいとしているのだ。

 そしてそうした語りはどんな人にもあるという。それは普段人々の目には見えない、気にされることのない隠された物語だ。そしてどんな人々でも内側に、つまり自己に軽い、重い、単純、複雑、そうした様々な物語があり、それを組み合わせて自己を作っているという。

 自己の中の物語、というとすこし分かりにくいかもしれないが、それは簡単に言いかえると人々の中にある規範や道徳、感性を作ったものというふうに見ることも可能だろう。そうしたものは、人の行動や考え方に現れる。著者は飲み会を例に挙げ「ある行為や場面が、楽しい飲み会なのか、悪質なセクハラなのかを私たちは常に定義している」のだとしている。


 こうした自己の中の物語は時に暴力的になると著者は語る。著書の中では子どもができない夫婦に対し「お子さんが早く生まれるといいですね」と悪気なく子どもを幸せのシンボルとして使ってしまうこと、また幸せな結婚式のイメージがセクシャルマイノリティに対しての暴力になりうることに触れられる。
こうした幸せのイメージは、そこに含まれない人を悪意はないながらも、不幸せに定義しうるからだ。

しかし、自己の物語はそうした幸せのイメージからもできており、それが暴力になりうると知っていながら幸せを追い求めてしまう。そこで著者はどうしていいかわからなくなる、と語る。

 また自己の中の物語は容易に他者を敵としてしまう。例えばヘイトスピーチなどがあるだろう。ヘイトスピーチを行う人たちの自己の物語が、在日コリアンの人たちを敵としてしまうのである。

それを避けるための答えとして筆者は、他者と出会うことの喜びを分かち合うことを必要とする一方で他者に対し、そこに土足で踏み込むことなく一歩前で立ちすくむ感受性が必要だとも説く。しかし私たちにはそのどちらも欠けているとする。

また別のエッセイでは著者は性労働についての議論に関し「当人が望んでその仕事をしていた場合そこに介入することは居場所を奪うことになりうるのではないか」という。そうなると、私たちが手にしている正しさとは何なのか、と問いかける。

しかし、その問いかけに明確に答えてくれる人はいない。私たちは自分がただ正しいと思うことを社会に向けて発し続けるしかないのである。それが後に、間違っているということになるかもしれない。それでもどこか欠けている正義を発しながら私たちは生き続けなければいけないとする。

「分析できないことばかりを集めた」本だけあって、後半のいずれの問いに対しても明確な答えを見つけることは難しい。

著者自身、何かしらの結論を下そうとしつつも、結局その結論は「自分が正しいと思っているどこか欠けている正義」から生まれた結論のため、読者に向かって大声で「これが私の思う結論です」というふうに書けないのかもしれないとも思える。

しかし、そのためか著者の文章は繊細で終始優しく心に染み入ってくるようにも思える。正直講義で受けた著者の印象とは違って全体的にナイーブだ。しかしそれはきっと迷い悩んだ上で書かれた文章だからだろう。

分析できないものに対し、無理やり答えを押し付けようとするのではなく真摯に考えた末で「たぶん自分はこう思う」というトーンで書かれたからこそ、この本は抽象的な話を含みながらも読者を置いてけぼりにすることなく、一緒に迷いながら歩んで行ってくれるように思えるのだ。


 学問の世界は主観性をなるべく排除しないといけないとされる。4回生のゼミのとき、ゼミの先生から卒業論文の書き方についてのレジュメをもらった。そこには、「私は」という主語、「思う」「感じた」という術語をなるべく使わないように、ということが書かれていた。研究はあくまで自分が「思った」ことを書くのではなく、客観的に見ても正しいことを書かないといけないからだ。

 しかし、現実問題としてこの本で取り上げる問題は、どれが正しいと考えるかは難しい。結婚観はジェンダーの問題に触れざるを得ないし、性労働はそれに加え、労働の自由という観点からも考えないといけない。いずれも一概に答えを見出すのが難しい問題だ。そして、そうした問題を学問の枠に当てはめようとすると、個人の感情はどうしても捨てざるを得なくなる。断片的な物語は学問の世界では必要とされないのだ。

だからこそこの本は学術書としてでなく、エッセイに近いかたちで書かれたのではないだろうか。著者は社会学者として語りを分析することは時に暴力的になる、と書いている。たった数時間の聞き取り調査でその人や、その人が所属している集団を一般化し全体化してしまうのは誤解を招きえないからだ。

今私たちに必要なのは、こうした複雑な問題に対し単純に白黒をつけて済まそうとするのではなく、ひたすら思考することなのだろう。この本は惑いながらも、惑うことの正しさを肯定してくれているのだ。

大学の同人誌に書いた書評のデータが出てきたので、こっちにも転載。

改めて思い返しても、透明感のあふれる優しい文章だった。「断片的な物語」の概念って、自分の好きな『アイの物語』というSF小説にも通じるものがあって、大学時代にこの2冊を読む機会があったからこそ、自分をカタチづくっているものが、なんとなく掴めた気がします。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション・新書・エッセイ・評論など
感想投稿日 : 2020年8月16日
読了日 : 2015年10月10日
本棚登録日 : 2015年10月12日

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