我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

  • 岩波書店 (1979年1月16日発売)
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感想 : 27
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再読。「我と汝」(1923)の最も素晴らしい部分は最初の第1章に凝縮されている。テーマを応用的に拡大した第2章、究極的な「汝」としてキリスト教的「神」との関係性を問うた第3章は私にはあまり面白くはなかった。
 第1章において、ブーバーは<われ—それ/彼/彼女>という関係に対し、<われ—汝>という関係の特異さを訴える。社会において<われーそれ>の世界観のみに溺れてしまい、結果的に孤独や虚無感に陥ってしまうという考え方は、確かに説得力がある。<われー汝>という関係性は確かに比類のないものだ。
「他者」「自己」という用語にだけ頼っていると、なるほど、<われ—汝>という視点を見失いかねない。インターネットのコミュニケーションをおおざっぱに「偽物のコミュニケーション」と私は断じたが、たしかにそこではコミュニケーションがすべて「情報」に変換されるだけなので、ブーバーの言う<われ—汝>の真の関係性にはなかなか至らないだろう。
 ブーバーによると、<われー汝>の対話においては、しばしば言葉さえ無用になってしまうのだ。
 そして、この存在論的対面によって、はじめて「われ」は生まれてくる。

「<われ>は<なんじ>と関係にはいることによって<われ>となる。<われ>となることによってわたしは、<なんじ>と語りかけるようになる。すべて真の生とは出合いである。」(P.19)

 実はこの辺は奇しくも、西田幾多郎が「私と汝」で書いていることと一致している。

「私が汝を見ることによって私であり、汝は私を見ることによって汝である。」(岩波文庫『西田幾多郎哲学論文集Ⅰ』P333)

 自己なるものが出発するその根源に、<われー汝>という関係性が先んじて存在するわけである。
 しかし、<汝>はどこにいるか? 私は久しく<汝>を見失い、他者を<それ>としか認識せず、<対話>することを忘れてしまっているようだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学・思想
感想投稿日 : 2012年8月26日
読了日 : 2012年8月26日
本棚登録日 : 2012年8月26日

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