道徳教育論 (講談社学術文庫)

  • 講談社 (2010年5月12日発売)
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 1902〜03年、ソルボンヌで行われたデュルケームの道徳教育講義。
 当時背景として、宗教からは独立したものとしての道徳観が求められ、そのスタンスでの道徳教育を論じなければならなかったようだ。
 この本は第2部として学校教育(どうやら小学校でのそれのようだ)における道徳教育の手法が論じられているが、私は教師ではないし、むしろ前半、第1部の道徳そのものについて論じた部分に興味をひかれた。
 デュルケームは「社会」をそれ自体ひとつの(人格的な!)実在として前提し、道徳の源泉をそこに置いている。
 彼によると道徳性の主要素は「規律」「社会集団への愛着」「道徳を理解する知性」の3つが挙げられる。道徳は命令、あるいは「禁止の体系」であるが、この「規律」なるものは社会構造の秩序と同一視されている。
「変化と多様性を好むあまり、あらゆる画一的なものを嫌悪する者は、道徳的欠陥者になるおそれが多分にある。」(p.88)
 このようなものの見方は、少なくとも20世紀後半以降の世界には通用しなかったはずだ。
 デュルケームの「社会」は、一個の実体として文法上の主語になりうる存在者であるが、価値観が多様化し「社会」が疲弊したこんにち、社会はなるほど1個のゲシュタルトとして今なお成立しているとは言え、それは多角的パースペクティヴにあってはいとも容易に崩壊してしまう。
「秩序」はあまりにも複雑化してしまったため、それが首尾一貫したものであるとは、もはや誰にも思えない。「社会」はすでに、ひとつの存在者というよりも、ひとびとの頭上にある、さまざまな情報やニュアンスが渦巻く、得体の知れない何かである。
 こう考えると、デュルケームの「道徳」は現在もなお生き残りうるかというと、厳しいものがあるだろう。
 それに、テレビの普及時にマーシャル・マクルーハンが指摘したように、いまや子どもたちを教育している主な存在は、学校の教師ではなく、メディアである。ルソーは外界を完璧に遮断した特殊な密室の中で、理想的な教育を営むことができるだろうと夢想したが、夢のまた夢という感じだ。
 今なお、「教育論」は可能なのだろうか?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学・思想
感想投稿日 : 2011年9月17日
読了日 : 2011年9月17日
本棚登録日 : 2011年9月17日

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