感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ

  • ダイヤモンド社 (2005年10月28日発売)
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感想 : 20
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ダマシオの「一般向け」脳科学書、とばして『自己が心にやってくる』を読んでしまったのだが、『無意識の脳』の次の本はこちらである。前著でやや中途半端に解説が終わっていた「情動・感情」が本作で中心的・徹底的に掘り下げられる。
原題はなんと「Looking for Spinoza」、「スピノザを探して」である。唐突なスピノザ。
そして、本書を読み始めると途中から、突然スピノザの伝記のような記述がはじまって面食らう。ダマシオをこれまで読んできた者には何か異様なものが感じられるだろう。そして本書の最後の方にも、スピノザの評伝のようなものが延々と続く箇所がある。
なぜスピノザか? 著者ダマシオは、あるとき不意にスピノザの本を読み返し、自分の思想とスピノザのそれとの共通点を発見したのだという。
スピノザ『エチカ』に見られる一文「人間の心は人間の身体の観念である」というのが、ダマシオの語る情動・感情の脳科学思想の帰結と重なるのである。ダマシオは「感情とは、ある特定の形で存在する身体の観念である」(P120)と書く。
また、スピノザが「自身を保存しようとする執拗な努力」としてコナトゥスに言及する部分は、ちょうどダマシオの強調するホメオスタシスの原理と符合する。
しかしスピノザについては、私はこれまで読んでもよく掌握しきれなかったように思うし、とりあえず置いておこう。
ダマシオは本書で、前著に続いて情動について詳しく書いている。そしてそれよりずっと難解な独特の概念「感情」について、これまでになく詳細に記述する。
情動とちがって「意識」を必須として成立する「感情」は、ダマシオによると、「特定の思考モードの知覚と、特定の主題をもつ思考の知覚とを伴う、特定の身体状態の知覚である。」(P121)
また、「感情は本質的に一つの観念(身体の観念)」である。(P125)
そして感情の内容とは、「マッピングされた特定の身体状態である。」(P124)
感情を知覚の一種であるとするこの定義は、なじみのものではなく、最初違和感が強かったものの、読み進めていく内になんとなく理解できたと思う。
前意識的に、あるいは反射的に発生する情動は、さらに別の情動を喚起し、また、同時に発生した別の情動などとも並行して作用し、それらの全体が、身体という域で結び合い、場合によっては相殺し合ってのちに、身体全体が「自己の状態」として示すイメージ、それの認識が「感情」となるのである。
そうした「感情」は、進化論上、比較的高度な、後からあらわれてきた機能であり、ダマシオによるとそれは有機体(人間)の生存と幸福の獲得・維持に役立つはずなのだ。
けれども、私たちの実感として、激情的なものはむしろ生存や「幸福な生活」を破壊する場合が多いし、「欝状態」は、たしかに自らが病的状態にあることを示す標識とはなるものの、そこから抜け出せずに陰々滅々としているならば、その感情は、果たして「生存」の役に立っているのだろうか? という疑問は残るように思った。
ダマシオの本は全部そうだが、本書も、結尾部分はあっけないほどオプティミスティックな、明るい、ちょっとステレオタイプな肯定的人生論で終わる。
本書ではスピノザを引きながら、負の感情を正のの感情へと置き換える処世術が述べられる箇所があるが、これは実際のところ、なかなか難しい。
ダマシオは情動・感情が専門分野なので、いわゆる「理性」的な頭脳の活動に関してはあまり書いていない。たとえば純粋に論理的な思考だとか、コンピュータのような演算処理だとかについては触れていないし、そういったものと「感情」との対比に関しては何も語っていない。
しかしダマシオが語っている「感情」とは、「自己感」にたちもどっているときの「知覚」「思考」なのであり、純粋論理だの数学的演算だのについては、「自己感」からまったく離れた思考機能として、区別されているのだろう。
数学ならともかく、とりわけ日常言語を用いた言説空間においては、人の思考にはいつも「感情」が伴っている。その感情とはつまり自己の身体の自意識なのだということを、本書は述べているということになるだろう。
スピノザについては、ダマシオの指摘を経由して再度読み返してみたくなった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 自然科学・数学・情報
感想投稿日 : 2015年6月30日
読了日 : 2015年6月29日
本棚登録日 : 2015年6月29日

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