スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫 ト 8-1)

  • 筑摩書房 (2003年1月8日発売)
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感想 : 18
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1967年刊。これはたぶん思想史上重要な本だ。
ニーチェの本のように、たくさんのアフォリズムや断章から成っているが、とりわけ前半は、現代の(消費)社会の文化状況を鋭く抉り出している。
経済による支配が進むにつれ、人間的現実の定義が「存在」から「所有」へ、さらに「外観」へと移行した、とドゥボールは分析する。
「スペクタクルとは、外観の肯定であり、人間的な、すなわち社会的な生を単なる外観として肯定することなのである。・・・スペクタクルとは生の明らかな否定、眼に見えるものとなった生の否定にほかならない。」(P18)
つまり可視的記号のレベルにおいてのみ、現在の文化(社会関係)は成立しており、その文化においては「生きた価値の否定的様式化」である「商品」がすべてを支配する。
こういった観点はポストモダンの、たとえばボードリヤールの言説と近接している。ドゥボールの場合は、ポストモダンの思想家たちとはまるで違う流儀で出現したようだが、まさに「時代」が、このような言説を生み出したのだろう。
ドゥボールの描出した「スペクタクル=非-生の自律的な運動」は、現在の日本文化においてもいっそう進んでいるように思える。
「スターの条件とは、外観的な体験の専門家となることであり、深さのない外見的な生への同一化の対象となることだ。」(P49)
ここで言われている「スター」とは、音楽産業上の、あるいは俳優などのタレント/スターに限らず、政治家までも含まれる。
こんにちの日本では、「スター」はよりいっそう非-生の方向にベクトルを強いられ、そうして2次元「美少女」だの「ボカロ」だのが人気となってくる。全面的に「生」を追放することが、唯一の文化=社会関係であるとでも言うように。

ただし真ん中あたりの章はあまり興味を持てなかった。ドゥボールはそこでソ連の社会体制の歴史的推移をたどって詳細に分析したりしている。そもそもドゥボールはマルクス主義的な語句の使い方が多い。プロレタリアートとか。彼自身は決してマルクス主義者とはいえないのだが、当時のフランス文化はどうしてもその思想をいちど通過せざるを得なかったのかもしれない。
シチュアシオニストの運動というものについてはよく知らないので、いずれそのへんの経緯も知りたいと思った。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学・思想
感想投稿日 : 2013年5月5日
読了日 : 2013年5月4日
本棚登録日 : 2013年5月4日

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