1930年、D. H. ロレンス最後の著作とのこと。
本書の冒頭と最後で語られるところによると、ロレンスは少年時代から既に、キリスト教の「道徳臭」がイヤでたまらなかったようだ。この感覚はおそらく、19世紀末以降は普遍的にヨーロッパ人に共有された「時代の空気」であったろう。
ロレンスは「黙示録」はキリスト教の文脈にさえそぐわない、異教的で、破壊への情欲に満ちたシロモノだと断ずる。そもそも「黙示録」の著者とされるヨハネと「ヨハネ福音書」の著者とされる人物は別人だと主張する。「黙示録」ではもともと異教趣味に満ち、イエスの「愛」にまったくそぐわないような、強者への復讐の願望/怨恨にあふれた書物であり、しかも後代何人もの手によって著しく改変・補筆・削除されたものだという。
弱者ユダヤ人が復讐をもくろんだというテーマは、ほとんどニーチェ的であるが、本書の中にはニーチェのニの字も出てこない。
しかし私の興味を惹いたのは福音書についての考察ではなく、本書の最後に出てくる思想だった。
「この世に純粋な個人というものはなく、また何人といえども純粋に個人たりえない。大部分の人間は、もしありとしても、ごくかすかな個人性を所有しているにすぎぬ。彼等は単に集団的に生活行動し、集団的に思考感情を働かせているだけで、実際にはなんら個人的な情動も、感情も、思想ももちあわせていないのである。彼等は集団乃至は社会的な意識の断片にほかならない。」
「民主主義においては、弱いものいじめが権力にとってかわることはまさに必然なのだ。・・・畢竟、近代の民主主義は、各自がそれぞれの全体性を主張してやまぬ無限の摩擦し合う部分からなっているのだ。」(P207-210)
「個人、クリスト教徒、民主主義者は愛しえぬ」というペシミズムは強烈で、私もまた共感をさそわれるものだが、ロレンスが吐露したこの書物には思想的構築性はない。彼は何より文学者なのだ。「コスモス」を憧憬する彼の願いは、非常に良く理解できるものの、具体的な解決の糸口は見えない。
黙示録論そのものよりも、この書の最後に叩きつけられたペシミズムがすこぶる印象的であり、これをいかに受け取るかという難問が、読者を襲うだろう。
その意味ではとても刺激的な本だった。これに惚れ込んだ福田恆存の気持ちもわからないでもない。
- 感想投稿日 : 2012年12月30日
- 読了日 : 2012年12月29日
- 本棚登録日 : 2012年12月29日
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