日本の反知性主義 (犀の教室)

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ntさん 社会学・経済学   読み終わった 

 ホーフスタッターという人の『アメリカの反知性主義』(未読)にならって「反知性主義」の日本を考察するという本アンソロジーは、テーマがやや曖昧だったのか、各論者の「反知性主義」なるものの捉え方が少しずつ異なっており、前著『街場の憂国会議』よりも少々雑然としてまとまりのない印象となった。
 本書を読み通してみて、私なりに捉えた「反知性主義」のイメージは、知的な広がりを抑止してしまう傾向、姿勢、感情等である。
 内容的に共感する部分が多いか、興味を覚えたのは、内田樹さんの文章より、白井聡さん、想田和弘さん、仲野徹さんのそれだった。
 仲野さんは生命科学の分野の方で、後半、例の「STAP細胞」騒ぎに触れている。科学雑誌の小さなコラムで取り上げられてそのまま消えてしまうようなネタだったのに、最初からマスコミが変な風に小保方さんを持ち上げてしまい、あんな、「社会を騒がせるような」事件になってしまったのである。
 この場合は利益を上げられそうなネタととらえ、勝手に騒ぎ立てたマスコミが「反知性主義」なのであり、そのような立場はとうてい、科学の精緻な知性の場からはほど遠いものだった。
 そこから連想したのは同時期の佐村河内氏のゴーストライター事件。あれなんかも、「過酷な人生苦を乗り越えて編み出された壮大なシンフォニー」というストーリーを持ち出して騒ぎ出したNHKやレコード会社、それに踊らされ、物語に沿って「感動した」つもりになった教養主義的「自称クラシック愛好家」たち、みんな「反知性主義」である。(と同時に、反音楽的である。)
 ドキュメンタリー監督の想田さんの文章ではTVのドキュメンタリー番組なるものが、最初から台本を決めて作られているという内情を暴露していて興味深かった。営利企業としてのTV局が、売れ線のネタとして想定された物語が最初にあって、「事実」に取材したインタビュー等はそれに「あてはめられている」のである。想定に従わない情報が得られたら、当然捨象されてしまう。
「この国には『社会』がない。」と指摘する白井さんの論点は痛快で、私がふだん思っていることとかなり近い。日本人は近代人としての前提をまったくふまえてこなかったという悲しい状況だ。
 たとえば自衛隊や警察が国家の「暴力装置」であるというのは社会学では常識なのに、それを口にした政治家は国民(ネット民?)からいっせいに叩かれた。
 なぜこのような反知性主義(未知の言葉などを理解しようとする知性をみずから抑止してしまう傾向)がはびこるのか。確かに、啓蒙主義ははるか昔の話なのだが、欧米の「現代人」の前提としてあるベースには「自己を陶冶する」精神性が存在する。けれども日本の大衆はそのような精神性を獲得するよりも先に、一気にポストモダンの時代(近代の「精神性」の否定)に突入してしまった。
「自分探しの旅に出る」なんて誰が言い出したのか知らないが、確か1980年代あたりにはそのような「自己発見の旅」というイメージが日本文化のディスクール体系に織り込まれていた。何と言うことだ。欧米の近代人は自分を「作る」ために自らを鍛え上げていたのに、このひ弱なポストモダン人たちはそんな努力を最初から放棄して、自分をどこかで「見つける」と言うのだ。
 私が「日本の反知性主義」ということで考えるのはだいたい、以上のようなことだ。大衆の反知性主義は、「超」資本主義の時代にあっては必然的に到達してしまうとも言え、これはいずれ、日本だけにとどまらない話だろう。
 最後に内田樹さんの文章を読んで気になったのは「知性は集団的にしか発動しない」というくだり。その集団という語を「雑多な人々のゆきかう場、人と人とのあいだ、全体として複雑系を形成する不確定なもの」と捉えるなら良いのだが、日本人の場合、「集団」というと、同質性を基調とするような怪しげな<和>に直結してしまいがちなので、どうもそこを曖昧にしてほしくないと思った。内田さんはもちろん、そのような同質性の集団のことを言っているわけではないと思うのだが・・・。

レビュー投稿日
2015年5月3日
読了日
2015年5月3日
本棚登録日
2015年5月3日
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