日本でエミール・ゾラがいまいち評価されなかったのは、新潮文庫には、傑作とはいえ一般読者には少々退屈そうな『居酒屋』『ナナ』しか入っていないせいだろう。岩波文庫ではもっといろいろ出ているが、しょっちゅう絶版になっているし、いまどき旧漢字のまま再版されたりして、これじゃ売れるわけがない。
ゾラでとりあえず面白いのは『ジェルミナール』とこれ『獣人』だろう。私は『ジェルミナール』の方をお薦めするが、『獣人』は探偵小説風でストーリーに起伏があるし、ジル・ドゥルーズが気に入って言及したりしているので、これも是非読んでおいたほうが良い。
さてこの長篇、冒頭から殺人祭りである。いろんな人がひろんな人を殺す。理性によって策略された殺人ではなく、情念と衝動による、狂気的高揚の発現としての殺人だ。
とりわけ主人公のジャックは、女性に対する性衝動がそのまま殺人衝動に結びつくという、神経症かなにかの病態を示す。しかも本人の口から、愛の到達点としての死、殺すことによる所有、などという、バタイユみたいな思考もとびだす。
このジャックが『居酒屋』の洗濯女の息子なので、ルーゴン=マッカールの自滅的な「血」を引いている。エミール・ゾラの理論は当時はやりはじめた自然科学による「遺伝」の知見を踏まえているが、どうも現在の知識から言うとちょっと怪しげでもある。結局、遺伝がどうこういうことは、小説の読者としてはどうでもいいことで、ただ、暗黒の遺伝の歴史を描くことを追究したエミール・ゾラ自身の頭脳に、暗黒の亀裂が生じ、狂気となって、心かき乱すような小説が生み出されたということに意味がある。
じじつ、この小説では、例の遺伝を受け継いでいない人物たちがみんなそれぞれに殺人を犯す。とりわけ嫉妬から来る偏執的狂気によって力持ちの女性が列車を衝突させ、大惨事を起こす場面が凄い。そのような、殺人へといたる情念と衝動そのものが、「鉄道」という当時の文化を代表するものに象徴的に体現されており、この小説に特別な価値を与えている。
むしろジャックは目立たない。最後の方で、やっと女をひとり殺すだけだ。そのへんがちょっと、構成として弱いような気がした。20世紀のゾラであれば、もっと凄まじい猟奇小説を書いただろう。
- 感想投稿日 : 2012年8月11日
- 読了日 : 2012年8月10日
- 本棚登録日 : 2012年8月11日
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