- コロラド・キッド 他二篇 (文春文庫)
- スティーヴン・キング
- 文藝春秋 / 2024年9月4日発売
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「浮かびゆく男」2018年、「コロラド・キッド」2005年、「ライディング・ザ・ブレット」2000年。
キングの中編小説3本を収めた作品集で、一番長い「コロラド・キッド」は邦訳で200ページもあり、日本では普通に長編小説で通る長さ。一番短い「ライディング・ザ・ブレット」でさえ80ページほどある。
この3編を私が5段階で評価するとしたら、順に5点満点、3点、4点。
とにかく巻頭の「浮かびゆく男」が素晴らしい。
見た目や体積が変わらないのに体重がどんどん減ってゆく男性の、不条理なホラーSFで、合計20キログラムのダンベルを持って体重計に乗っても体重の数値は変わらず、人を抱きかかえてみるとその人は宇宙の無重力空間にかるかのように髪を逆立ててふわりと浮いてしまうというから、恐らく、反重力的な現象なのだろう。
しかし、この作品はなんにも怖くないのである。それは、渦中の男スコットは将来に待ち構えているに違いない死を全然おそれていないからだ。楽観視しているのではなく、死ぬなら死ぬでしかたがない、と静かな諦観の境地にあるのだ。
むしろこの作品は主人公の死へと向かいながらも明るく、ヒューマニスティックなファンタジーを描き出し、極めて感動的な作品となっている。
舞台はキングお気に入りの架空の田舎街、キャッスルロックなのだが、そこの住民はどうやら古びた保守主義者で共和党支持者が大半であるらしい。
レズビアンで同性婚をしたと公言してはばからない女性2人が街にやって来てレストランを構えると、古い頭の住民たちは彼女らを嫌って迫害する。アメリカはジェンダー問題に関してすこぶる進取的というイメージがあったが、田舎町なんかではやはりこうした雰囲気なのかもしれない。この部分、ちょうど第2次トランプ政権がいきなり「多様性」排除の大統領令を発し始めた現在と見比べて、ははあ、アメリカでもこの手の人たちが血気盛んに粋がってきているんだなあ、と感慨深い。ちなみに本作発表年は第1次トランプ政権の時代。
体重の減る男スコットが彼女らを一生懸命救ってやり、そのことで彼女らもようやく心を開き、街の人びとも彼女らの存在を認めるようになる。素晴らしいメルヘンではないか。
仲間たちの温かな支えに囲まれながら、スコットは体重1キロを切って死んでゆくのだが、スコット自身の静かな境地と友人たちの温かい友情のおかげで、むしろハッピーエンドであるかのような輝きを伴いながら、物語は終わる。
敢行時すでに71歳に至ったキングは、「恐怖の大王」から豊かさを増して、このように温かいファンタジーを書いてのけた。私はこの作品を最高に素晴らしいものと感じたし、この1作のためだけにも、これはいい本だよと人に勧めたくなる。
が、次の表題作「コロラド・キッド」はホラーならぬミステリーで、しかもあまり面白くない。キングはある時期からミステリも書くようになったのだが、私は実は今まであまり興味がなくて読んでいなかった。近いうちにキングのミステリーも読んでおきたいとは思っているが、本作はどうも好きになれなかった。はぐらかされたような感じが強すぎた。
最後の「ライディング・ザ・ブレット」は正統派の、アイディア自体は結構「ふつう」なホラー。本書の中では唯一「怖さ」のある作品。出来はまあまあといったところか。
2025年3月22日
- 現代ポーランド音楽の100年 シマノフスキからペンデレツキまで
- ダヌータ・グヴィズダランカ
- 音楽之友社 / 2023年12月25日発売
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原著2018年刊。
本邦では珍しい「現代ポーランド音楽」書の訳本。しかし翻訳はどうも生硬だし、もっと酷いのは、本文中に埋め込まれた訳注が何故かゴシック体で印字されており、いっそフォントを小さくして目立たなくするべき注釈が本文のどの単語よりも目立って、結果、スムーズに流れるはずの本文がずたずたに引き裂かれてしまっているのだ。何故こんな馬鹿げた紙面構成にしたのか? 悪いのは編集者か?
中身については、外部から何度も分断されてきたこの悲劇的な国の音楽史について我々はたいしたことを知らないので、大変興味深いものがあった。ショパンの英雄ポロネーズが国民統合の象徴となって民族の中に息づき、ピアニストのイグナツィ・ヤン・パデレフスキはアメリカに渡ってポーランド統合のために一役買い、さらにはポーランド首相にまでなったことに至っては、この国の国民史がいかに音楽史と密接なランデブーを辿ったかということに思い至らせる。
30代の頃から私自身もとても気に入っている作曲家カロル・シマノフスキの名前も何度も出てくるし、もちろん、ペンデレツキ、ルトスワフスキも登場する。
が、一人一人の作曲家について詳細に立ち入るような書き方ではない。
本書はもともと現代ポーランド音楽の100曲を録音したCDボックスと共に企画されたものなので、本当はそのボックスを聞きながらじっくり読むべきものなのだろう。もっとも、Amazonでちょっと探したがこのボックスセットは見つからなかった。
2025年3月16日
- アタラクシア (集英社文庫)
- 金原ひとみ
- 集英社 / 2022年5月20日発売
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2019年に単行本として刊行。
本作は良い。様々な若い女性や男性に視点を置き、男女関係や夫婦関係、家族関係等における多様な軋轢・すれ違いを描いていてリアリスティックである。金原さんは言語感覚も若く、今時の若者をうまく描いていると思う。
もっとも、本作では下の名前で章ごとに視点が動いてゆくのだが記憶力が弱く人の名前を覚えられない私にはその点がちょっと苦手だった。
女性たちはそれぞれの個性が際立つというほどでもないが、唯一、「由依」だけは異常な人物で、コミュニケーションに根本的な欠落があり、彼女が何を考えているか誰にも分からず、まるでサイコパスのような人間だ。自分なら絶対に近づかない人間だと思う。
しかし、全体的には様々なコミュニケーションの危機を描いて、面白い小説であった。
2025年3月12日
- 閉経記 (中公文庫)
- 伊藤比呂美
- 中央公論新社 / 2017年6月21日発売
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2013年に単行本として刊行。
連載中は「漢(おんな)である」というタイトルだったらしい。
執筆時、伊藤比呂美さんは現在の私の年齢と同じ55歳だったようで、娘3人を連れてカリフォルニアで多国籍の男性といっしょになり、父の介護のため熊本にも頻繁に帰っている。
私はどうも更年期障害というものがピンとこなく、男性のもあるらしいがたぶん女性の方が強いものなのだろう。本書には彼女自身の身体の変調を含め、アメリカンな脂っこくて甘いファストフードで太ったり、ダイエットのため「ズンバ」なるエクササイズに励んだり、さまざまな日常の光景が描かれている。
このような気軽な感じのエッセイは、小説家や詩人にとっては小遣い稼ぎ程度で、芸術的な「作品」を作ろうという意志はないのだろう。そんなユルさを読み取って時間が費消されていく感覚がリラクシングである。
こないだ読んだもうちょっと近年の伊藤さんのエッセイは芸術的なひらめきも一部あったのだが。
2025年3月9日
- 秋雨物語 (角川ホラー文庫)
- 貴志祐介
- KADOKAWA / 2024年10月25日発売
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2022年に単行本として刊行されたホラー短篇集の文庫版。
貴志祐介さんについては、最初に読んだ『黒い家』が抜群の傑作で、描写力等、すごく力のある作家だと思った。
その後数冊読んできているが、やはり文章力は優れているものの、作品によっては、アイデアやオチの付け方などがイマイチだったりして、どうも全部いいとは言いがたい。
本書もそんな感じで、あまり良くないと感じるものも多かった。まあ、本来の力量はあるので、これでも及第点なのかもしれない。
2025年3月7日
- 三つの物語 (光文社古典新訳文庫)
- ギュスターヴ・フローベール
- 光文社 / 2018年10月10日発売
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原著1877年刊。
未完の長編『プヴァールとペキュシェ』を除けば、フローベール最後の作品とのこと。
非常に趣の異なる短編が3つ入っているが、私としては、『ボヴァリー夫人』みたいな写実的な現代物の、巻頭にある「素朴なひと」が一番好きだった。
この作品は「暖かな眼差し」を感じさせるような人間的ぬくもりがあるように思うし、主人公である「素朴な」女中のキャラクターがとても好ましい。
この作品を読んでいると、鬼のように推敲しまくって彫琢されたフローベールの文章の「わざ」に惹き付けられる。一つの語りから次の語りへとなめらかに転調してゆくような「つなぎめ」部分は料理にたとえれば「絶品」という感じである。このように「書くこと」に自覚的に執念を燃やした作家は、やはりフローベールが随一だ。
続く「聖ジュリアン伝」はロマンチックな英雄物語のようで読者を引き込み、その分、「文章の味わい」に注意を向ける暇が無い。
最後の「ヘロディアス」は古代ローマの時代を扱った一種の「歴史物」ということになるか。しかし史実というより多分に伝説に基づいている感じだ。
私にとってはやはり「素朴なひと」が最高だった。
2025年3月6日
- クララとお日さま (ハヤカワepi文庫)
- カズオ・イシグロ
- 早川書房 / 2023年7月19日発売
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原著2021年刊。ノーベル文学賞受賞後の第1作とのこと。
昔からハヤカワ文庫のコーナーの一角に並んでいて名前は知っていたカズオ・イシグロさんだが、全然読んでおらず、これが2冊目だ。
実を言うと前に読んだときも感じたことだが、私はこの方の小説はあまり好きではないかもしれない。まったりとした時間の進み具合で、そのあいだずっと、何かヒューマンな、生温かいような空気が漂い続ける。別に悪いことではないはずだが、なんとなく気持ちが悪く感じてしまうのだ。
そして、物語の設定がなかなか明らかにされないまま時間だけが過ぎてゆくので、非常にもどかしいものを感じてしまう。
本作もそんなふうなもどかしさがずっと続いた。
語り手はAIを搭載しているらしいアンドロイド?で、AFと呼称されている。子どもの友だちとして活用されているようだ。
この人工知能が不思議なことに、太陽神崇拝のようなメルヘンチックな神話を抱いていて、太陽光線がときには病んだ人を包み込んで治癒してしまう、という奇跡物語だ。
相変わらず丁寧に書き込まれた描写で、ゆっくりじわじわと進んでゆく。最初知らされていなかった基本的な設定が、ようやく後半から次第に明らかになってゆく。
「この作風はあまり好きではない」と書いたが、本作はクライマックスが感動的で、スピルバーグ的な光り輝くシーンである。これはとても良かった。
いろいろ考えさせるところもあり、たぶん優れた小説なのだろう。肌合いが、やはり好きにはなれないのだが・・・。
2025年3月2日
- くますけと一緒に 新装版 (中公文庫 あ58-9)
- 新井素子
- 中央公論新社 / 2025年1月22日発売
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最初1991(平成3)年に単行本として刊行された小説らしい。
SF作家、新井素子さんの名前は昔から知っていたが、読むのは今回が初めてだ。高校生の頃何となく買ってみたSFマガジンに連載中の作品が載っており、ちゃんと読んだ記憶はないものの、マンガチックなイラストもついていてポップな作風の作家なんだな、と記憶した。
本書、中公文庫の帯には「書店員さん発掘! 今読むべきホラー小説、待望の復刊」と書かれている。
期待して読み始めると、文体に目眩がした。
「誰々は何々した」
という文を
「誰々、何々した」
などと、主語の「は」を省いて読点にしてしまう流儀がやたら延々と続くのだ。何を気取っているのか知らないがまったく何の意味もないこの文体作法にむかつき、吐き気がして、本を投げ出しそうになった。こんなクソみたいな個性なんていらない。
それでも、話自体は面白く興味をそそるので、ジレンマに苦しみながらも一気に読んだ。
まあまあ、面白くはあったが、ハッキリ言って、ホラー小説のつもりならこれは失敗だ。
小4の少女が始終離さないくまのぬいぐるみが、実は呪いの力で少女に好ましくない人間を殺してしまうらしい、といった話なのだが、小説のごく最初の方で、少女をいじめた別の小4の女の子が交通事故にあう。が、結局は怪我をしただけで死んでないというしょぼさ。
その翌日に少女の(あまり好ましくない)両親がやはり交通事故で、こちらは2人とも死亡。
最初の方でこの2件だけがある。次はいつ起こるかと心待ちにして読んでいたのだが、結局、その後は誰も死なないのである。これでは、ぬいぐるみの「パワー」が印象づけられないし、何も怖くないのである。
ホラー小説としては全然ダメな作品で、そう思わずに読めば、少女の内面を探るような物語であり、それなりに面白く読めるかもしれない。文体に我慢できればの話だが。
2025年2月26日
- ガストン・ルルーの恐怖夜話 (創元推理文庫)
- ガストン・ルルー
- 東京創元社 / 1983年10月21日発売
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『黄色い部屋の謎』『オペラ座の怪人』が有名なガストン・ルルーの、恐怖・怪奇ものを集めたアンソロジー。書かれたのは1920年代らしい。
どの話も着想がありきたりのものでなく、意外なくらいに面白かった。恐怖のテイストもなかなか鮮烈なものがある。
このジャンルの中ではかなり秀逸な短編集だと思うが、この和訳本のタイトル、「ガストン・ルルーの」とつけたのがいけない。いかにも安っぽく見えるし、内容のつまらない映画についているような邦題だ。
『黄色い部屋の謎』も本格推理小説の名作として歴史に残るものだし、映画でストーリーは知っているがまだ読んでいない『オペラ座の怪人』も読んでおこうと思う。
2025年2月24日
- 楽園のカンヴァス (新潮文庫)
- 原田マハ
- 新潮社 / 2014年6月27日発売
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もと2012年に単行本として刊。
これは予想をはるかに上回って素晴らしい小説だった。もともとニューヨーク美術館にも勤めたことのある原田マハさんの力量が遺憾なく発揮された傑作だ。
アンリ・ルソーの「夢」とよく似た未発見の絵が発見され、その真贋を見定めようとする物語。もちろんフィクションだが、かなり史実を踏まえている。
アンリ・ルソーの絵は確かにいかにも「ヘタクソ」なのだが、ちょっと象徴主義めいた雰囲気や、ペラペラのぎこちない人物等が展開されるその画像は、やはりシュルレアリスムの先駆者と感じられる。先駆者というものは、いつでも謎めいている。
私自身はそんなにルソーの絵に惹かれたことはなかったが、本作を読んで改めて興味が湧いてきた。
ずっと年下のピカソが、詩人アポリネールと共にルソー作品の真価を見出したというエピソードが本作の熱い核心に結び付いている。
読んでいくと、さすが原田マハさん、熱いものがこみ上げてきていたく感動させられる。
これはとても良質な作品だと思う。
2025年2月16日
- プロコフィエフ自伝/随想集
- セルゲイプロコフィエフ
- 音楽之友社 / 2010年8月1日発売
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150ページほどの「自伝」は1941年(50歳の頃)に執筆されたらしい。「自伝」の他に非常に短いエッセイが幾らか収録されている。
ネットを眺めていたときに「おお、プロコフィエフは自伝なんて書いていたのか」と驚いて早速買った。
セルゲイ・プロコフィエフの音楽は少年時代に「3つのオレンジへの恋」の有名な行進曲くらいは知っていたし、たいして興味はなかったがもちろん「ピーターと狼」くらいは聞いたことあった。
大学時代になって組曲「ロミオとジュリエット」、ピアノ協奏曲3番ハ長調、交響曲1番と6番のCDはよく聴いており、ポピュラリティに満ちた「楽しい」音楽には魅力を感じていた。もっとも、プロコフィエフにはより「ハードな」感触の楽曲も多い。
創作のごく初期の段階の記述の中で、プロコフィエフは自己の作曲流儀の特色を5つの要素にまとめているのが興味深い(P.51)。
(1)古典的要素。主に18世紀のスタイル。
(2)近代的な要素。特に独特な和声。
(3)「トッカータ、もしくは”モーター”の要素」。オートマティックな音型が頻出する部分であろう。
(4)叙情的、瞑想的な要素。
(5)「グロテスク」あるいはスケルツァンドな要素。
なかなか的確な自己認識と思う。
プロコフィエフは20代後半からロシアを離れアメリカなど海外に住んで活躍しており、1936年に夫人や子どもを伴って祖国に帰還。
既にソ連となっていた祖国の国家体制に、どうやら新社会への期待を大いに抱いたらしく、「民衆はいま、偉大な芸術を求めている! そこに我々の責任がかかっている」といった、積極的社会参画のセオリーで創作に向かったようだ。このへんの作曲家の考え方は本書後半の随想集にも明らかであるが、「ソ連」という共産主義社会への過剰な幻想に沸き立った点、ブレヒトと似た心情である。もっともブレヒトはもともとコミュニストだがプロコフィエフはそうでない。
しかし当時はスターリン時代なのである。おそらく初めは影の部分は見えなかったのだろうが、ひそかに「粛正」は進んでいたし、1948年の「ジダーノフ批判」を食らってプロコフィエフ自身も相当追い込まれることになる。本書に収められた文章はそれよりもずっと前に書かれた物だから、そうした後日談の記述は無い。
本書の「自伝」はかなり幼少期から学業時代の青春の記述に多く割かれてはいるが、その後の国外生活での様々な音楽史上のビッグ・ネームとの出会いなど、クラシック音楽に興味の或る者ならワクワクするような部分がたくさんある。読んで楽しかったし、プロコフィエフの音楽にもさらに親近感を持って接することができそうだ。
2025年2月15日
- 殺意 (創元推理文庫)
- フランシス・アイルズ
- 東京創元社 / 1971年10月23日発売
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1931年作。
犯人が主人公となりその視点でストーリーが進んでゆく「倒叙推理小説」のスタイル。この系列のものとしては歴史的名作らしい。
作者フランシス・アイルズはアントニイ・バークリーの別名だそうだが、そのバークリーの作品も自分は読んだことがない。
が、本作を読むと作者がかなり一生懸命、綿密な心理描写に励んでおりまずまずの人間観と言えそうだ。普通小説(芸術小説)としてもそう悪くない。
(殺人という)取り返しの付かないことをやってしまったことによる心理的重圧はよく生み出されており印象的だった。
推理小説と限定せずに楽しみたい作品。
2025年2月11日
- ラニーニャ (岩波現代文庫 文芸 278)
- 伊藤比呂美
- 岩波書店 / 2016年5月19日発売
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1998年から2001年にかけて書かれた3編が入っている。
これらを、伊藤比呂美さんは「小説」として書いた。小説分野では新人ということになったか、3つのうち2つは芥川賞候補となり、どちらも落選した。
1997年に伊藤さんは最初の夫と別れ、子どもたちを連れてカリフォルニアに移住している。本書の3編はその時期の伊藤さん自身の実体験と印象を色濃く投影されているように思える。
もちろん「小説」として書いたのだからかなりのフィクションに満ちているのだろうが、なんとなく私小説的な作品として、濃厚に「彼女自身」および近辺を映し出しているような感じがする。
で、思うに、この3編は「小説としては」あまり良い出来とは思えなかった。小説らしさが十分でないように思われ、ここでの文章はやはり詩人のそれだと感じた。芥川賞に落ちても私には納得できるし、やはり小説家とは異なる伊藤比呂美さんの言語芸術の世界は、それでも価値ある物として呈示されている。
詩のようなエッセイのような作品集だった。
2025年2月9日
- 「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー (ちくま文庫)
- 沖浦和光
- 筑摩書房 / 2023年6月12日発売
- 本 / 本
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原著2006(平成18)年刊。
永井荷風の東京・吉原等における遊郭を舞台とした作品になじみ始め、明治期末から昭和初期にかけてのその辺の世相に興味を持つようになったので、幾らか歴史学ないし民俗学的な知識も補強しておこうと考えて本書を買った。
冒頭の方は著者自身の体験を回想するようなエッセイ調になっており、おや、と思ったが、途中からはちゃんと学問的になる。
本書ではおおまかに中世日本においては「性」にまつわる職業がさほど蔑視されるわけでもなく、あるいは逆に呪術的な象徴的存在として神話的価値体系の中で重んじられていたことを示す。それがいつしか近世にかけて蔑視され、その界隈は歌舞伎役者と共に「悪所」のラベルを貼られるようになる。
演劇に関していうと、「能」は元来宮廷の高雅なものとして江戸幕府においても保護されるが、庶民どものあいだに台頭した歌舞伎などは逆に低級なものと見なされる。
日本演劇の総体的歴史については何も知らないので、そのような両極化が怒った事情はよくわからない。ともかく、演劇の役者と、程度の差こそあれいわゆる「遊女」とのテリトリーとがひとつのイメージに包含され「悪所」と定義されたようである。
本書において不満なのは、『「悪所」の民俗誌』と言いながら、その「悪所」における実際の光景の事例が具体的には全然記述されていないことだ。結局、「悪所」の民俗誌に関して具体的に把握するには永井荷風などの文学書に当たるにしくはない、ということになる。
そんな不満を持ちながら読み終え、巻末を見ると、どうやらこれは当初「新書」として刊行されたようだと知る。
浅くおぼろげに語って決して深くまでは至らず、短時間で読めても全然記憶に残らない書物、それが新書だ。もう少し具体的な「民俗誌」が知りたかったのに、その点はやはり荷風でも読んだ方がマシなのだ。
2025年1月31日
- 良いおっぱい悪いおっぱい 完全版 (中公文庫)
- 伊藤比呂美
- 中央公論新社 / 2010年8月23日発売
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もともと1985(昭和60)年に単行本として出、一世を風靡したというエッセイに、2010(平成22年)年の再文庫化にあたって補筆したもの。
なんと伊藤比呂美さんの本書は「育児エッセイ」なるジャンルを開拓したものだとか。それ以前には無かったのだろうか?
ユーモアをたくさん交えながら、妊娠・育児(主に授乳期)について、なかばハウツー本のように解説したエッセイ集なのだが、子を妊娠していることから生じる母体の充溢、母乳をアカンボに飲ませながら自己の身体が限りなく高揚してゆく感じが、ほとんど神話めかした高らかな賛歌のようにイメージングされており、それはやはり男の私には隔絶したありがたい神秘なのである。
ここではマタニティブルーのような事象は起こらず、伊藤さんのこの第1子(長女カノコさん)出産前後の様子は、妊娠し授乳する女性という性に対する、誇らかで絶対的な肯定に支えられており、私はただおそれ敬うしかない。
しかしこのような女性性=身体性への謳歌こそは、伊藤比呂美さんの詩の世界からの当然の帰結ではなかったか。
もちろん時代背景が今とは全然違うのではあるが、今の若い女性が読んでも、なかなかに得るものの多い本ではないか? 少なくとも、五十代の無用のジジイである私には、得るものが多かった。
2025年1月27日
- オートフィクション (集英社文庫)
- 金原ひとみ
- 集英社 / 2009年7月17日発売
- 本 / 本
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2006(平成18)年、単行本として刊。
通読してみて、どうも了解しにくい、不可思議な感じの小説だった。
主人公の小説家リンは作者の自己像を幾らかでも投影しているのかどうか知らないが、とりあえず言葉はビビッドで、若者の言語感覚がうまく捉えられており、ナチュラルである。
そんな主人公は現在付き合っている男性について「好き好き大好き」と手放しにストレートな感情吐露を繰り返すのだが、どこで曲折するのか、最後には唐突に自分から別れを切り出したり、破局に結び付くのが当然であるような行動を爆発させる。
この心の屈折が私には理解できなかった。それは単に私が女性心理に疎い野暮ジジイだからかもしれない。まっすぐだったはずのものがいつの間にか屈曲してしまうそのメカニズムが、ロジックとして合理的に呈示されていないために、私は不安になった。
もう少しこの作者の作品を読み込んでいけば、この心の仕組みが馴染んでくるのかもしれない。
2025年1月27日
- ピーター卿の事件簿 新版 (創元推理文庫)
- ドロシー・L.セイヤーズ
- 東京創元社 / 2017年10月29日発売
- 本 / 本
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収録されているのは1928年から1938年にかけて発表された、ドロシー・L・セイヤーズのウィムジイ卿シリーズの短編。
セイヤーズはどうもアガサ・クリスティと双璧のイギリスのミステリの女王とされているそうだが、やたら古めかしい『ナイン・テイラーズ』はさほど面白くもなかったし、どうなんだろう、と思っているところ。
こちらの短編集も、古典的な本格推理小説としてはディクスン・カーのそれよりはかなり劣るし、そもそもセイヤーズの持ち味なのかサスペンスフルな急展開がなく遅いテンポでのんびり進んで行くし、それぞれそれなりに興はあってもとりわけ優れている感じがしない。
そんな牧歌的な印象が強かった作品集だが、最も長く巻末に収められた「不和の種、小さな村のメロドラマ」が中では一番面白かった。
2025年1月20日
- ポイントンの蒐集品 メイジーの知ったこと 檻の中 (ヘンリー・ジェイムズ作品集 2)
- ヘンリー・ジェームズ
- 国書刊行会 / 1984年1月1日発売
- 本 / 本
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「ポイントンの蒐集品」1896年、「メイジーの知ったこと」1897年、「檻の中」1898年発表。
一番長い「メイジーの知ったこと」は結構な分量の長編だし、「ポイントンの蒐集品」もなかなかの長編。一番短い「檻の中」でも文庫本1冊として出せそうなくらいの長さだ。
国書刊行会の「ヘンリー・ジェイムズ作品集」はこの作家に傾倒する私にはかけがえのないコレクションだが、造本がやや大きめで非常に分厚くてとんでもなく重いから、持っているだけで疲れるし、おまけに稠密極まりないジェイムズの「難解な」文体の圧倒的な重さがボリュームありすぎる豪華料理にも似て、とても疲れる。疲れるから長い連休に読むようにしているのだが、本書にもやはり手こずった。
最初の「ポイントンの蒐集品」が私には最も素晴らしく、心理描写の密度も、視点となる人物からはしばしば隠れてしまう他者の心の不可解性、世界の不透明さなど、ジェイムズならではの要素が比類ない芸術性を発揮している。
これに対して「メイジーの知ったこと」はいつものジェイムズとは異なった書き方のように思われ、少女名メイジーのやたらと浮気っぽい両親や節度がないような大人たちのだらしなさが存分にさらされているのが風刺的ということなのだろうか?
「檻の中」は郵便電報局の窓口という「檻の中」にいる女性の夢想と現実が描かれ、そのシチュエーションは何となくヒッチコック風と感じたものだが、まあ、コント的に小さくまとまっている。
やたらと誤植の多い本だったが、やはりヘンリー・ジェイムズの生み出す言語世界の至高の芸術性が感動的だった。
2025年1月16日
- 道行きや (新潮文庫)
- 伊藤比呂美
- 新潮社 / 2022年10月28日発売
- 本 / 本
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2020(令和2)年単行本刊行。
伊藤比呂美さんは1955(昭和30)年生まれなので私より14歳上。
80年代に現代詩で「女性ならではの視点と言語感覚」の世界を開拓して非常に注目された詩人だった。私も小説を含め何冊か読み、とても感心した詩人であったが、その後の著作や動向をずっと追ってきたわけではない。
近年はSNSのXやFacebookでアカウントを見かけ、投稿は多くないがたまに見かけるので、ご健在のようだ。
本書は60代の「初老」となった伊藤さんの、最近の日常を反映したエッセイ集である。
エッセイ集と言っても、ついこないだ読んだ山本文緒さんのそれのような、ユルユルとした気安さとは違う。そうした面もあるが、根本的に文学関係の豊かな教養に裏付けられた高い知性が絶えずほの見える上に、やはり「さすが詩人!」と思わせられてしまうような、新鮮な文章展開があって、やはり感心させられた。
伊藤さんは80年代の「いかにも女性ならではの現代詩」でブームを作ったあと、たくさんエッセイ本を出していたようで、しかも何故かカリフォルニアに移住してイギリス出身の方と結婚し、子どもを産んだようだ。カリフォルニアに20年も住んで配偶者が死去、今度は早稲田大学で講義を持つために犬だけを連れて帰国。なぜか熊本に住んで、週3度東京に通う生活を送っている。ここが本書での伊藤さん。
こうしたいきさつには単純な好奇心をそそられるし、やはり才能ある作家(基本は詩人)なので、過去の伊藤比呂美さんの本も改めて読んでみようかと思った。
2025年1月13日
- 火の書
- ステファン・グラビンスキ
- 国書刊行会 / 2017年8月25日発売
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1922年に刊行された原著収録の9編の短編小説のうち1編を除き、別の1編と、エッセイ2本、インタビュー3本を加えたオリジナル作品集。
ポーランドの幻想小説家ステファン・グラビンスキの作品はやはり素晴らしく印象的だ。世界的に著名というわけではなさそうだし、邦訳もこの国書刊行会からの5冊の短編集が出ただけだが、もっと有名になり注目されて良い作家だと思う。
文章はあまり巧くはないのだが、簡潔で、人間の心の強烈でしばしば病んだような欲望や情熱を、鮮烈に抉り出す。
私が未読なのは残り1冊きりだが、彼の長編小説を含め、もっと翻訳を出して欲しいと思う。
2025年1月4日
- かなえられない恋のために (角川文庫)
- 山本文緒
- 角川書店 / 2009年2月25日発売
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1993(平成5)年に刊行された著者初めてのエッセイ集を加筆修正、2009(平成21)年文庫化に当たってさらに文章を加えたもの。
1993年は著者なんとまだ31歳、作家デビューからまだ間がなく無名で、「エッセイは苦手だけど」必死に書いた物らしい。文庫化に当たって付け加えられた文章はすでに46歳。やはり大人びている。
そもそも私は「女性作家のエッセイ本」なんかほとんど読んでおらず、昨年だったか有名な林真理子さんの『ルンルンを買っておうちに帰ろう』(1982)をやっと読んだくらい。あと、川上未映子さんのも何か読んだかな。
書店には以前からしばしば「(女性作家の)エッセイ本コーナー」があって、私はそのコーナーにはまるで用がなかった。こうしたコーナーは現在の都市部の書店にもまだあるのだろうか? あるとしたら、女性作家のエッセイ本なるものを読む(きっと全員女性の)読者層が確かにあって、需要があるということだろう。
世の女性たちはこうした女性作家エッセイ本に何を求めているのか。きっと共感して、「そうだよねえ、うんうん」と相づちを打ち自己意識をさらに強めるのが効用なのか。あるいは自分にはない新しい物事の見方を発見して、自らの思考の裾野を広げるのが快感なのか。
さて本書は、山本文緒さんのキャラクターもあって、「ごく普通の女性」のお話を居酒屋で「へー」とかいいながら聞いているかのような気安さである。
本書は薄くて、おまけに活字がやけにでかい。その気になれば数時間で読んでしまえそうだが、そうそうむさぼり読む感じでもないので、他の本を読み進める合間合間に拾い読みした。
女性から見た社会観は確かに私たちには異質なものなので、読んでいて「そういうふうに感じるものなんだ」と感心した。
若い山本文緒さんはしばしば論理が自己矛盾に陥ったりもするのだが、そんなところはむしろ「人間らしさ」として受け止めた。
2025年1月3日
- 昼と夜 絶対の愛 (ルリユール叢書)
- アルフレッド・ジャリ
- 幻戯書房 / 2023年6月26日発売
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『昼と夜』1897年、『絶対の愛』1899年初版。
幻戯書房という聞いたことのない出版社の、この「ルリユール叢書」というシリーズについて知ったとき、そのマニアックで恐ろしくマイナー路線のラインナップに驚愕した。20代の私なら泡を吹いて狂喜したことだろう。
https://www.genki-shobou.co.jp/?s=&books-tag[]=ルリユール叢書
しかし早速売り切れになって手に入らない本もあるようだ。
『超男性』が有名なアルフレッド・ジャリは、言わずとしれたシュルレアリスムの先駆者であり、アンドレ・ブルトンが宣言を書くずっと前にこんな破格の表現を孤独に敢行した作家がいたことに驚く。
本書のうち『昼と夜』を読んでいると、この文章はなかなかに鋭く知的であり、でたらめに戯れているわけでも幻想に遊んでいるだけでもないと分かる。が、『絶対の愛』の方はほとんどあらゆる文が「シュール」なので理解が困難だった。
ジャリ本人が相当の奇行で知られた人物だったようで、伝記的にも面白そうだ。
34で早逝した作家なので作品は少ないが、そもそも日本語訳を探すのも苦労しそうだ。
2024年12月28日
- 私的生活 (講談社文庫)
- 田辺聖子
- 講談社 / 2010年10月15日発売
- 本 / 本
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1976(昭和51)年作。
「乃理子三部作」の、『言い寄る』に続く2作目。
1作目ラストでの失恋のあと、お金持ちで遊び好きのチャラチャラした「剛」と結婚し、それなりに楽しそうに暮らしている。
前作同様に、要所要所で繊細だがかなり「ユルい」文体でどんどん進む。
最後にいたってどうやら剛との結婚生活は破綻に至るようなのだが、離婚を決意する主人公の心理はわかるようでわからないところもある。女性が読んだら共感するのかもしれないが、一般的な男性はやはり首をかしげるかもしれない。
さて再び独身となった乃理子はどうなるのか。そして、彼女は自らの人生のなりゆきにどのような意味と物語を見出していくのだろうか。
2024年12月28日
- 言い寄る (講談社文庫)
- 田辺聖子
- 講談社 / 2010年9月15日発売
- 本 / 本
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1974(昭和49)年初発。これは凄く昔、50年も前のことで、私もまだ5歳、テレビでは「ハイジ」「宇宙戦艦ヤマト」が放送開始された年だったようだ。
本作の主人公である30歳くらいの独身女性「乃理子」は、ふわふわと行き、気が向けば出会った男性と簡単に寝たりするのだが、当時はこの作品世界は幾らか衝撃的だったろうか? ほんの5年前の全共闘の時代には、こんな軽々しさは無かったような気がする。急速に国内の世相は「軽さ」へ向けて、80年代のあの様相に向かって邁進していたのだろう。
本作及び、本作を初めとする乃理子三部作は当時ヒットしたそうだ。これも時代の気分と合致していたのだろうと思う。
読んでいて主人公は繊細ではあるがどこかあっけらかんと明るくて(しかし林芙美子ほどではないか?)、文章も構成も緊密なものは感じられない。なので、呑気にプロムナードを歩くようなゆるい読書体験となった。もっとも、主人公が遭遇する失恋の衝撃は、なかなかに痛ましく印象に残った。
田辺聖子さんの描き出す世界はさほど古びてはいない感触があるが、50年後のこんにち、今の若い女性がこれを読んだらどのように感じるのだろう? そこが非常に知りたいところだ。
2024年12月22日