もちろんいつまでも自己批評的であったり留保を付け続ける必要はないんだとは思うんだけれど、「母を愛していたのだ」「父を愛していたのだ」のくだりには本気でびっくりした。愛している、なんて言葉、今までに出て来たことなんて一度もなかったように思うのだけれど。
それに、そんなこと、大抵の作品を読んだからとっくの昔に知ってるし、本人こそそういう言葉によって認識していなかったのかもしれないけれど、そういう簡単に言葉に出来ないもの、をこそ、彼は今まで悪文と呼ばれながらも書いて来たのではないか…?最後の小説(かもしれない)という段階で、やっと使った、ということも出来るけれど…。
『こころ』に関する「教育」のくだりは、つまり個人的なできごとを真摯に伝えることによって、他人に何を与えうるのか?そんなこと勝手な個人的表現でないのか?という大江健三郎自身の長年の問題にも触れるようであるけれど、はっきりと答えは示されていないし、示されうるとも思わないけれど、全体的になにか弱って来ている感触がするのが辛くて、これがもし彼のレイトワークならぬラストワークになってしまうのだとしたら、私は悲しい。
読書状況:未設定
公開設定:公開
カテゴリ:
未設定
- 感想投稿日 : 2013年5月31日
- 本棚登録日 : 2013年4月6日
みんなの感想をみる