「性的人間」「セヴンティーン」「共同生活」の三編。
「共同生活」は別として、「性的人間」と「セヴンティーン」を続けて読みながら、キルケゴールの実存の三段階の見事な転覆だなと感心する。
美的実存→倫理的実存→宗教的実存 というキルケゴールの提示するステップに対し、「セヴンティーン」の元々勉強でも運動でも酷く頼りなく人の視線に耐えられないと感じていた主人公は、人を威圧する右翼の制服を纏うことによって見透かされることなく人を見、最後には「自分は天皇陛下のものである」と考えて完璧な安住を得る。この右翼少年は、自己の存在を神に委ねる「宗教的実存」の情けなさを提示しているよう。
ではこの「宗教的実存」を超えて、実際に社会的に実存することこそが求められるのか?というと、決してそうではなく、「性的人間」では、むしろ社会的の中でタブーを冒しながらギリギリで生きることが「生きる価値」とされている。タブーが必要なのは、単に快楽が高まるからであって、瞬間的な快楽の中に生きる価値を描くならば、必ずしも「性的人間」として提示される必要はなかったのでは?とも思うけれど、ここに出てくる人々は、(あるいは現代人たちは)おそらく死そのものよりも、社会的制裁を受けながら生きなくてはいけない犯罪のほうにより強い「タブー」を見いだしているようだし、さらに「反倫理的実存」も兼ねる意味では、人に絶対に迷惑をかける痴漢(相手が快楽を感じた場合それは失敗であるとこの小説の中でされているので、成功する痴漢は迷惑行為である)が最も反倫理的であるとされたのかな、と思ったり。
見ること見られることをより強く主題とした「共同生活」は、私にはまだ読解が不完全な感じ。
実際に存在する恋人や同僚に「見られる」ことよりも、実際は架空であった猿どもに見られることに非常なストレスを感じながらも、どうやらそれを求めていたらしい主人公が「二頭の馬が斜行する時…」(←これ爆笑した)の落書きに惹き付けられるのは、他者に向けて正確な意味を成さない、しかし直接でなく他者を必要とする不思議な自己完結的空間を必要としているものだったからなのだろうか。
架空の共同生活を欲してしまう、というのが私にはいまいちピンと来ず…。
- 感想投稿日 : 2013年4月17日
- 本棚登録日 : 2013年4月17日
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