儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

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本棚登録 : 6609
レビュー : 865
著者 :
河東京児さん ミステリ   読み終わった 

「これを読むのならばね、ブラックコーヒーに限るよ」
一冊の小さな文庫本をいとおしげに撫でながら、都子はそう独白した。
言葉通りに、向かい合わせのソファの間にあるロウテーブルには、まるでコールタールのように真っ黒なブラックコーヒーが置かれている。彼女愛用の赤いマグカップに、健太専用の青いマグカップ。こんなに黒い液体からどしてこんなに清らかな白い湯気が上がるのか不思議な気がした。
「ブラックコーヒーは嫌いかい?」
「いいえ」
どちらかといえば甘党の部類だが、ブラックも嫌いなわけではない。そう思って一口すすると、予想と違った味が広がって一瞬顔をしかめてしまった。その表情のままに彼女を見るといたずらの成功した猫みたいな顔でくっくっと笑っている。
「この本『儚い羊たちの祝宴』は読むときの供はね、ブラックコーヒーがいい。それもたっぷりの砂糖が入ったやつがね。ミルクを入れたらダメだ。タールのように濃く、黒く、苦く、けれど深奥に狂気的なまでの甘さがあるブラックでなければ」
「…どんな話なんです?」
苦く、それでいて甘ったるいそれをちびちびと舐めながら――――…慣れれば中々旨い。眠気覚ましには最適そうだ――――…を問うと、妙に熱っぽい瞳をしながら都子は語り始めた。
「この小説は五編の物語から成る短編集だ。それぞれの物語の主人公は裕福な家の少女、またはそれらに使える使用人だが、いずれも年若い女性だという事に変わりはない。時代背景は明かされていないがおそらく明治か昭和初期辺りだろうか。日本が西洋に染まり切る直前の黄昏のような時代背景が実に美しいよ」
「連作短編なんですか?」
「いいや、世界観と時間は同じようだが、それぞれの話に明確な繋がりはない。ただこの物語の核となる『バベルの会』という組織が存在するね。これはどうやらとある大学の読書会サークルのようだが…、中々含蓄のあるネーミングだとは思わないか?」
確かに、と言葉に出さないままに健太は同意した。バベルとは神話に出てくる建造物、その傲慢から神に雷を落とされた塔の名前だ。かの塔が崩壊して後、言語が統一されていたはずの人民はそれぞれの言語が分かれてしまい、意思疎通ができなくなってしまったのだと言われている。
「崩壊を控えた塔の名前を冠するサークル、そこにいる彼女達はいつだって年相応に残酷だ。思春期の少女なんてものはね、もしかしたら世界で最も残酷な存在かもしれない。自分のその残虐性を全く理解せず、己はかよわい存在であると信じていたりなんかしたら、なおのことね」
その言葉を聞いて、健太は自分の手の中のカップに視線を落とした。黒く黒く、深淵の穴のように黒く、けれどその実、味はひどく甘い。
「ここに出てくる少女たちは、皆ひどくかよわい。境界線を歩いている少女ばかりだ。だからふとしたきっかけで向こう側に堕ちてしまう少女たち。最終話であり、本と同じタイトルの『儚い羊たちの祝宴』にこんな一節がある。『がんばってね、文ちゃん。応援してる。ただ、手助けはしないけど。』ね、こんな誰もが持っている空恐ろしさを的確に表現した言葉があるかい?」
にやにやと笑いながら、都子が自分のコーヒーをすする。その真っ黒で甘いブラックコーヒーを。
「個人的に言うなら三番目に掲載されている『山荘秘聞』の情景描写がとても好きだね。こんなふうにシンと雪が積もった冬の日、黒く熱いブラックコーヒーを飲みながら読むのに最高の一冊だよ」

レビュー投稿日
2013年1月24日
読了日
2013年1月24日
本棚登録日
2013年1月24日
6
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