夫は元気だったころ、何度か繰返し、面白いことを言っていた。「おれが死んだ後のおまえのことは想像できる。友達や編集者相手におれの思い出話をしながら、おいおい泣いて、そのわりにはすごい食欲で、ぱくぱく饅頭を食ってるんだ。ひとつじゃ足りなくて二つも三つも。おまえは絶対、そうなるやつだから、おれ、自分が死んだ後のおまえのこと、全然心配してない」その時によっては「饅頭」が「大福」になることもあれば「煎餅」になることもあった。可笑しくて可笑しくて、ひとしきり笑いながら、気がつくと嗚咽していた。
どれほどの苦しみのさなかにあっても、人はふだん通りに生きようとする。
話さずじまいになったことは他にもたくさんある。
長い間、小説を書いていると、時折、不思議なことを経験する。自分が過去に書いた小説の中のワンシーン、もしくは物語の一部と、まったく同じことが現実に起こるのである。頭の中で創り出したに過ぎない想像上の場所、建物とそっくりな光景に遭遇し、気が遠くなりそうになったこともある。
昔の私は犬が好きで、猫のよさがわからなかった。そんな私相手に、愛猫を失くしたばかりの友人が、哀しみを切々と語り、涙を流し続けた。猫ではく、犬だったら、もっと理解できるのに、と残念に思いながら、早く元気になって、などと言っている愚かな自分がいた。私の両親が健在だったころ。親の介護でやつれ、苦しんでいる人の話を聞いた。眉をひそめて相槌を打ちながらも、本当には理解できていない自分がいた。
刻まれた父との記憶の数々は決して消えなかったはずだ。幸福も不幸も、その境界線がわからなくなるほと溶け合い、母の中でよみがえったり消えたりを繰り返していたのだろう。
不安や恐怖にかられた時、心細い時、哀しみに打ちひしがれている時、誰かにそっと抱きしめられたり、手を握ってもらったりするだけで、いっとき、苦痛から逃れることができる。いつの世でも、どんな時でも、人々はそうやって生きてきた。簡単なことだった。抱きしめる。抱きしめられる。手を握る。握り返す。たったそれだけのことが、手に負えない魔物から相手を守り、自分もまた守られることを私たちは知っていた。
中にカードが入っているなど、全く知らなかった。おそるおそる袋を開けてみた。瞬時にして時が止まった。二つ折りにされた小さな白いカードには、夫の文字で、私の健康と幸せを祈っている、と書かれてあった。
若いころ私は、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。だが、それはとんでもない誤解であった。老年期と思春期の、いったいどこに違いがあろうか。老年期の落ち着きは、たぶん、ほとんどの場合、見せかけのものにすぎず、たいていの人は心の中で、思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々、戦って生きている。
- 感想投稿日 : 2022年6月15日
- 読了日 : 2022年6月15日
- 本棚登録日 : 2022年6月15日
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