「認識」と「行動」-三島の小説でよく見られるテーマ。
つまり人間は頭で考えてから行動するのか、それともあくまで人間の活動自体がまずあって、それを理由づけて体系化するうえで認識が起こるのか?
三島の持論は「行動が先」だったと思うが、行動と認識とが規則どおりに動きシステム化されていれば、世の人々は悩まないで済んだはず。この二者が実体を素直に表に見せず、時として行動と認識の順序がごっちゃになったり入れ替わったりするから、ややこしい。三島の意図はこの行動と認識の区別を、人物創作によって整理しようとしたものと私は考える。
「青の時代」は1950年に発表。
前年に発表された仮面の告白の主人公が、母の胎内から生まれ出た時の情景を覚えている、と独白する箇所が印象に残っている。なぜなら作中登場人物が自分の行動と認識に一定の制御を与え、理由付けをしており、いわば三島によって「プログラミング」された人物の創作に至ったと思えるからだ。
この作品では冒頭で作者が人物創造の意図を「序」として告白している。
今までにない人物創作によって真実の人間像に迫ってみせる、という堂々たる宣言ではないか?
確かに尻すぼみの印象はある。起承転結の結がすぼんだような感じ。主人公と相対する第二キャラの出来も今一つだ。
しかしこの作品はあくまで試行だと考えれば、金閣寺によって、主人公の行動や思考の動機付け描写の緻密さや、柏木という第二キャラの造形となって花開いたのだ、と捉えることもできるのではないか。
(2008/6/23)
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- 感想投稿日 : 2015年11月8日
- 読了日 : 2015年11月8日
- 本棚登録日 : 2015年11月8日
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