平成史 (河出ブックス)

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osawatakumiさん 趣味・教養・気まぐれ   読み終わった 

「江戸時代」のように「明治」「大正」までは「○○時代」と呼ばれます。でも「昭和時代」や「平成時代」という呼び方をすると、どこか違和感がある。それは「昭和」も「平成」も、多くの人にとって「時代」をつけて歴史語りの対象にするのには、まだ近すぎる過去・記憶だからなのかもしれません。

 この平成を敢えて歴史と して論じようとしたのが本書『平成史』です。
 さて、平成を歴史として捉えるといわれても、いまいちピンときません。上述のように、今この瞬間も続いている平成の社会を歴史化するのは「近すぎる」、つまり時期尚早なのではないか。そんな疑問が、まず湧いてきます。
 そもそも、ひとことで平成といっても、政治や経済、文化、ひいては事件・事故や催事など、その内実は極めて広範です。ゆえに、その何を描けば歴史記述として成立するのかもよく分からない。こうした疑問が、すぐに湧いてくるからです。
 おそらく『平成史』という題名を聞いた多くの人が抱くであろう上段の疑問に答えるところから、本書の議論はスタートします。さらにいえば、この「(1)近すぎる」と「(2)何を描くのか?」という2つの疑問へ答えることは、以下で示す本書の問題意識とそれへ接近する手法の宣言という側面を帯びてもいます。
 まず前者の「(1)近すぎる」には、かつて日本が太平洋戦争に敗れてから10年後にあたる1955年に『昭和史』が書かれていたことを指摘します。この『昭和史』には、日本にとって未曾有の経験となった太平洋戦争を歴史的な過程の中に位置づける意義がありました。これと同様に、平成を歴史として論じる試みは、「失われた20年」が続くなか、東日本大震災と原発事故という経験をしたまさに今こそ、行われて然るべきだというわけです。
 次いで、後者の「何を描くのか?」について。これは極めて難しい問題です。歴史記述とは、古代や中世における王朝の変遷史を典型とするように、対象社会を代表するものを記述する性質を帯びています。しかし、平成という時代には「これが代表だ」と誰もが納得できるものがない。だとするならば、「代表のない時代」が創出された平成日本はどのような社会だったのか、そしてそのなかで生きる人々の多くはどのようなことを考えがちだったのか。この2つを描くことが、平成史において唯一かつ最善の手段でもあると筆者は述べます。

 上記(かなり端折ってますが…)の視座のもとで、「平成とはいかなる時代だったのか」という問いが、「政治」「地方と中央」「社会保障」「教育」「情報化」「国際環境とナショナリズム」の6つの領域、そしてそれらを束ねながらより俯瞰的に記述される「総説」の1つを加えた全7章の構成によって議論されていきます。
 結果、各章での議論を通じて浮き彫りにされるのは、状況認識や価値観の転換に目をつぶって問題を「先延ばし」にする、自国が最盛期だった時代を忘れられず冷戦期で時間を止めてきた時代としての平成の姿です。

 各章それぞれ興味深いので、その概要は後回しにして、まず本全体の感想から。
 本書においては、「昭和が占めるウェイトの重さ」が1つの特徴だと思います。1989年1月7日に始まった平成。そこで何が変わり、何が変わらなかったのかを理解するためには、先行する時代である昭和(厳密に言えば戦後)が論じられなくてはならないからです。ここから、内容的には平成と同等、あるいはそれ以上に昭和という時代に記述が割かれることになるわけです。ゆえに、『平成史』という題名を意識しすぎると、この昭和の顕在感に少なからず戸惑うかもしれません。
 一方で、そうした昭和のウェイトを考えると、本書は「最新版の『昭和史』」として読むべきものなのかもしれません。数年前のバブル懐古なり、最近の昭和30~40年代へのノスタルジックな憧れなり、ともすれば平成と比較して「古き良き時代だったあの頃」としての昭和は、いかにして今日という帰結をもたらしたのか。虚構化や憧憬の対象としての「あの頃」が再生産されがちな今だからこそ、本書はそうした認識とは一線を画すものとして価値があると思います。


――各論――
■「総説」
 昭和から平成にかけての変化が俯瞰的に語られます。まず昭和から平成で何が変わったのか。同時に、その変化があったにも拘わらず、人々にはそこまで「社会が変わった」との実感が無いのは何故なのか。つまり「昭和から平成にかけての社会変化と社会意識のズレ」が論じられるというわけです。
 社会問題の認知が遅れて逆効果の政策がなされる過程を、社会の中核と周辺の問題認知のタイムラグに端を喫する構造的問題として説明している部分が、極めて興味深く読めました。また、サスキア・サッセンの労働力移動に関する知見が紹介されているのですが、移民に関する一般的な理解とは逆説的な見解で、これ(恥ずかしながら知らなかった…)を知れたことも個人的に大きな収穫でした。原典をまだ確認できていないので何とも言えないですが、サッセンのアイデアはもっと様々なところで紹介されても良いように思います。

■「政治」
 昭和後期以降の日本では、「政治改革」などのキャッチフレーズのもと、意思決定をスムーズにするために多くの制度改革がなされてきました。一方で、今日でも「決められない政治」という言葉が流布しているように、改革はむしろ一層の混乱を政治に生じさせ、重要な政策が先延ばしにされる状況が続いているとされます。こうした平成の政治の構造を、「政党と政治家」「有権者とメディア」「制度改革と政策」という3つの視点から分析しています。
 平成の政治における有権者の政治意識と行動の影響力の高さに触れ、いわゆる「風が吹く」ことによって首相または政権の交代が起こり続けてしまうメカニズムを論じています。そして、これが惹起する長期的な政治停滞を止めるにはどうするべきかについて、単純なリーダーシップ論とは異なる提言がなされています。

■「地方と中央」
 明示以来、日本の社会問題には裏テーマとして常にあった「表日本と裏日本」。つまり中央と地方、あるいは地方都市間に生じる国内南北問題が中心的に論じられます。
 中央と地方との格差はもちろんのこと、より重要なのは地方都市間での格差です。すなわち平成に入った時、財政破綻に陥った夕張のような事例がある一方で、新潟の高柳や大分の湯布院のように、独自のまちづくり施策を成功させた自治体もあるわけです。では、その違いはどこからきたのか。
 論文前半では、日本の国土や開発の施策の変遷を概観し、そのなかで平成に入ってからの明暗は、自治体が「開発依存」に陥ったのか、それとも「目先を変えるフォーマットやハード」に投資できたのか、という点が分水嶺だったことが明らかになります。
 後半では、上記でみた事例をもとに、元来「変わらなければならない」と言われ続けてきた地方においてこそ、工夫ひとつで開花し得る多様な価値や可能性、さらにそれを担ってくれる人材への需要が存在していることが指摘されます。芸術家と協働する山村や90年代以降広まってきた若者のIターン、農業支援など、日本には「豊かな地域づくりの水脈」が存在しているというわけです。私事ですが、この部分は、かつて自分が就活中に知っていたら、また違う人生があったかなと思う内容でした。

■「社会保障」
 「安らぎをくれる昭和」と「喪失・改革の時代としての平成」という認識から離れ、個人化の進展の中で様々な認識の変化や改革が行われ、社会の再構築が目指された時代として平成が捉えられます。この平成における再構築のプロセスの中で、どのような問題が発生したのか、そしてそのなかに新たな社会創出への可能性がないのかを論じています。
 全体として、様々な統計が示されながらの極めて丁寧な論展開です。同時にそうしたデータの一つひとつにインパクトがあり、飽きずに読み進めていけます。
 一般的に小泉政権時に始まったとされる日本社会のネオリベラル化が、実は社会保障制度面においては小泉改革以前からその布石があったという点と、なぜそうした傾向が日本で支持を得やすかったのか。そのほかに「格差論」と「貧困論」の比較なども、新たな発見が多く、とても勉強になります。

■教育
 日本型雇用システムについては、その組織で「何をするか(内容)」よりも「いるかどうか(所属)」を重視する特徴があることが指摘されてきました。これは、濱口桂一郎によって「メンバーシップ契約」と名付けられ、広く知られています。
 論者は、これと同様の特徴が、雇用システムだけでなく、子供・若者が社会的存在となるあらゆるプロセスに偏在してきたとします。本論ではこの「メンバーシップ」をキーワードに、戦後日本の教育が読み解かれていきます。
 「メンバーシップ主義」を中心とする昭和期の「学校と企業が成功しすぎた社会」は、非正規雇用の増大が象徴するように90年代以降、崩壊の一途を辿ってきました。結果、日本社会は「誰もが漏れ落ちる社会」になっています。
 しかし、その状況下での施策をみていくと、構造的原因の解消というよりは、不登校や引きこもり、ニート・フリーターなど、問題を過度に単純化し、自己責任を強調する若者バッシングばかり。こうして平成の日本では、本来「弱者」とされるべき人が「敗者」とされ、経済的にもアイデンティティ的にも剥奪が起こる「社会的排除」が日本で常態化することになったとされます。
 論者は、こうした平成に至るまでの教育施策を省察したうえで、子供や若者と社会のつながりが断絶しないために重要なことは何かを導き出していきます。そうした結論部のほかには、「フリーター経験が社会的にはゼロでなくマイナス」になることについてや「PISAと学力低下」および「個性」など、俗に言う「ゆとり世代」が当事者として投げかけられてきた問題に対して、通説とは若干異なった見解が示されている点などを興味深く読みました。

■情報化 
 日本の情報化がいかに「スカ」だったか。これが平成の情報化過程を通じてみえてきます。
 まず、ITをテーマにするときには、それをどう論じるのかが、極めて重要な問題となります。これについて、筆者は「インフラ層」と「アプリケーション層」の2つに切り分けて概観していくという、極めてシンプルかつ有用な視座を採用しています。
 日本社会は、インフラ層だけみれば、世界でも類をみないほど情報化に成功しました。しかしながら、アプリ層についての評価は対称的です。デフレ経済とマッチしたことで普及はしていったものの、その多くは既存のマス媒体のコンテンツをより安価に置換してきたに過ぎません。こうした状況が、平成以降の人口や経済の成長が停滞していった日本社会において何をもたらすのか。「タイムマシン経営」や「創造経済」といったところから、日本の情報化がポスト工業化社会への移行としては失敗だった理由が述べられます。
 また、日本のものづくりではなぜ半導体や高機能液晶のような「部品」はつくれても、iPodやiPhoneのような「製品」はつくれなかったのか。この問題を、何を売って収益をあげるかという「ビジネスモデル(と日本の企業風土)」と開発段階での「モジュール度」という2つの観点から説明していく部分も極めて説得的です。
 総じて、日本の情報化空間は、デフレ消費の促進と失望した人たちの為の鬱憤発散の場としてではなく、経済や政治の世界で「生産」を興せる存在になっていかなくてはいけないという警鐘となっています。

■国際環境とナショナリズム
 外交・安全保障・ナショナリズムに関する平成史。この領域をみるときに重要なのは、冷戦崩壊と55年体制の終焉という国内外政治環境の変化と、昭和から平成への転換がちょうど重なっているということです。それゆえこのテーマは、昭和と平成で何が変わったのか(or変わらなかったのか)を論じる本書の象徴といっても過言ではないでしょう。
 論者は、これらのテーマにおける問題の構図も、他の内政における問題のそれと大枠は同じだとします。すなわち、外交・安全保障に関して明確な構想を欠いたまま、国際環境が変わっても冷戦期の構造をなんとしてでも維持しようとし、無理が出れば補助金を使って取り繕うというものです。これはやはり、「ある国が、自国が最盛期だった時代を忘れられず、その時代の構造からの変化に目をつぶってきた歴史」の象徴のように思われました。
 またナショナリズムや右傾化は、昨今のヴィヴィッドなテーマとしてよく耳にすると同時に、世界の先進各国で共通して見られる現象でもあります。では、そのなかで日本における右派ポピュリズムの台頭は、どのような特徴を有しているのか。これを論じながら、維新系政党の高い支持率を獲得するメカニズムや「沖縄ナショナリズム」というべき現象の構造が説明されていくのですが、この部分も説得的で読みやすかったです。

レビュー投稿日
2013年3月28日
読了日
2013年3月28日
本棚登録日
2012年11月2日
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