いつまでも整理中の本棚
読書状況 読み終わった
カテゴリ 日本思想史
読書状況 読み終わった
カテゴリ 外国文学

全体は3部で構成されており、第1部ではウェーバーの生涯と人物像が、第2部ではウェーバーの国民国家論、国民経済論が、第3部ではウェーバー社会学の方法論が、それぞれ解説されている。

ウェーバーは、ビスマルク以来のユンカーによる労働者の支配がドイツの近代化を妨げる宿阿だと考え、近代的な国民経済の担い手となるべき労働者の利益を擁護した。ただし彼はこの問題を、労働条件の改善という経済領域の中に限定することに反対する。めざされなければならないのはドイツ社会の政治的成熟であり、彼はそうした観点から、労働者の自助原則に基づく労働組合の政治的役割に対する期待を表明している。「上からの」近代化によって労働者の保護を達成したところで、政治の主体は育たないのである。

のちにウェーバーは、講演『職業としての政治』の中で、政治家が担うべき倫理は、自己の心情に忠実であることをめざす「心情倫理」ではなく、現実における結果の責任を負うべきだとする「責任倫理」でなければならないと主張する。こうした立場から、彼は、当時の若者たちを支配している革命の熱狂や心情倫理的行動欲求に対する批判をおこない、現実の中に踏みとどまって、断じて挫けることなく問題の解決を図ってゆく主体の姿を描き出したのである。本書の第2部では、こうしたウェーバーの思想が分かりやすく紹介されている。

ところで、ウェーバー社会学の方法論に大きな影響を与えたのは、リッケルトら新カント学派の価値哲学だった。ウェーバーは、価値を前提とする社会学的認識は単なる主観的なものだと考えてはいなかった。彼は『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』の中で、社会科学的認識において「価値理念」という主観的なものと「思惟の規範」すなわち「論理学と方法論の規則」という客観的なものの果たす役割を区別する。研究の出発的では「価値理念」が規定的な役割を果たすが、それは当の研究の「観点」を定めるという役割を担っているだけであり、研究の進行においては普遍的な「思考の規範」にのみ拘束される。ウェーバーは、こうした客観的研究の主観的条件を「価値自由」と呼び、それぞれの観点から現実の中の特定の徴表が取り上げられることで「理念型」が構成されると考えた。本書の第3部では、こうした問題への見通しが与えられている。

西田幾多郎の場所の哲学を独自に展開し、浄土真宗の宗教哲学的基礎づけへの展望をおこなった本。

著者は、ヘーゲルの洞察を受け継いで、論理は思想の形式にのみ関係するのではなく、思想の内容そのものの運動の中で自覚されるものと考える。思想に内在的でありつつ同時に超越論的な論理の探求をおこなった哲学者としては、カントの名前をあげることができる。カントの超越論的論理学は、私たちの認識と同時に、しかも認識によらずに成立するカテゴリの役割を明らかにした。

さらに西洋哲学史を遡るならば、デカルトやソクラテスの思索のうちにも、同じような論理を認めることができる。デカルトの懐疑は、自己についての疑いを通じて、すなわち自己に向けての否定的な営みを通じて、自己を知ることだと言うことができる。ソクラテスの「無知の知」も、これと同様である。こうした思索のあり方は、深く自己の底へと向かって自己を否定することで、かえって自己を超えることだと言うことができる。

そして著者は、こうした自覚の論理を明確にしたのが、西田幾多郎の場所の思想だったと解釈する。このような自己は、自己を超越した場所に包まれることによって、自己を包むものへとひるがえり、包まれるものの中に包むものが映されることになる。その一方で、包まれるものはけっして包むものへとひるがえることのないという否定性も、同時に成り立っている。これが「絶対矛盾的自己同一」と呼ばれる関係だが、著者は「矛盾」の言葉を嫌って、「場所的自己同一」という言葉を用いた方が、より適切だと考える。

その上で著者は、こうした場所的自己同一の関係は、浄土思想における二種深信、すなわち、法の深信と機の深信との一体観や、名号の論理を的確に説明するという主張を展開している。

西田幾多郎の哲学と禅との関係についてはよく知られているが、浄土思想との関係について掘り下げた考察をおこなっている研究書として、おもしろく読めた。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 哲学一般

西田幾多郎の思想を、西洋に始まる哲学そのものに生じた「転回」とみなす立場から、その意義を考察している。

西田幾多郎は『善の研究』の中で、私たちの日常的な経験の一つひとつが「純粋経験」だとする見方を打ち出した。その一方で彼は、純粋経験を深めてゆくと、「筆自ら動く」画家の経験のような「知的直観」と呼ばれる境地に至ると考えた。この両者の関係について著者は、目の前の事実が宇宙の活動そのものである「統一的或者」の一先端現場として見られるような経験が、「知的直観」だとする解釈を打ち出す。

その後西田は、フッサールにおけるノエシスとノエマの相関構造を超えて、主体的な「有」の立場の奥底に「場所的限定」を見いだした。「場所」とは主体的意識の「底」であり、「見るものなくして見るもの」だとされる。さらに著者は、こうした考え方は後期西田哲学の中で、より明確になったと考える。そこでは西田は、私たちの自己は「作られたものから作るものへ」と限りなく移りゆく世界そのものの自己射影点として働くと考えた。

だが、自己が世界そのものの焦点として働くということは、どのようにして把握されるのだろうか。「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である」と西田は語る。こうした「世界から見る」立場を確立したのが後期西田哲学であり、それによって西洋に始まる哲学そのものの「場所論的転回」が果たされたと著者は論じている。著者は、こうした「世界から見る」ような自覚のあり方を説明するに当たって、集合論と群論のモデルを用いることで、その内実を明確にしようと務めている。

また、西谷啓治の宗教哲学が、西田の「転回」をどのように推し進めることになったのかを論じた章や、ハイデガーと西田の比較をおこなっている章も、興味深く読んだ。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 日本近現代哲学

読書状況 読み終わった
タグ

読書状況 読み終わった
カテゴリ 哲学一般

読書状況 読み終わった
カテゴリ 新書版
タグ

イコノロジーの方法に基づいて、ルネッサンスの絵画とその時代背景に迫る試み。

ルネッサンスは「人間性の発見」の時代だと言われる。だがそのルネッサンスは、サヴォナローラによる「虚飾の焼却」が荒れ狂った時代でもあった。ルネッサンスの人びとの見ていた「現実」は、現代の私たちの理解するそれとは異なっていたことが理解されなければならないと著者は言う。そして、とりわけマルシリオ・フィチーノやピコ・デラ・ミランドラらの新プラトン主義の思想からの影響を、ルネッサンスの絵画のうちに読み取っている。中でも、フィチーノによって四性論における「憂鬱質」が創造的人間の特質としてみなされるようになるという価値の転換がおこなわれたことが、新しい時代の芸術家たちに及ぼした影響や、新プラトン主義的な「愛」の思想がさまざまな絵画の主題として取り上げられるようになったことなどが、詳しく解説されている。

また、ジョヴァンニ・ベルリーニの『神々の祝祭』という絵画がたどった運命を詳しく追うことで、ルネッサンスにおける「愛」の思想の変遷を解明してゆく考察が展開されている。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 文庫版

読書状況 読み終わった
カテゴリ 文庫版

「聖徳太子未来記」をはじめとする数多くの偽書が作られたメカニズムの考察を通じて、中世のコスモロジーに迫った本。

古代国家の解体によって保護の下から投げ出された官寺・官社は、それまでの貴族層だけでなく庶民層をも信仰世界に取り込むことを余儀なくされた。気まぐれな古代の祟り神ではなく、遠い世界にある仏が衆生を救うために垂迹し、祈りに応えて利益を施し、死後には浄土へと送り届けてくれる存在が必要とされるようになった。こうして、国家が神仏との通路を独占していた時代が終わり、国家による託宣の管理と解釈の統制は不可能となった。そうして、人は誰でも一定の作法を踏むことによって宗教世界との交流を果たしうるという考えが、広く受け入れられるようになった。これが、中世という時代に偽書が生まれる背景となったと著者は主張する。

さらに著者は、日蓮や親鸞といった鎌倉新仏教の提唱者たちが、数多くの仏典を渉猟しつつも、そこにしばしば強引な解釈を施していたことに触れ、そこにあった精神史的背景は、本覚思想や神道理論を生み出したものと同じではなかったかと述べる。伝統仏教を乗り越え、この世界を成り立たせている根源的存在への探求は、彼岸と此土とを仲立ちし、一般の人間が知りえない未来の出来事や物事の深い意味を察知して私たちに伝達する存在として、神や仏像、そして聖徳太子に代表される聖人たちへの信仰を生み出した。他方、こうした情熱がよりラディカルな仕方で燃え上がり、直接神仏との接触を志向するとき、念仏や唱題、座禅といった特定の一行を選び取り、他のいっさいの神仏と教行を否定する新仏教への道が開かれたとしている。

読書状況 読み終わった

著者が京都の北白川教会で6回にわたっておこなった講話をまとめた本。著者は、アウグスティヌスやトマス・アクィナスについての浩瀚な研究書を執筆しているが、本書は一般の信徒に向けて平易な言葉で語られている。

第1話「アウグスティヌスと女性」では、アウグスティヌスの母モニカと、彼が16年にわたって連れ添った女性との関係についての考察を通じて、アウグスティヌスの人物像に迫っている。

また、キリスト教と仏教との対話についても、独自の観点が示されている。第3話「ペルソナとペルソナ性」の冒頭では、西谷啓治の議論に対する疑問が提出されている。西谷は、キリスト教の神の「ペルソナ性」を表象的な神として解釈し、その突破を図ったエックハルトを高く評価するとともに、大乗仏教の「空」の立場をよりいっそう優れたものとする解釈を示した。しかし著者は、こうした解釈は、キリスト教の「ペルソナ」に対する誤解に基づいているのではないかと述べる。著者は、アウグスティヌスの三位一体論などを参照しながら、父・子・聖霊の三者が「ウーシアにおいては一であるが、ヒュポスタシスにおいては三である」という解釈が定式化されたことが説明される。そして、父とともに子から聖霊が発出される働きが、「愛」として捉えられたと述べられ、ここには神が理解するものであると同時に愛するものであるという考えが見られることを指摘する。著者は、このような三位一体の理解に基づいて、人格としての神は表象の立場にとどまるという理解への反論をおこなっている。

その一方で著者は、アウグスティヌスの悪についての考察が、道元のそれと似ているという指摘をおこなっている。すなわち、神を愛して、自己に対する愛を殺すに至るような愛が神の国を作るという考えの中に、「山川草木悉皆成仏」についての道元の立場に通じるものを見ようとしている。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 文庫版

読書状況 読み終わった
カテゴリ 新書版

ドゥルーズの思想の解説書。

著者はまず、ドゥルーズによる哲学史的探求の特色について、興味深い考察をおこなっている。ドゥルーズは、過去の哲学者たちに背後から忍び寄り、いつの間にか彼らのあずかり知らない子どもを作ってしまう。ベルクソン、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、プルーストといった哲学者や作家についてのドゥルーズの研究は、彼らが気づかないうちに「怪物じみた」子どもを作ってやるような意表を突く作業だった。

ついで著者は、『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』を取り上げて、ドゥルーズの思想の解説をおこなっている。ドゥルーズは、「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と述べて、「同じもの」を前提とする思考を批判する。彼の主張する「ノマドロジー」とは、境界のない砂漠を遊牧しつつ移動する人びとの軌跡が、「同じもの」を媒介する種や類に従って事物を区分するのではなく、それぞれ無限の際を含んだ個物として配分されることを意味する。

こうした差異のあり方に基づいて、ドゥルーズは「自我」の捉えなおそうとする。彼は、能動的な自我の背後に無数の小さな受動的な自我が隠れていることを見て取る。時間の中で「ひび割れた自我」は、精神分析の観点から「ナルシス的自我」と言いかえられる。しかしドゥルーズは、こうした「ナルシス的自我」に迫ったフロイトが、タナトスをあくまで物質への回帰とみなして、否定的なニュアンスで理解していたことを批判する。

こうした批判は、ガタリとの共著である『アンチ・オイディプス』にも引き継がれる。ドゥルーズ=ガタリは、無意識が、身体、自然、言語、記号、商品、貨幣といった他のさまざまな「機械」との連結を作り出し、たえず何かを生産し続けると考える。だが精神分析は、こうした「器官なき身体」の働きを、オイディプス神話に従って決定的に閉じられたものにしてしまった。これに対してドゥルーズらは、無意識の場を「分裂症化」することによって、至るところに欲望する生産の力を見いだそうとしている。

このほか、『シネマ1』『シネマ2』の映画論や、もう一つのガタリとの共著である『哲学とは何か』についても解説がなされている。

著者のキルケゴールに関する論文やエッセイをまとめた本。

キルケゴールは「瞬間」を、永遠から見捨てられた時間として、至るところに現存すると考えた。そして、実存は瞬間において内在と超越の転換点に立つと主張する。こうした実存の自己生成的な「行」が、いつも新たに始まりを催起する「反復」として捉えられることになると著者は解釈する。こうした著者のキルケゴール理解の背後には、田辺元の「懺悔道の哲学」の影響を見ることができる。

そのことは、著者のキルケゴール批判にも明瞭に表われている。キルケゴールは、人間の罪性を原自然としての「肉の欲」に見て、感性的享楽の満足を中心として生きる耽美主義の克服をめざしている。だが著者は、「肉の欲」は感性的な意味にとどまるのではなく、むしろ人間存在の根底にわだかまる主我的な驕りに支配された「欲」と解さなければならないと述べる。さらに、キルケゴールが有限的な市民秩序を嫌悪するのみで、種的社会の中での実践を通じてみずからの相対性に直面することを避けていることを批判し、「信即愛・愛即信」の行によってどこまでも相対的でありながら絶対性を付与されるという事態に迫ろうとしていないことに不満を述べている。

そのほかでは、キルケゴールとブルトマンの対立を止揚する試みがおこなわれていることにも注目するべきだろう。ブルトマンの実存的なイエス論の中心には、神の前の決断が置かれており、この点にキルケゴールとの類似性を指摘することができる。だがブルトマンは、あくまで史的イエスとケリュグマのキリストを切り離し、両者の「断絶」から「断念」の立場へと進んだのではないかと著者は言う。だがキルケゴールは、「断絶」によって初めて出会うイエスの「歴史」を見ていたと著者は主張する。そして、このような「歴史」のうちに、ブルトマンの「救済の出来事の神学」と、クルマンの「救済史の神学」を「止揚」する方途を求めることができるのではないかと述べている。

ツイートする