ヘーゲルに還る: 市民社会から国家へ (中公新書 1472)

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  • 中央公論新社 (1999年4月1日発売)
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『法の哲学』が刊行された1820年頃のヘーゲルの市民社会論および国家論を検討し、「プロイセンの御用哲学者」ではなく、自由主義者としての顔を明らかにしている。

1970年代から、『法の哲学』刊行当時にヘーゲルがおこなっていた講義の内容が知られるようになった。この新しいテクストによって、多くの研究者がヘーゲルを自由主義者として理解するようになっていった。著者はそうした新しいヘーゲル解釈の潮流を紹介するとともに、講義録によって明らかになったヘーゲルの市民社会論・国家論を論じている。

1819年、フランクフルトの連邦議会は自由主義に対する弾圧を可能にする「カールスバート決議」を採択した。この出来事は、『法の哲学』の刊行を予定していたヘーゲルに大きな衝撃を与え、著作の内容を変更することを余儀なくさせた。だが著者は、この時期に行われたヘーゲルの講義の内容を紹介しながら、当時のヘーゲルが『法の哲学』の中で語られている議論よりも自由主義的な立場に立っていたことを明らかにする。『法の哲学』の内容に比べると、講義録では君主権に対して立法権により大きな権限が与えられていた。また、『法の哲学』の「序文」にある「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という文章に対応する講義録の中の言葉には、国民が主体となって歴史的現実が理性的な原理に適うものへと発展してゆくという発想が語られていた。

ところで、ヘーゲルの市民社会論はカントのそれを引き継ぐ内容を持っている。だが、たとえば『人倫の形而上学』におけるカントの議論は、市民社会を管理し組織する自律した成員である「能動的国家公民」と、市民としての自律を持っておらず保護されなければならない「受動的国家公民」を分断する内容を持っていた。これに対してヘーゲルは、市民社会の中での労働職業を通じて、各成員が市民として成熟を遂げ、おのおのの自由を涵養してゆくプロセスを明らかにした。ここにヘーゲルの議論の大きな意義があると言ってよい。その上で著者は、ヘーゲルの議論を一歩先へと進め、そうした自由を自覚した人びとによる国家の形を論じている。ヘーゲルは『エンチュクロペディー』の中で、「客観的精神」の展開を国家で終えて、そのあと芸術・宗教・哲学の段階を持つ「絶対的精神」へと議論を進めてゆくが、著者はむしろ「絶対的精神」は文化的・哲学的な成熟を遂げた成員たちによる客観的な共同体として描かれるべきだと主張している。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 新書版
感想投稿日 : 2013年2月28日
読了日 : -
本棚登録日 : 2013年2月28日

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