全体は3部で構成されており、第1部ではウェーバーの生涯と人物像が、第2部ではウェーバーの国民国家論、国民経済論が、第3部ではウェーバー社会学の方法論が、それぞれ解説されている。

ウェーバーは、ビスマルク以来のユンカーによる労働者の支配がドイツの近代化を妨げる宿阿だと考え、近代的な国民経済の担い手となるべき労働者の利益を擁護した。ただし彼はこの問題を、労働条件の改善という経済領域の中に限定することに反対する。めざされなければならないのはドイツ社会の政治的成熟であり、彼はそうした観点から、労働者の自助原則に基づく労働組合の政治的役割に対する期待を表明している。「上からの」近代化によって労働者の保護を達成したところで、政治の主体は育たないのである。

のちにウェーバーは、講演『職業としての政治』の中で、政治家が担うべき倫理は、自己の心情に忠実であることをめざす「心情倫理」ではなく、現実における結果の責任を負うべきだとする「責任倫理」でなければならないと主張する。こうした立場から、彼は、当時の若者たちを支配している革命の熱狂や心情倫理的行動欲求に対する批判をおこない、現実の中に踏みとどまって、断じて挫けることなく問題の解決を図ってゆく主体の姿を描き出したのである。本書の第2部では、こうしたウェーバーの思想が分かりやすく紹介されている。

ところで、ウェーバー社会学の方法論に大きな影響を与えたのは、リッケルトら新カント学派の価値哲学だった。ウェーバーは、価値を前提とする社会学的認識は単なる主観的なものだと考えてはいなかった。彼は『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』の中で、社会科学的認識において「価値理念」という主観的なものと「思惟の規範」すなわち「論理学と方法論の規則」という客観的なものの果たす役割を区別する。研究の出発的では「価値理念」が規定的な役割を果たすが、それは当の研究の「観点」を定めるという役割を担っているだけであり、研究の進行においては普遍的な「思考の規範」にのみ拘束される。ウェーバーは、こうした客観的研究の主観的条件を「価値自由」と呼び、それぞれの観点から現実の中の特定の徴表が取り上げられることで「理念型」が構成されると考えた。本書の第3部では、こうした問題への見通しが与えられている。

西田幾多郎の場所の哲学を独自に展開し、浄土真宗の宗教哲学的基礎づけへの展望をおこなった本。

著者は、ヘーゲルの洞察を受け継いで、論理は思想の形式にのみ関係するのではなく、思想の内容そのものの運動の中で自覚されるものと考える。思想に内在的でありつつ同時に超越論的な論理の探求をおこなった哲学者としては、カントの名前をあげることができる。カントの超越論的論理学は、私たちの認識と同時に、しかも認識によらずに成立するカテゴリの役割を明らかにした。

さらに西洋哲学史を遡るならば、デカルトやソクラテスの思索のうちにも、同じような論理を認めることができる。デカルトの懐疑は、自己についての疑いを通じて、すなわち自己に向けての否定的な営みを通じて、自己を知ることだと言うことができる。ソクラテスの「無知の知」も、これと同様である。こうした思索のあり方は、深く自己の底へと向かって自己を否定することで、かえって自己を超えることだと言うことができる。

そして著者は、こうした自覚の論理を明確にしたのが、西田幾多郎の場所の思想だったと解釈する。このような自己は、自己を超越した場所に包まれることによって、自己を包むものへとひるがえり、包まれるものの中に包むものが映されることになる。その一方で、包まれるものはけっして包むものへとひるがえることのないという否定性も、同時に成り立っている。これが「絶対矛盾的自己同一」と呼ばれる関係だが、著者は「矛盾」の言葉を嫌って、「場所的自己同一」という言葉を用いた方が、より適切だと考える。

その上で著者は、こうした場所的自己同一の関係は、浄土思想における二種深信、すなわち、法の深信と機の深信との一体観や、名号の論理を的確に説明するという主張を展開している。

西田幾多郎の哲学と禅との関係についてはよく知られているが、浄土思想との関係について掘り下げた考察をおこなっている研究書として、おもしろく読めた。

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カテゴリ 哲学一般

西田幾多郎の思想を、西洋に始まる哲学そのものに生じた「転回」とみなす立場から、その意義を考察している。

西田幾多郎は『善の研究』の中で、私たちの日常的な経験の一つひとつが「純粋経験」だとする見方を打ち出した。その一方で彼は、純粋経験を深めてゆくと、「筆自ら動く」画家の経験のような「知的直観」と呼ばれる境地に至ると考えた。この両者の関係について著者は、目の前の事実が宇宙の活動そのものである「統一的或者」の一先端現場として見られるような経験が、「知的直観」だとする解釈を打ち出す。

その後西田は、フッサールにおけるノエシスとノエマの相関構造を超えて、主体的な「有」の立場の奥底に「場所的限定」を見いだした。「場所」とは主体的意識の「底」であり、「見るものなくして見るもの」だとされる。さらに著者は、こうした考え方は後期西田哲学の中で、より明確になったと考える。そこでは西田は、私たちの自己は「作られたものから作るものへ」と限りなく移りゆく世界そのものの自己射影点として働くと考えた。

だが、自己が世界そのものの焦点として働くということは、どのようにして把握されるのだろうか。「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である」と西田は語る。こうした「世界から見る」立場を確立したのが後期西田哲学であり、それによって西洋に始まる哲学そのものの「場所論的転回」が果たされたと著者は論じている。著者は、こうした「世界から見る」ような自覚のあり方を説明するに当たって、集合論と群論のモデルを用いることで、その内実を明確にしようと務めている。

また、西谷啓治の宗教哲学が、西田の「転回」をどのように推し進めることになったのかを論じた章や、ハイデガーと西田の比較をおこなっている章も、興味深く読んだ。

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カテゴリ 日本近現代哲学

イコノロジーの方法に基づいて、ルネッサンスの絵画とその時代背景に迫る試み。

ルネッサンスは「人間性の発見」の時代だと言われる。だがそのルネッサンスは、サヴォナローラによる「虚飾の焼却」が荒れ狂った時代でもあった。ルネッサンスの人びとの見ていた「現実」は、現代の私たちの理解するそれとは異なっていたことが理解されなければならないと著者は言う。そして、とりわけマルシリオ・フィチーノやピコ・デラ・ミランドラらの新プラトン主義の思想からの影響を、ルネッサンスの絵画のうちに読み取っている。中でも、フィチーノによって四性論における「憂鬱質」が創造的人間の特質としてみなされるようになるという価値の転換がおこなわれたことが、新しい時代の芸術家たちに及ぼした影響や、新プラトン主義的な「愛」の思想がさまざまな絵画の主題として取り上げられるようになったことなどが、詳しく解説されている。

また、ジョヴァンニ・ベルリーニの『神々の祝祭』という絵画がたどった運命を詳しく追うことで、ルネッサンスにおける「愛」の思想の変遷を解明してゆく考察が展開されている。

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カテゴリ 文庫版

「聖徳太子未来記」をはじめとする数多くの偽書が作られたメカニズムの考察を通じて、中世のコスモロジーに迫った本。

古代国家の解体によって保護の下から投げ出された官寺・官社は、それまでの貴族層だけでなく庶民層をも信仰世界に取り込むことを余儀なくされた。気まぐれな古代の祟り神ではなく、遠い世界にある仏が衆生を救うために垂迹し、祈りに応えて利益を施し、死後には浄土へと送り届けてくれる存在が必要とされるようになった。こうして、国家が神仏との通路を独占していた時代が終わり、国家による託宣の管理と解釈の統制は不可能となった。そうして、人は誰でも一定の作法を踏むことによって宗教世界との交流を果たしうるという考えが、広く受け入れられるようになった。これが、中世という時代に偽書が生まれる背景となったと著者は主張する。

さらに著者は、日蓮や親鸞といった鎌倉新仏教の提唱者たちが、数多くの仏典を渉猟しつつも、そこにしばしば強引な解釈を施していたことに触れ、そこにあった精神史的背景は、本覚思想や神道理論を生み出したものと同じではなかったかと述べる。伝統仏教を乗り越え、この世界を成り立たせている根源的存在への探求は、彼岸と此土とを仲立ちし、一般の人間が知りえない未来の出来事や物事の深い意味を察知して私たちに伝達する存在として、神や仏像、そして聖徳太子に代表される聖人たちへの信仰を生み出した。他方、こうした情熱がよりラディカルな仕方で燃え上がり、直接神仏との接触を志向するとき、念仏や唱題、座禅といった特定の一行を選び取り、他のいっさいの神仏と教行を否定する新仏教への道が開かれたとしている。

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著者が京都の北白川教会で6回にわたっておこなった講話をまとめた本。著者は、アウグスティヌスやトマス・アクィナスについての浩瀚な研究書を執筆しているが、本書は一般の信徒に向けて平易な言葉で語られている。

第1話「アウグスティヌスと女性」では、アウグスティヌスの母モニカと、彼が16年にわたって連れ添った女性との関係についての考察を通じて、アウグスティヌスの人物像に迫っている。

また、キリスト教と仏教との対話についても、独自の観点が示されている。第3話「ペルソナとペルソナ性」の冒頭では、西谷啓治の議論に対する疑問が提出されている。西谷は、キリスト教の神の「ペルソナ性」を表象的な神として解釈し、その突破を図ったエックハルトを高く評価するとともに、大乗仏教の「空」の立場をよりいっそう優れたものとする解釈を示した。しかし著者は、こうした解釈は、キリスト教の「ペルソナ」に対する誤解に基づいているのではないかと述べる。著者は、アウグスティヌスの三位一体論などを参照しながら、父・子・聖霊の三者が「ウーシアにおいては一であるが、ヒュポスタシスにおいては三である」という解釈が定式化されたことが説明される。そして、父とともに子から聖霊が発出される働きが、「愛」として捉えられたと述べられ、ここには神が理解するものであると同時に愛するものであるという考えが見られることを指摘する。著者は、このような三位一体の理解に基づいて、人格としての神は表象の立場にとどまるという理解への反論をおこなっている。

その一方で著者は、アウグスティヌスの悪についての考察が、道元のそれと似ているという指摘をおこなっている。すなわち、神を愛して、自己に対する愛を殺すに至るような愛が神の国を作るという考えの中に、「山川草木悉皆成仏」についての道元の立場に通じるものを見ようとしている。

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カテゴリ 文庫版

ドゥルーズの思想の解説書。

著者はまず、ドゥルーズによる哲学史的探求の特色について、興味深い考察をおこなっている。ドゥルーズは、過去の哲学者たちに背後から忍び寄り、いつの間にか彼らのあずかり知らない子どもを作ってしまう。ベルクソン、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、プルーストといった哲学者や作家についてのドゥルーズの研究は、彼らが気づかないうちに「怪物じみた」子どもを作ってやるような意表を突く作業だった。

ついで著者は、『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』を取り上げて、ドゥルーズの思想の解説をおこなっている。ドゥルーズは、「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と述べて、「同じもの」を前提とする思考を批判する。彼の主張する「ノマドロジー」とは、境界のない砂漠を遊牧しつつ移動する人びとの軌跡が、「同じもの」を媒介する種や類に従って事物を区分するのではなく、それぞれ無限の際を含んだ個物として配分されることを意味する。

こうした差異のあり方に基づいて、ドゥルーズは「自我」の捉えなおそうとする。彼は、能動的な自我の背後に無数の小さな受動的な自我が隠れていることを見て取る。時間の中で「ひび割れた自我」は、精神分析の観点から「ナルシス的自我」と言いかえられる。しかしドゥルーズは、こうした「ナルシス的自我」に迫ったフロイトが、タナトスをあくまで物質への回帰とみなして、否定的なニュアンスで理解していたことを批判する。

こうした批判は、ガタリとの共著である『アンチ・オイディプス』にも引き継がれる。ドゥルーズ=ガタリは、無意識が、身体、自然、言語、記号、商品、貨幣といった他のさまざまな「機械」との連結を作り出し、たえず何かを生産し続けると考える。だが精神分析は、こうした「器官なき身体」の働きを、オイディプス神話に従って決定的に閉じられたものにしてしまった。これに対してドゥルーズらは、無意識の場を「分裂症化」することによって、至るところに欲望する生産の力を見いだそうとしている。

このほか、『シネマ1』『シネマ2』の映画論や、もう一つのガタリとの共著である『哲学とは何か』についても解説がなされている。

著者のキルケゴールに関する論文やエッセイをまとめた本。

キルケゴールは「瞬間」を、永遠から見捨てられた時間として、至るところに現存すると考えた。そして、実存は瞬間において内在と超越の転換点に立つと主張する。こうした実存の自己生成的な「行」が、いつも新たに始まりを催起する「反復」として捉えられることになると著者は解釈する。こうした著者のキルケゴール理解の背後には、田辺元の「懺悔道の哲学」の影響を見ることができる。

そのことは、著者のキルケゴール批判にも明瞭に表われている。キルケゴールは、人間の罪性を原自然としての「肉の欲」に見て、感性的享楽の満足を中心として生きる耽美主義の克服をめざしている。だが著者は、「肉の欲」は感性的な意味にとどまるのではなく、むしろ人間存在の根底にわだかまる主我的な驕りに支配された「欲」と解さなければならないと述べる。さらに、キルケゴールが有限的な市民秩序を嫌悪するのみで、種的社会の中での実践を通じてみずからの相対性に直面することを避けていることを批判し、「信即愛・愛即信」の行によってどこまでも相対的でありながら絶対性を付与されるという事態に迫ろうとしていないことに不満を述べている。

そのほかでは、キルケゴールとブルトマンの対立を止揚する試みがおこなわれていることにも注目するべきだろう。ブルトマンの実存的なイエス論の中心には、神の前の決断が置かれており、この点にキルケゴールとの類似性を指摘することができる。だがブルトマンは、あくまで史的イエスとケリュグマのキリストを切り離し、両者の「断絶」から「断念」の立場へと進んだのではないかと著者は言う。だがキルケゴールは、「断絶」によって初めて出会うイエスの「歴史」を見ていたと著者は主張する。そして、このような「歴史」のうちに、ブルトマンの「救済の出来事の神学」と、クルマンの「救済史の神学」を「止揚」する方途を求めることができるのではないかと述べている。

ニュー・アカデミズムの火付け役となった本。岩井克人や柄谷行人の貨幣論などの成果を踏まえつつ、ドゥルーズ=ガタリの資本主義分析の有効性を検証している。

現象学的なまなざしは、サルトルが描き出したように、他者との間でどちらが相手を対象化して〈主人〉の坐につくことができるかをめぐる相克を生み出す。この相克を乗り越えて社会的秩序を編成するために私たちは、あらゆる他者の〈奴隷〉となることで、かえって秩序を作り上げることができる支点、精神分析でいう「父」をもたなければならなかった。こうして形成される秩序が、ラカンの「象徴界」だ。だが他方、象徴的秩序にすくい上げられないで残るものが無意識を形作ることになる。そして、無意識に押し込められたカオスが噴出するとき、秩序が新たに編成しなおされることになる。エリアーデやバタイユの理論は、このことを明らかにした。

ところでこうした議論は、象徴をいちおう完結した共時的な秩序として捉え、その外部を「外部」として輪郭づけることができるということに何の疑問も持っていないように見える。著者はこうした発想を批判している。ただしその批判は、秩序の側から秩序の外部のカオスへと遡行する否定神学的な発想よりもむしろ、現代の資本主義の分析に有効性を持たないという点に向けられている。

資本主義において貨幣は、たえず再投下されて商品へと化身し、売れることで貨幣に戻るという運動を続けることによって、はじめて資本として生きることができる。つまり貨幣は、あらゆる商品に対するメタ・レヴェルの位置からオブジェクト・レヴェルへと自分自身を回送することで、たえまない資本の流通を作り出してゆく整流器の役割を演じているのである。著者は、こうした資本主義の構造を、外部がそのまま内部に接続されるクラインの壷のモデルによって描き出している。

その上で、資本主義の外部に出るのではなく、それを内部から撹乱する「逃走」という戦略を採って、あらゆるものを一定の方向へと回路づける資本主義の内で多様性を享受する可能性を探ろうとしている。

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カテゴリ 哲学一般

サルトルの「新しい読み」を提示する試みが多い中で、本書は、ハイデガー哲学を継承する実存の哲学という伝統的なサルトル解釈の枠組みに準拠しつつ、魅力的なテーマを発掘した快著だ。

ふつう、言葉は意味を伝達する記号として用いられる。だが詩人にとって言葉は、リズムや響きをもつ「もの」だ。それはちょうど、画家にとっての絵具と同じである。ティントレットの描いたゴルゴタの黄色い空は、苦悩を意味しているのではなく、黄色が苦悩そのものである。画家は、絵具という「もの」を用いて苦悩を捉える。詩人もまた、実在の世界に罠を仕掛けて獲物を捕えるように、現実の中の「もの」である言葉を用いて、現実を超えたものを捉えようとする。

ところでサルトルは、ランボーやブルトンの詩は膨張性の詩であり、マラルメやジュネの詩は収縮性の詩だという。ブルトンは、詩によって現実の中に超現実を呼び入れる。彼にとって超現実の世界は、現実以上のリアリティをもっている。だがジュネにとって、現実の彼方にあるのは、現実のすべてを「無」に変える「悪霊」であった。ジュネはこの悪霊によって自己が解体され「見せかけ」となる苦難を引き受ける。そうすることで、あたかも森の中に一人の泥棒が潜んでいると森全体が泥棒の住みかに見えるように、この現実が「無」へと溶けだしてゆく。ジュネの詩においては、世界は「もの」の存在で充満している。それでありながら、存在が無によって侵食されていることが示される。しかもそれは、現実の世界に存在する「もの」の一つである言葉を用いることによってなされているのである。

こうした解釈は、ハイデガーの後期思想に多少とも触れたことのある読者には親しみやすいと思う。だが、本書のハイデガー哲学の紹介はあまり読者に親切でない。また著者は、ハイデガーとナチズムをめぐる問題にも触れているが、詩論という観点からこの問題にアプローチすることは一面的だといわざるをえない。本書のサルトル解釈が魅力的なだけに残念だ。

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カテゴリ 哲学一般

著者はかつて『悲の現象論』(創文社)の中で、ハイデガーおよび西田幾多郎を中心とする日本の哲学を受け継ぎつつ、歴史哲学を展開する必要を主張していたが、本書はその具体的展開である。また、野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店、岩波現代文庫)に対して、「語ること」のいっそう根底にある「聞くこと」の次元をさし示すことも、本書の主要モティーフの一つになっている。

野家は、オースティン以来の言語行為論に依拠して「物語り行為」を歴史記述の中心に置くことを主張した。これによって、歴史を単に現在の視点から記述された内容に切り縮めるのではなく、歴史について「物語る」という行為を生活世界における一つの行為とみなす立場を確立したということができるだろう。だが著者は、野家の考える歴史を「物語る」現場において、私たちはまず、歴史からの語りかけを聞き取ろうと耳を傾けているのではないかと問いかける。この「聞くこと」の成り立っている次元をめぐって、本書の考察は展開されることになる。

まず著者は、ハイデガーが『哲学への寄与論稿』で論じている「性起」(Ereignis)に手がかりを求める。「転回」以後のハイデガーの思索は、「性起の響きに聞き従う」ことに向けられている。しかもそうしたハイデガーの思索は、「存在の忘却」という歴史的なエポックの中で進められている。著者はここに、「聞くこと」としての歴史の重要な手がかりを見いだしている。

だが他方で著者は、ハイデガーが性起の声を「聞くこと」を「根本気分」とみなすにとどまっていたことを批判する。ここで注目されるのが、大乗仏教の「悲」(compassion)の概念だ。著者は西谷啓治の宗教哲学などを参照して、「悲」はハイデガーの「性起の響きに聞き従う」ことにも通じるような「根本気分」でありながら、同時に「智」であり一種の自覚を意味すると論じる。そして、このような「悲」こそが、著者のいう「聞くこと」としての歴史が成立する次元にほかならないことが明らかにされる。

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「現代思想の源流」となった4人の思想家を取り上げて、彼らの思想がそれに続く思想家たちにどのようなインパクトを与えたのか、また、今日あらためて彼らの仕事を読みなおす意義はどこにあるのかが、執筆者自身の見解を交えつつ論じられている。

今村仁司は、ドイツ観念論などの哲学の「外部」を「指差し」する批判的役割こそが、マルクスの「唯物論」のもっとも重要なポイントだと主張する。こうした観点から見るとき、俗流マルクス主義の経済的決定論のみならず、ルカーチやサルトルの人間主義的マルクス主義も、あるべき人間の姿を観念論的に思い描いているという批判を免れない。

ニーチェを論じる三島憲一は、19世紀から20世紀にかけてのドイツ精神史に関する幅広い知見を披瀝しつつ、ニーチェの思想にさまざまな思潮が流れ込むと同時に、さまざまな思潮がそこから流れ出ていることを明らかにする。だが、そのことがただちにニーチェの思想のアクチュアルな意義を証明することにはならない。現代における不透明な時代経験を「力への意志」や「永遠回帰」といった哲学的キャッチ・フレーズでなで斬りにするニーチェの言説から、左右両極にわたるさまざまな教訓を引き出すことが可能だということにすぎない。こうした批判を展開した上で、ベンヤミンによるニーチェの継承の仕方には特別な位置づけが与えられると三島は考えている。そこには、時代の神話を批判したはずのニーチェ自身が、新たな神話を作り上げてしまったことに対する鋭い批判がある。

鷲田清一は、デカルトに始まる近代的コギトを解体したフロイトの仕事の意義を解説している。私たちの意識の背後にある「無意識」は、そのままの仕方で意識にもたらすことはできない。それゆえ、無意識を読み解く精神分析という営みは、「主体の系譜学」という意義を持つ。

野家啓一は、デカルト主義者として徹底的な還元を押し進めながら、晩年にはもはや還元することのできない「生活地平」へと至りついたフッサールを、モダンとポストモダンの境界に立つ哲学者として論じている。

著者は「あとがき」で、本書を書くにあたって「価値の実在をめぐる現代の議論を、誰にでも分かるようにできるだけ整理しようということ」を一番最初に考えたと述べている。入門書として読めるように工夫を凝らしていることは認められるが、表面的な議論に終始しているような気がする。

道徳的実在論の立場を採る著者が展開する議論の中で、注目すべき箇所は2点ある。一つは、ときに大胆な想像力を働かせながら人間性の起源について考察しながら、私たち人間がどの時点で自然的地盤を超え出て規範的合理性の能力を獲得するに至ったのかを見極めている点であり、もう一つは、自然主義的な認知主義者に対する批判をおこなっている点である。

第一の論点については、比較的おもしろく読むことができた。著者はP・グライスが晩年におこなった倫理学的思索に依拠しつつ、自然的な合理性の能力と、規範的な合理性の能力を区別する。第一の能力は、自然的存在としての生物にそなわる能力であり、とくに自然発生的な小集団社会を構成する類人猿には、同一種の他のメンバーをあざむく能力さえ持つと考えられている。これに対して第二の能力は、理由に基づいて推論する能力である。こうした能力を人類が獲得したのは、自然発生的な社会を超え出て、自発的に集団同士の連帯と協力がおこなわれるようになった時点なのではないかと著者は推測している。こうした議論の細部をさらに詰めてゆくことが、けっきょくはこの問題の解決につながってゆくというのも、一つの立場ではあるだろうが、著者自身はそうした立場から距離を置いている。

第二の論点については、著者の議論は認知主義者に対する十全な批判になっていないような気がする。たぶん認知主義者の議論のポイントは、私たちが「理性」という単一の能力だと思い込んでいるものは、じつは具体的な状況に対処するための個別的なスキルの寄せ集めなのかもしれない、ということなのだと思う。そうであるならば、私たちの生き方や考え方について、その合理性が丸ごと問題となるような場面があるのだと言い立てたところで、認知主義者には、大ざっぱな言葉を使用しているために真の問題の所在を見失っているようにしか見えないのではないだろうか。

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著者は現象学やハイデガーの研究者だが、とくに現代の英語圏の哲学の中でのハイデガーの思想の意義を解明する仕事にたずさわってきた。現代の認知科学をめぐる諸問題に、やはりハイデガー哲学の立場から答えようとしているアメリカの哲学者、H・ドレイファスを紹介したことでも知られていたが、2010年2月に、早すぎる死を迎えた。

近代科学の成立以後、哲学の問題は科学的なアプローチによって解決できるとする自然主義の立場と、それに反対する反自然主義の立場が、激しいせめぎあいをおこなってきた。本書は、現代における自然主義と反自然主義との主戦場である、知識・言語・行為という三つの問題圏で、それぞれの立場からどのような議論がなされてきたのかを分かりやすく紹介している。

最終章「ハイデガーと現代哲学」は、著者自身が共感をもっているハイデガーの立場の現代的意義が解説される。そこで著者は、ハイデガーの議論を反自然主義的な「実践的全体論」(ドレイファスの表現)として解釈する見方を支持している。

本書は現代哲学の教科書として書かれている。だが著者は、英米哲学と大陸哲学を分断するよく用いられる見方は皮相だという。著者は、現代哲学の運動は、自然主義と反自然主義との対立というもっと深刻な次元で生じていると述べる。とはいうものの、本書ではやはり英語圏の議論の紹介に多くのページが割かれており、現代の大陸哲学の動向についての解説が少し不十分であるように思った。

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本書はさまざまなテーマを扱った論文集だが、現代における反自然主義の可能性を追求する、第7章から第9章がもっとも重要。

第7章は、ニーチェの「反自然主義」的戦略を分析し、そこから脱する試み。ニーチェは、人間の理性に特有な「反省」という能力に注目することで人間の意識に内在する「表象」の領域を「自然」から切り離す反自然主義に対する批判をおこなった。ところが著者は、まさにそのような「論敵」を想定することによって、ニーチェが反自然主義の選択肢を貧しくしてしまっていると述べる。その上で著者は、セラーズからマクダウェルへと引き継がれた「理由の空間」(the space of reason)の発想を足がかりに、「反自然主義のもう一つの別の可能性」を探ろうと試みる。

私たちがみずからを取り巻く状況へコミットすることは、「理由の空間」という規範的ゲームに参与することだと考えられる。この規範的領域を、非推論的な因果的説明によって自然主義的に解体することは、「自然主義的誤謬」と同種の誤りだとみなされる。こうして著者は、意識の内部領域の独立性に基づくタイプの反自然主義に与することを選択しない、「反自然主義のもう一つ別の可能性」を見いだしている。

第8章は、マクダウェルの「知覚の概念主義」の立場を擁護する論考。まず取り上げられるのは、Ch・ピーコックによる経験主義的な立場である。著者によれば、ピーコックは知覚の権利を大きく見積もりすぎている。私たちの知覚は、必要があれば明示化することができるような潜在的な仕方で機能している。知覚は私たちの知識を内在的に正当化する理由ではなく、真なる信念を生み出すことができる信頼可能なメカニズムとみなすべきである。

だが著者は他方で、信頼性主義に大幅に譲歩するR・ブランダムに対しても批判を展開する。たとえばヒヨコの雌雄を区別することができても、その区別の根拠となる特性を述べることのできない鑑別者がいる。だがそのことは、正当化の概念を不要にしてしまうという意味で内在主義を解体するものではないと著者はいう。信頼性は、人びとがそれを他者に帰属させることで「理由の空間」の内に位置づけられるのでなければ、私たちの知識の正当化に関係することができないからだ。ヒヨコの鑑別者は、一定の状況下でのみずからの判断が信頼できると他者によって是認され、みずからもそう信じることで、理由を与える社会的ゲームに参与しているのでなければ、識別が可能な状況を再認することができないし、再認できたとしても、自分がその状況で何をすることが許容されているのか分からないだろうと著者は述べている。

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哲学者の下村寅太郎と小説家の小川国夫が、ヨーロッパの哲学・芸術・宗教などを語っている。

主に小川が聞き手役を務め、下村がみずからの研究テーマに関する解説をおこなう形で、二人の議論が進んでゆく。第2講ではアッシジの聖フランシス、第3講ではウルビーノ候モンテフェルトロを中心にルネサンスにおける近代的「個人」の形成、第4講ではレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロを中心とするルネサンスの芸術、第5講ではガリレイとニュートンを中心とする近代科学の黎明期が、それぞれテーマとなっている。

第6講「美しき黄昏の国」は、スペインの芸術に造詣の深い小川が下村に対して、エル・グレコ、ゴヤ、ベラスケスらの絵画の魅力を説いている。

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著者は、個々の生命体である「こと」と、生命の営みである「もの」とを区別し、「こと」がおのずから「もの」となり続けてゆく場面に立ち会うことが本書の目標だと語っている。

「こと」はみずからを「もの」化してゆく以外に現われる術を持たない。著者は両者の関係を、ハイデガーやニーチェの哲学を手がかりにしながら、「現われ」と「隠れ」との相即として描こうとしている。「こと」を「もの」化して理解してはならない。著者は、オート・ポイエーシスに代表されるシステム論も、こうした誤りを免れていないと批判する。

オート・ポイエーシスの考え方にしたがうならば、生命はくり返しみずからを再生産しながら自己同一性を保っている。だが、自己組織化の運動そのものは見ることができる「もの」ではないと著者はいう。システム論者がそれを見ることができるかのように考えているのは、二つの前提を置いているからである。彼らは、世界の内のさまざまな現象の中で「生命」という現象をあらかじめ限定している、つまり「生命についての暗黙の了解」を前提している。また、生命を他のものから区別しているということは、生命と他の諸現象を包む「世界がある」ということを前提している。この二つの前提があるからこ「システムがおのずから作動することによって自己組織化している」ものという答えが理解されるものとなる。だがこの答えは生命と世界についての理解を前提としており、「生命とは何か」という問いに対して「生命とは生命である」という同語反復で答えたにすぎないと著者はいう。

だが著者は、生命の哲学の目標は、生命についての探究がこうした同語反復に陥ってしまう理由を解明することだと述べている。著者は本書の中で、ハイデガーの「性起」(Ereignis)を「こと」と訳している。生命の現出とは「こと」の生起である。生命は、みずからを「もの」として現わしながら固有の軌跡を描いてゆく「こと」である。後期ハイデガーは「自然」をこのようなものとして理解していた。ここに著者は、生命についての同語反復的な自己省察を通って生命がみずからを描き出すありようを見ようとしている。

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M・シェーラーらの哲学的人間学の思想にも言及されているが、著者自身の人間についての考察が中心を占めている。

人間についての経験科学的考察はさまざまな学問領域でなされている。だが、それらによって人間とは何かが完全に明らかになるのだろうか。著者は、人間はみずからを「人間」と自称することによって、まさしく「人間」と呼ばれる存在者を創出する発話行為をおこなっているという。そうした仕方で人間は人間自身となることは、単に対象としての「人間」を経験科学的に研究することによっては明らかにできない。著者は、こうした人間の「自覚」に人間学の出発点を置く。つまり「人間学」とは、私たちがこの通り人間としての自覚を持って生きていることの知的表現にほかならないのである。

さて、著者はこの自覚的なあり方をしている人間を探求するに当たって、「自然主義」(naturalism)の立場を標榜する。この「自然主義」はもちろん、経験科学、とりわけ自然科学的探求によってのみ人間とは何かが解明されるという立場ではない。それは、人間についての本質主義的な見方を退けて、人間の本質が私たちによって「生きられている」ということを重視する立場である。このことは、事実と価値の二分法を採らないということを意味する。

とはいえ、著者は事実と価値が渾然一体となって生きられた神秘的な「生命」を押し出す形而上学的主張に与するのではない。反対に、著者は経験科学との「リエゾン」を重視しており、現代の認知科学の成果を参照する必要を訴えている。

著者は現代の認知科学や哲学だけでなく、メルロ=ポンティの哲学にも造詣が深いことで知られるが、本書における著者の探求の姿勢は、メルロ=ポンティのそれに通じるところがあるように思う。ただしそれは、後期のメルロ=ポンティではなく、初期の『行動の構造』を書いたメルロ=ポンティだろう。

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カテゴリ 哲学一般

さまざまな思想家たちの議論を参照しつつ、「構想力」という哲学的テーマを掘り起こしてゆくエッセイ7編を収めている。

第1章は、カント、デリダ、三木清、西谷啓治、プルースト、スザンヌらの仕事を参照しながら、構想力についての著者の基本的な考えが提出される。著者はデリダとともに、直接的な知に依拠する「現前の形而上学」を批判し、無に差しかけられた存在である私たち人間の、再生的構想力に基づく「非在のものの反復」という営みを理解しようとしている。

第2章ではベルクソンが、第3章では柳田国男と折口信夫が取り上げられ、「非在のものの反復」が私たちの身体や社会の中で文化装置として機能していることを明らかにしている。

第5章は、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの「彼方」への展望が意味するものについて考察している。ここでは、ウィトゲンシュタインの言語論とフーコーの系譜学が対比的に論じられている。フーコーの「知の考古学」は、私たちの知のシステムの深層を歴史的に掘り下げることで、そこに「抑圧と侵犯」「検閲と逸脱」といった、他者との間で生じる「力の関係」が潜んでいることを明るみに出した。一方ウィトゲンシュタインにとって「言葉を理解する」とは、さまざまな状況のもとで言葉を適切に使用する仕方を身に着けることにほかならない。と同時に、ウィトゲンシュタインは「私的言語」批判を通じて、言語ゲームの共有というコミュニケーションの可能性の条件を、言語ゲームの「内部」の事柄として扱った。著者はこのことを確認した上で、言語ゲームの「外部」へと私たちの視線を走らせるものとは、いったい何なのかと問うている。

第6章は、森有正論。森の西洋体験を永井荷風のそれと比較し、森のやや陳腐に見える日本文化論的な議論を、哲学的な次元から救い上げようと試みている。

第7章は、西行論。数寄と仏門の間に身を置いた西行の立場を、唐木順三や西谷啓治の議論を参照しながら論じている。

坂部恵を思わせる知性のきらめきが随所に感じられる。エッセイの形式による哲学的論考として、たいへんおもしろく読めた。

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カテゴリ 哲学一般

現象学の立場から色彩についての考察を展開している。

第1部は、色彩についての物理学的考察や心理学的考察からは抜け落ちてしまう哲学的問題を指摘した上で、そうした問題を現象学的心理学の立場から解明しようとするD・カッツの試みを紹介している。

ニュートン以来「色彩はものの性質ではない」という考え方が自明とされてきた。だが、この考え方とそれを補完する「色彩は感覚である」という考え方は、実体と仮象という「二元論」という哲学的な存在論を前提にしている。本書は、この前提をあらためて問いなおす試みである。

フッサールは、「射影」と「物」という現象学の枠組みに則って、同一の色であっても室内の照明の状況などに応じてさまざまな射影を示すという色彩論を展開していた。だが著者は、色彩心理学においてよく知られている色彩の恒常性やメタメリズムといった事実を参照しながら、フッサールの考える「色彩」が理念化の度合いの高いものであることを指摘する。他方メルロ=ポンティは、より日常的な知覚世界に近い場所である「生きられた世界」に定位して色彩を考察することで、色彩が同一のスペクトル上での比較を許さない「奥行き」を持っていることを明らかにした。著者は、この色彩の「奥行き」という発想が、カッツの現象学的心理学的な分析においてより精緻な仕方で展開されていることを明らかにする。さらに、それらの議論をJ・J・ギブソンの生態学的心理学に接続することで、いっそう豊かな考察へとつなげてゆくことができると著者は主張している。

第2部では、色彩について独自の考察をおこなっているゲーテ、ウィトゲンシュタイン、カンディンスキーの議論を検討し、現象学の立場から彼らの議論を再構成する試みがなされている。

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カテゴリ 哲学一般

近代日本が「哲学」という知の営みをどのように受容し、それと格闘してきたのかという問題を論じた、12人の執筆者による論考を収録している。

第1部第1章「日本の哲学?」の執筆者の藤田正勝は、「日本の哲学」という言葉につきまとう「いかがわしさ」がこれまで指摘されてきたと指摘する。すなわち、ほんらい普遍性を本質とする「哲学」という学問に、「日本の」という特殊性を意味する形容が付されることは、一種の形容矛盾ではないかというのだ。とくにナショナリズムを煽るために「日本(主義)哲学」という言葉が叫ばれた歴史を振り返るとき、こうした問題に無関心でいることは許されない。

だが、哲学が普遍的な原理の探究だということは正しいとしても、私たちの思索がつねに自分たちの背負う文化の枠の中で始められるということを否定することはできないだろう。そして本書では、「西洋」という「他者」との対話を通して、普遍的な「知の座標軸」の構築をめざした近代日本の思想家たちの営みに、焦点が当てられているのである。

みずからの文化的背景の特殊性をけっしてないがしろせず、しかも普遍的な知をめざす営みは、「開かれた対話」としての「哲学」という形をとることになる。ところで、日本における「他者との対話」の呼びかけは、往々にして「西洋」対「東洋」という形をとることが多い。だが、こうした構図には問題がひそんでいる。その一つは、西洋への対抗言説として東洋の英知を称揚するという議論に陥りがちだということだ。こうした態度からは、他者との対話をみずからの伝統文化の変容を受け入れるという姿勢は出てこない。また、「東洋」の多様性を無視してひとくくりにすることも問題だといわなければならない。本書に収められた高坂史朗の論考「東アジアと「近代」」や、中国の日本哲学研究者の卞崇道の論考「中国の哲学と日本の哲学との対話」は、こうした問題に関わる考察を展開している。

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カテゴリ 日本思想史

近代日本において「宗教」という営みが直面した問題をめぐる、12人の執筆者の論考を収録している。

第1部第1章「精神と霊性」で気多雅子は、明治に入って徳川幕府の庇護を失った仏教は危機を迎えることになったと指摘する。そうした状況の中で、仏教がもっている深い精神的内容を提示することをめざした宗教思想家として、清沢満之と鈴木大拙だった。満之の「精神主義」や大拙の「霊性」は、人間存在の普遍的な宗教性という地平を示す考えだった。西洋的合理性の浸透によって宗教的空間が近代日本から失われてゆく時代に、彼らは西洋的合理性の「もう一つ向こう」を見るということをおこなったのである。満之と大拙、さらに第1部第4章でB・デービスが紹介している西谷啓治などの優れた宗教思想家によって、デカルトのコギトに代表されるような近代的自己の内面性を宗教的な事実性へ向けて切り開く道筋が示された。こうして、宗教の事実性が、ヨーロッパ近代の思想・哲学と仏教的精神土壌とを結びつける場所となり、またこの事実性において近代的自己の内面性は日本人のものとして根づくことが可能になったのである。

そのほか、内村鑑三のキリスト教理解や、夏目漱石の文学作品に現われた「求道」などの検討を通じて、宗教の日本的なあり方を考察した論考などを収録している。なお、個人的に興味深かったのは第2部第4章の「「反哲学」の風土」だった。この論考では、「自然宗教」に「創唱宗教」を対置させる発想が岸本英夫に由来することを突き止め、「啓示宗教」と対置されるような、原理に関わる分類項としての「自然宗教」という概念が、いわば状況に関わる概念へ、つまり宗教の発生的事情を説明する概念へと変容したことが明らかにされている。

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カテゴリ 日本思想史

丸山真男の複合的思考のあり方を考察している。

第1部は、「生」と「形式」の両極のせめぎ合いに強い関心を寄せる丸山の姿を明らかにする。

第2部が本書の中心で、丸山の「政治主体」についての考え方に焦点が当てられる。丸山は、個人と国家の両極分解を退け、両者の内在的媒介を説いたと著者は言う。『日本政治思想史研究』で、丸山は荻生徂徠の近代性を高く評価した。だが、戦後に入って人びとが国家から切り離され「私化」される状況の中で、丸山は徂徠に対する否定的な評価を押し出している。徂徠は、儒教規範は人間の内面性と関わりを持たないと論じた。この見解を引き継いで、内面的信条の不可侵性を説いたのが、本居宣長だった。こうして、徂徠の立場は宣長の非政治性に直結していると評価されることになる。

さらに『日本の思想』では、この国では制度が既製品として導入され、下からの不断の働きかけを受けることがなかったため、理論信仰、概念の物神化、訓詁注釈学に陥りがちとなることが明らかにされた。丸山は、こうした状況を批判しつつ、普遍的価値の担い手としての内面的に自立した政治主体が形成されなければならないと主張したのである。

また著者は、こうした丸山の姿勢が、福沢諭吉の姿勢と深く通じ合うことを認めながらも、丸山が福沢のオプティミズムとはギリギリのところで折り合わないだろうと主張している。絶望的状況の中で自己を見据え、生命の働きとともに再出発する主体こそが、「生」に一方の軸足を置く丸山にふさわしいと著者は論じている。

次に、「忠誠と反逆」以降、武士のエートスや自主的小集団を高く評価する丸山の思想が考察される。ここでの丸山は単純な近代主義者ではない。丸山は、近代精神が前近代に由来するエートスによってどのように支えられていたのか、また、このエートスの喪失が近代精神にどのような変容をもたらしたのかを考察することで、古い精神構造に内在している新たな可能性を捉えなおそうとしている。

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カテゴリ 日本思想史
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明治以降、「偉大な」と形容される日本の思想家たちは、自分たちが西洋と東洋が出会う最前線に立っているのだという自覚の下に、両者を統合する道筋を探るという仕事をみずからに課した。たとえば西田幾多郎は「形而上学的立場から見た東西古代の文化形態」などの論文の中で、西洋の「有」の文化と東洋の「無」の文化を両極に置いて、東西の文化形態の対話・総合の可能性を追求している。

だが、東西の総合は日本人にとってのみ課題だったわけではない。中国、朝鮮半島、インド、東南アジア諸国、さらには中央アジアや西アジアの人々にとっても課題であったはずだ。はたして彼らは「極東の日本人がアジアを代表して「東洋文化」論を展開することに同意しうるのか」、さらには「西田の言葉をもう一度出せば、「柳は緑に花は紅の大乗仏教の真意は日本文化の如きものに於て見出されなければならない」という言葉を、大乗仏教を受容し、その文化を育んできた他のアジアの人々が噴飯せずに聞けるだろうか」と、著者は問いかける。

本書の第1編では、日本と西洋との出会いの中で生まれた「和魂洋才」の考えと、朝鮮の「東道西器」、中国の「中体西用」の中身を検討している。第2編は、西洋「近代」の政治・経済的側面や科学的合理性の側面の検討を通して、「近代」という概念の検討をおこなっている。第3編は、日本が外来思想にどのように対処してきたかということをたどっている。江戸時代の伊藤仁斎の儒学受容、本居宣長の「物にゆく道」の考え、尊王攘夷論、「大東亜共栄圏」という発想などが取り上げられている。

最後の第4編は、個人的にもっとも興味があった。著者はここで、明治以降の日本におけるヘーゲル哲学受容史をたどりながら、東西文化の「総合」という発想がどのような哲学的背景の下で論じられてきたのかということを実証的に解明している。

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