戦前の日本と戦後の日本は、もはや同じ日本といえないほどにまったく違った国家だという認識を踏まえた上で、和辻哲郎の思想を「この二つの日本を何らかの仕方で結び直す」試みとして読み解いている。著者と同じく和辻門下の湯浅泰雄氏の著書『和辻哲郎』(ミネルヴァ書房/ちくま学芸文庫)では、和辻の文化的ナショナリズムの立場のナイーヴさが批判されていたのに対して、本書では和辻の文化的ナショナリズムが時代の中でどのような展望を切り開くものだったのかを積極的に語ろうとしているように思える。

『古寺巡礼』の執筆によって和辻が日本回帰を果たしたという指摘はこれまでもなされてきた。だが同時に、和辻はギリシアとのつながりを日本の仏像の内に見いだそうとしている。ここには、日本の外へと開かれた立場から日本文化の特質を捉え返そうとする彼の志向を認めることができる。日本の外へとみずからを開くという仕方で日本を見なおすという発想は、『風土』においても認められる。「ヨーロッパには雑草がない」「地中海には磯の香がない」といった言葉は、日本人に特有の視線で日本とは異なるヨーロッパの風土を見つめる彼のまなざしのありようを私たちに伝えている。おそらく和辻は、日本から切り離された場所に立ってヨーロッパや日本の風土を類型化・相対化したのではなかった。日本人として自己形成を遂げた者としての立場から、日本の外へ向かって歩み出るという実践の中でヨーロッパと日本の風土についての認識を深めていったところに、「日本論」としての『風土』の特徴がある。

和辻は日常の風土や倫理を論じたが、そこには憧れをもってながめた西欧文化という理想の世界と、妻・照との生活に象徴される安らかな自分の城という、現実の日常世界を超えた二つの領域との緊張関係が影を投げかけている。著者は、和辻がときにそうした緊張を癇癪という形で外に顕わしたことを指摘しつつ、同時にこの緊張関係が和辻の議論に魅力的な陰影を与えていることを見ようとしている。

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和辻倫理学を批判することは容易そうに見えるにもかかわらず、なぜか難しい。批判しようとすると、ナショナリズム的傾向を外から告発するイデオロギー批判になるか、「他」を「他」として論じていないというないものねだりに終わるか、あるいは単に事実の誤りを指摘するだけになってしまう。

本書の著者は、和辻倫理学の言説の構成を解明することで、和辻哲郎という「手品師の手さばき」の「たねあかし」をおこなっている。

とりわけ、和辻のマルクス解釈、アリストテレス理解、解釈学受容を論じた前半の議論は鮮やかだ。「倫理とは何であるか」という問いから始まり、私たちの伝統における「倫理」という言葉の意味を掘り起こしてゆくことで「人と人との間柄」として「倫理」を規定する和辻の議論が、「仕掛けをすでに手中にしている手品師が見事な手さばきで人びとの面前で手品をして見せるように、解き出す答えをすでに手中にしている和辻が見事な解釈の手さばきを読者の眼前で見せ」るような構成をもっていることを、著者は明らかにしてゆく。まさに手品の「たね」を鮮やかに読者に示すスリリングな議論になっている。

本書の後半では、和辻の倫理学における「市民社会」の欠如が指摘される。和辻の倫理学にはヘーゲルの「人倫」(Sittlichkeit)の影響が色濃く認められる。だがヘーゲルの「人倫」は、市民社会における公共性の形成をくぐり抜けたものだったのに対して、和辻は近代経済社会における自由で平等な個人を間柄からの離脱と考え、あまりにも性急に全体性へと回収してしまう。さらに著者は、こうした市民社会に対する和辻の批判のうちに、アングロ・サクソン的国家と構想する昭和日本の世界史的使命という倍音を聞き取っている。

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和辻哲郎に関する論文・エッセイを収録している。

第1部は、和辻の教えを受けた湯浅泰雄、生松敬三、市倉宏祐、勝部真長に、J・マシアを加えた5人によるディスカッション「和辻哲郎の学問と思想」を収録している。第2部は和辻の思想全体についての考察をおこなった論考4編、第3部は個別的なテーマに関する論考8編を収録している。

とりわけ重要な論考の一つに、金子武蔵「体系と方法」をあげることができるだろう。金子は和辻の倫理思想を、行為のありようについての存在論的な考察になっていると特徴づけている。和辻は、日常的行為の具体的表現から出発し、それを行為的連関へ還元し、さらにそれを倫理へ向けて還元しようとする。金子は、こうした和辻の還元の手続きが、具体的な行為のあり方から倫理へと連続的におこなわれていることに疑問を提出する。たとえば、盗賊の親分・子分の間でおこなわれる行為に仁義が見いだせるからといって、ただちにそれを倫理的ということはできない。こうして金子は、行為のありようがすべて倫理的なのではなくて、特定の行為のありようが倫理的と呼ばれなければならないのではないかと主張している。

また、マルクス主義の立場から和辻の風土論を批判した戸坂潤の「日本倫理学と人間学」も収録されている。戸坂は、和辻が倫理に関係する言葉の語義分析から議論を展開していることに注目する。和辻がこうした方法をとったのは、表現を通じてそれを生み出した個人・民族・時代の精神へと迫ることができるという解釈学の立場に立っていたからである。だが戸坂は、こうした解釈学的方法論にしたがうならば、日本語の表現を手がかりとする分析は、いわば同語反復的に「日本倫理」ないし「東洋倫理」を導き出すことになるだろうといい、こうした和辻倫理学の「手品のカラクリ」を批判する。

第4部には、谷川徹三の「イデエを見る眼」をはじめ、和辻の人となりを伝えるエッセイなどの文章を収録している。また第5部には、編者の湯浅泰雄による解説「和辻哲郎研究への視角」が置かれている。

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和辻哲郎、九鬼周造、田辺元という三人の日本の哲学者が、ハイデガーの哲学をどのように理解し、どのように対決したのかを明らかにしている。

日本ではじめて独自の哲学を築いたのは西田幾多郎だった。彼は、みずからの生の深みから言葉を搾り出すようにして文章を生み出していった。そこに彼の思想の魅力があるのだが、他方で彼は、他の哲学者の思想そのものの内に入り込んでそれを内在的に理解するという努力を十分におこなってこなかった。これに対して、西田の後の世代にあたる和辻、九鬼、田辺らは、西洋哲学の伝統と対話を通じてみずからの思想を形成していった。

中でもハイデガーの哲学は、彼らにとって重要な意義をもっていた。三人とも、ハイデガーが時間性を重視するあまり空間性を軽視してしまっているという批判をバネとして、独自の哲学を築いていったのである。ただし、彼らのハイデガーに対する批判や「空間性」の理解は一様ではない。

和辻は、ハイデガーが個人的自己の立場を脱却するに至らなかった点を批判する。ハイデガーが時間性を重視するのも、個人の意識を中心に置いているからだと和辻は考える。そこから彼は、人と人との間柄という意味での「空間性」を基礎とする倫理学を構築することをみずからの哲学的な使命だと考えた。

九鬼は、ハイデガーが実存を解明するに当たって採用していた解釈学的方法論から大きな影響を受けている。だが彼は、事実的・歴史的実存を可能性の地平において解明するハイデガーとは異なる道を選んだ。実存の時間構造を将来から照らし出すことで、被投的投企の統一を明らかにしたハイデガーの立場では、他者の問題が十分に論じられていない。こうした批判を踏まえて、九鬼は、他者を現在の深みにおいて受け入れ、その出会いを永遠化する垂直的時間構造についての思索を深めていった。彼にとっては、個体と個体が偶然に邂逅する同時性としての「空間性」が主要な問題となっていたのである。

田辺は、過去の伝統を破り新たな伝統を打ち立てる主体の実践的行為によって生じる、過去と未来との相互否定的媒介の立場を採った。こうした立場から、彼はハイデガーの実存構造の解明が、観照の立場を脱していないと批判する。ハイデガーの思想は、社会性としての「空間性」の媒介を欠いているというのが、彼の批判の中心だった。著者は田辺の批判がハイデガー哲学の正確な理解に基づいてなされたものではないことを指摘しつつも、存在の暦運に思いをはせるハイデガーの哲学では、思索することと実践することとの関係が明らかにされていないという問題を浮き彫りにしたという点で、彼の批判に一定の意義があったと論じている。

若き日の和辻哲郎が、奈良の古寺をめぐった際の印象を書き留めたエッセイ。宗教的関心ではなく、美的関心に基づく感想がつづられている。

本書の出版から28年後に書かれた「改版序」で、和辻は本書に認められる若々しい情熱を「はずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した」と述べている。彼はまた、若き日の「美的生活」からの「転向」をつづった文章で、「私がSollenを地に投げたと思ったのは錯覚に過ぎなかった……かくて私は一年後に、Aesthetのごとくふるまったゆえをもって烈しく自己を苛責する人となった」と言う。そこには、美に引き寄せられつつも、美に耽溺してしまうことを倫理的に拒否してしまう和辻の姿を認めることができる。こうした彼の内面の振幅が、本書のもつ奥行きを可能にしているのではないだろうか。

本書の始まりの方で、和辻は次のように書いている。「昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役に立つのか……。この問いには返事ができなかった。……父がこの問いを発する気持ちに対して、頭を下げないではいられなかった。」厳格な父の前でみずからを恥じつつも、和辻は奈良の仏教美術がもつ美に魅かれてゆく。薬師寺の聖観音と薬師如来について記した文章はむしろ、これらの仏像のもつ艶かしい魅力から眼を背けることのできない和辻の姿を読者に印象づける。

本書で注目すべきもう一つのポイントは、のちの『風土』へと引き継がれてゆくような洞察が示されている点だろう。本書で和辻は、奈良の仏教美術の背後に、遠くギリシア、インドから中国、朝鮮を経て日本に至るまでの文化のつながりを認めると同時に、そうした文化的な影響を取り入れながら日本人が形成していった独自の美的感性に注目する。そこには、後年の和辻が必ずしも自由ではありえなかった偏狭な自国愛は存しない。「外来の様式を襲用することは、それ自身恥ずべきことではない」と和辻は言う。和辻は聖林寺十一面観音像の制作者が中国から来たという可能性を認めながらも、作者は「わが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らかの心情の変異するのを感じないであろうか」と述べて、日本の風土によって観音像の与える印象が決定づけられていると主張している。

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日本文化論の古典。著者自身がヨーロッパ留学時に見聞したさまざまな土地の気候・風土とそこに住む人間が相互に形成しあう関係にあることを、著者の持つ天才的な詩人的直観によって捉え、そこから翻って日本の風土と日本文化との関係がもつ特色を描き出そうとする試み。

著者は本書の冒頭で、「この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである」と述べており、けっして「自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない」、「ここで風土的形象が絶えず問題とせられているにしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない」と断っている。

とはいえ、本書の第2章に示された「モンスーン」「沙漠」「牧場」という三つの類型についての具体的な叙述が、自然環境が人間生活を規定するという思考方式からほんとうに解放されているかは疑問である。他方、もし本書が著者の意図するように「人間存在の構造契機としての風土性」についての考察となりえているとするならば、今度は戸坂潤が批判したように、観念論の立場に陥っているのではないかという疑念も生じてくる。まして本書の第5章で、著者がドイツ観念論の系譜における風土と歴史についての考察をたどりながら、新たな風土学の展望を開こうとしていることを思えば、戸坂ならずとも上のような疑念を抱かざるをえないだろう。

こうした問題を孕んでいるとはいえ、本書が重要な洞察を含んでいることを否定することはできない。和辻は、本書の叙述が主観的で一面的な印象に基づいていることを、むしろ本書の積極的な意義として捉え返そうとしている。彼は、この本がある短い期間だけ他の風土に生きる「旅行者」の立場から書かれたものだということを明瞭に自覚していた。じっさい彼は「人間は必ずしも自己を自己においてもっともよく理解し得るものではない。人間の自覚は通例他を通ることによって実現される」と記している。

もし、こうした議論のもつ積極的な意義を救い出そうとするならば、自分自身が住まう風土から他の風土へと越境するという行為は、双方の風土と人間の特性についての理解が成立する可能性を開く振舞いだという考えを、和辻の方法論的な構えとして理解することもできるのではないか。

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和辻哲郎の主著『倫理学』への導入であるとともに、和辻倫理学の方法論的基礎づけというべき位置づけの本。本書の第2章では、「人間」が「人間」自身を論じる彼の倫理学において解釈学の方法が採られる必然性が論じられているが、個人的には第1章の議論が興味深かった。

第1章では、「倫理」や「人間」という言葉の成り立ちの検討を通して、人間存在の根本的構造が論じられている。和辻によれば、人間は根本的に共同的なあり方をしている。人間存在の根本秩序こそが、和辻倫理学の中心概念である「間柄」にほかならない。和辻は、人間存在の根本秩序である「間柄」を解明することが「倫理学」の課題だという。

続いて、アリストテレスからマルクスに至る西洋哲学の倫理思想を紹介しながら、そこに人間の共同的なあり方についての問題がひそんでいることが明らかにされる。

カントは「人」を、経験的にして同時に可想的という二重性格をもつ存在として規定した。彼の倫理学は、「人格」を単に手段としてではなく目的として扱うことを要求する。和辻は、カントのいう可想的な「人格」が普遍性を有していること、また、それと対比される「人」の経験的側面が個別性を有していると論じる。そして、経験的にして同時に可想的な二重性格を有する「人」を問題とするカントの「人間学」においては、人間存在の全体が問題とされていたのだと主張する。

その上で、人間存在の全体を射程に入れていたはずのカントの議論が、あくまで観想の立場からの考察にとどまっており、実践の立場から人間存在が論じられていないという問題を指摘するとともに、そうした欠陥を克服することをめざして、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスの哲学が生まれてきたプロセスを概観している。

以上のような議論は、西洋の倫理思想にクリアな見通しを与えるとともに、その根底にひそむ問題を的確に指摘しており、著者の才能の非凡さをうかがうことができる。しかしながら、ヘーゲルの「絶対精神」を「空」に読み替える和辻自身の思想が、その問題をほんとうに克服することができたのかどうかという点については疑問が残る。

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岩波書店「20世紀思想家文庫」の一冊を文庫化したもの。和辻哲郎自身すら、その意識への全面的な統合には必ずしも成功していない彼の思索の構想力の基層に迫る試み。

著者は本書を、『歌舞伎と操り浄瑠璃』という、あまり知られていない和辻の晩年の著書の検討からはじめている。そこで和辻は、『本朝二十四孝』に見られる夢幻的で不思議な美しさの秘密を解こうとして、それがもとは浄瑠璃劇だったことに解答を求めている。著者はこうした和辻の思索に、フランスの構造主義にも通じる構造変換論的な分析を認めるとともに、それを超える契機を見いだそうとしている。人形芝居は、前代の能楽の含んでいた人間の自然性の否定をさらに否定して、人間の自然性を回復することで、「現実よりも強い存在を持ったもの」や「超地上的な輝かしさ」をそなえた世界を作り出しているように見える。そこに著者は、和辻が明確に意識することなしに、自然性の中に見いだされる構造変換を超えて、象徴的な世界との交感を可能にする想像力へとまなざしを向けていたのだと論じている。

著者は、論文「面とペルソナ」や『風土』、さらには『古寺巡礼』と『古代日本文化』との関係のうちにも、同様の問題を見いだしてゆく。これは、構造の中に時間を回復するというポスト構造主義的な問題状況と一致する。ただし著者は、和辻の思想を、現代思想に接続するのではなく、近代日本における柳田国男や森鷗外の「語り」の時空へと解き放つ。和辻が『ホメーロス批判』において、文献学的な文化史の仕事のうちに、回想と現前とが相互に交流しあう「語り」の次元を見ようとしていたちょうどそのとき、柳田は『物語と語り物』において、現実と想像が交錯する歴史の総体を照らし出そうとしていた。さらに柳田のそうした試みは、歴史叙述における想像力の役割と、虚構の物語に対して歴史のもつ言外の拘束力に触れた鷗外の「歴史其儘と歴史離れ」を踏まえていたのではないかと著者は論じている。

著者の読解によって、和辻の思想が持つ他面的な魅力が引き出されているように思う。

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