生きなおす力

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  • 新潮社 (2009年4月1日発売)
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★便利さと効率のよさをもたらす現代の技術は、経済活動における生産性や効率を向上させるだけでなく、人間のライフスタイルや心の持ち方あるいは「心の習慣」まで変えてしまう。発達した技術は心の領域にまで侵入してくるということだ。

★技術の進歩が「心の習慣」まで変えてしまうという問題を、20世紀の歴史の中で象徴的に示してくれたのは、自動車とテレビだ。モータリゼーションの進展は、ショッピングの郊外化やレジャー・旅行のスタイルを変え、全国の都市構造や若者の行動まで変えた。テレビの登場は、家族が向き合う団欒の時間だった夕食の場を全員がテレビに目を向けて黙々と食べる場に変え、さらには子供をテレビのある個室に篭らせるのを加速させた。そして、21世紀のケータイとパソコン(ネット)は、機械を通してのバーチャル・コミュニケーションの比重を圧倒的に大きくし、人間同士の生身の接触を希薄にしつつある。

★今時の核家族世帯では、母親がひとりきりで四六時中赤ちゃんと向き合うことになるので、赤ちゃんが葛藤で泣き叫んだりむずかったりすると、疲れた母親(ときには父親)がゆとりをもって赤ちゃんと向き合えずに、つい叱ったりたたいたりしてしまう。赤ちゃんにとって、それは「退行」をもたらすことになるのだということを、母親(あるいは父親)は知らない。そういうことが日常的に繰り返されると、赤ちゃんの心は退行したまま感情を表に出さなくなる「抑圧」という無反応状態が固着することになる。

★ケータイ・ネットが子供たちにもたらしつつあるものは、20世紀型の技術がもたらした公害、環境破壊、薬害、災害、事故などの「負の側面」とは異質なものだ。20世紀型の技術の「負の側面」は、いずれも被害が目に見える形で発生していた。これに対し、21世紀型の技術であるIT技術は画期的な効率性・信頼性や利便性が目立ち、その「負の側面」は、目に見えない心の領域に忍び込んでくるものなので、やっかいだ。しかも、影響がすぐには表面化しない。従って、ケータイ・ネットがもたらす「負の側面」については、顕在化した事件や問題を氷山の一角ととらえて、全体像を推測する想像力をはたらかせないと、問題の本質に迫ることはできない。

★バーチャル・メディアとばかり接していると、①自己中心的になり、他者の心情を理解する力が育たない、②自分が他者を支配できるような全能感に陥る、③バーチャルな世界とリアルな世界の区別がつかなくなる、④断片的な言葉のやり取りに終始し、生身のコミュニケーションの場合のように相手の反応を感じながら、共感したり深く考えたりする習慣が生まれない、⑤匿名発信に慣れることによって、野獣のような別人格が前面に出てきて、そのまま人格に組み込まれていく、⑥依存症的になる、などの歪みが生じてくるおそれがある。

★人は生きること自体に苦難を背負いつつも、その苦難に対峙してもう1つの道を切り拓く力を与えられている。その切り拓く力は、苦難が大きいほどに、驚くべき強靭さを発揮することがしばしばある。だからこそ、一人一人の人生はそれぞれに個性的な物語になるのだ。

★木枯らしが吹き始める頃、柿の木の葉が落ちて、たくさんの実が黄色味を増してくる。そんな柿の実をもがないでおくと、やがて熟し切ってポトンと落ちる。物事にはあせってもどうしようもないことがあるけれど、時が流れるうちに不思議なことに、柿の実が熟して落ちるように、一筋の光が射してくるような変化が起こる。とくに心の問題になると、そういう変化が訪れるまで長い時間がかかる。私はそういうときが来るまで辛抱強く待つのを「熟柿(じゅくし)主義」と呼んでいる。ただ「待つ」と言っても、何もしないで他人まかせにするというのでなく、辛い現実と向き合うことから逃げないことが大切だと思う。

★基本的人権の重要性だけでなく、国家や社会を形成する一員として、権利を主張するだけでなく、社会的責任にかかわる義務を果たすことの重要性を忘れてはならない、権利と義務はいわば車の両輪であってどちらか片方が欠けても車(つまり社会)は動けなくなる。

★「生きてきた」と言うより、何度も何度も「生きなおしてきた」と言うべきかもしれない。自分の中の変えることのできない生き方の信条とでも言うべきものと、変えたほうがいい部分とを、しっかりと見極めながら、挫折を乗り越えて生きていくという選択を、どうして私がすることができたのか。その分析は私自身の課題だが、そういう経験があるがゆえに、今の時代、厳しい試練に直面している人々を見るにつけ、何はともあれうまく乗り越えてほしいと願わずにはいられない。そして、そういう人々が挫折を乗り越えたことが心の成熟への財産になったと振り返ることのできる日が来ることを願わずにはいられない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 03.評論
感想投稿日 : 2010年12月19日
読了日 : 2010年12月19日
本棚登録日 : 2010年12月19日

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