エイミー・ベンダーは、はっとするような言葉で読者を引き寄せたりしない。訥々と単純な言葉を重ねてゆく。けれどもその言葉の組み合わせが穏やかではないので、とても非日常的な物語が展開する。しかしそれもよくよく眺めてみれば、誰にでもある小さな違和感を少しだけ別の出来事のように描いてみせるだけなのだ。決して大袈裟に言ったりしないだけで。
sensitiveとtoo sensitiveの間のどこに線を引けばよいのか、という問い掛けが日本の読者に向けた作家の文章の中に出て来る。恐らくその疑問に対する物語であることが本書の全てであり、結果として、自分を取り巻く世界に対して生まれて初めて抱いた違和感が、実はまだ身体の中に記憶として残っていることを、読み進める内に気付かされることになる。もちろん本書の主人公のように、皆その違和感を、例えばピーマンが食べられるようになるように飲み込み、気にしないようにすることを覚えてゆく。それがsensibleであると、自分を取り巻く社会が要求していることに従うことを受け入れるのだ。たとえそれを善しとしなくとも。
違和感に共感するという自家撞着。けれども鬼束ちひろの言葉に耳を傾けたり、エイミー・ベンダーの文章に身を寄せたりする人がいるという事は、それが誰にでもある違和感だと言うことを示している。岡崎京子の言葉にあるように『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』。あるいは、忘れたフリをしてしまうね。
読書状況:読み終わった
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- 感想投稿日 : 2017年5月17日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2017年5月17日
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