幻のイマージュ

  • 集英社 (1995年12月5日発売)
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感想 : 3
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『というのも、写真とは、なにもかも飲み込み、忘れていくような行為だからである。一方書くことはメランコリックな実践であって、写真はこれを妨げることしかできない。あの光景は写真の形で、紛失物のようにぼくの手に《戻される》だろう』ー『完璧な映像』

『たとえは地下鉄のなかで、窓ガラスから窓ガラスへ、カメラと同じように反射する視線に引き較べてみる。反射した視線からは粗暴さが抜け、罪を免除されるどころか(《なんですって? あなたを見つめたりなんか、絶対にしてませんよ! 思い過ごしですよ。ぼくはただぼんやりと……》)』ー『光の屈折』

写真が瞬間を切り取るように、ここに収められた文章はある意味で非常に刹那的であると思う。刹那的というのは二重の意味で、一つは写真と同じように一瞬の風景を言葉が紙の上に定着させようという意識がそこにある、ということと、その風景を眺める側の感情もそこに切り取られている、という気がするのだ。それもまた写真と同じ、と言ってもいいのかも知れないけれども。

感情を切り取ると簡単に言ってみたけれど、そこにはもう少し注釈が必要であるようにも思う。何故なら思いはしばしば文脈の中でこそ意味をなすのであって、前後の関係を断ち切られた中で独立して意味をなす思いというものが存在し得るとは思えないからだ。その思いから発生するであろう一瞬の感情が切り取られた時、それは恐らく非常にニュートラルなものとならざるを得ない、と思うのだ。

ところがその切り取られた絵を見た時、何かが喚起される。それは写真の中にある思いの流れとは直接には関係のない観る側の思いの流れの中で成立するものだ。その中立的な、あるいは筆者の趣向で言えば中性的なというべきものに美意識の軸が置かれている。それ故に恐らく写真に封じ込められた思いが直接自身の時間の流れに還流してくるような「家族の写真」「セルフポートレート」に対して、複雑な思いをエレヴェ・ギベールは抱くのだろう。

刹那的と受け止めた文章の素っ気なさには、自分の思いを紙の上には定着させたくないという筆者の思いが込められているのかも知れない。しかし、過剰な防衛反応の結果が導くものと同じように、敢えて触らないでいる部分が逆に空白として際立たせているようにも見える。恐らくそれは筆者にとってはどうでもよいことなのだろうけれど。

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感想投稿日 : 2013年11月24日
読了日 : -
本棚登録日 : 2013年11月24日

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