リヴァイアサン (新潮文庫)

3.60
  • (73)
  • (117)
  • (208)
  • (8)
  • (4)
本棚登録 : 960
レビュー : 90
制作 : Paul Auster  柴田 元幸 
ぱとりさん  未設定  未設定

「トゥルー・ストーリーズ」を読んだ後で、全てはすっかり変わってしまった。自分にとってポール・オースターを読むことは、どこかしら川上弘美を読むことにも通じるわくわくした気分のことであったのだが、この「リヴァイアサン」を読みながらオースターを読むことはある意味息苦しいことであるという思いに至ったのだ。もし何も知らなければ、この小説も今までと同じようににポール・オースターの創作として楽しく読み、オースターの独創的な物語の糸の絡まり方に、くぅとうなって、わくわくしていただろうと思う。しかし、ここに書かれていることの内のどれ程がオースターの創造であるのか、という点が気になりだすと、物語を追いかけながらぐるぐると答えの出ない問いを考えつづけているような、まるで無間地獄に落ちていったような気分の状態から遂に逃げ出すことが出来ないまま、最後の頁まで読み終えてしまったのだった。

「事実と虚構を混ぜ合わせることを許可してくれたソフィ・カルに感謝する」と、物語が始まる前に作者は書き残している。それはまるで催眠術師が何気なく口にした言葉のように、潜在意識に忍び込んだ。そして動きだす物語。そこには「トゥルー・ストーリーズ」を通して既に知ってしまった逸話がふんだんに登場する。そもそも、この本の主人公であり本の著者でもあるピーターは、明らかにポール・オースター自身のことを暗示しているのだ。ピーターの語る経歴、コロンビア大学卒業後パリへ数年出奔し、帰国後結婚と離婚を一度ずつ経験したこともオースターの経歴そのままといってよく、二度目の結婚相手であるアイリス(Iris)の身体的特徴を語る場面ではあたかもそこに本当の妻シリ・ハストヴエット(Siri <=> Iris)の実際の容姿と重なっている。少なくともピーターに限って言えば、言及されるエピソードはほぼ直接的な形でオースターが実際に経験したものと想像できるし、例えば「月(ルナ)」という小説を書いたとされる部分は「ムーン・パレス」のことを指しているのだな、というように比較的単純な連想が可能なのである。

それだけであれば、現実にあった出来事を上手く虚構に押し込めるのがオースターの特徴なのだ、ということで納得もしてしまえる訳だが、「トゥルー・ストーリーズ」を読んで感じる恐怖の根源は、類似点の発見にあるのではない。例えば、オースターが(そしてピーターが)通っていた当時、つまりベトナム戦争当時のコロンビア大学の状況が語られる。そこはいわゆるリベラルの集まる場所であり、大学の解体を叫ぶ者の集まる場所でもあった訳だ。であればこそ、「トゥルー・ストーリーズ」の中でオースターがおたずね者のポスターの中に知り合い(それも半分以上が知っている者だという)を発見したという逸話と、この「リヴァイアサン」の重要な登場人物であるサックスが結びついてしまい、彼には恐らくモデルとなる実在の人物が居るのではないだろうか、と考えるプロセスがひとりでに動き始めてしまう。そのひとりでに動きだす思考のメカニズム、それこそが恐怖の根源だ。

どうでもよいと言えばどうでもよいことなのだが、この読んでいる側のスタンスを揺さぶるような感じ、それはこれまでオースターをエンターテイメント的に読んで来たものとして、何にも解っちゃいなかったんだな、という自信喪失みたいな感情から生まれているものだと思う。そう知ってしまった以上、どうも前のようにすらすらと読んではいけないような気に襲われながら、それでもぐいぐいと小説に挽き込まれていっている自分がいて、恐くなってしまうのだ。

もう一つ、今回に限っていつもと違ったことがあった。それは、あとがき、に関することである。本書は当然のことながら柴田元幸が翻訳をしている。翻訳者としての柴田元幸に信頼がおけるのもさることながら、米文学者としての考察もなされる彼のあとがきはいつもためになる。もちろん、本編終了後いつも真っ先に読むのだが、今回は少し合点が違った。今回のあとがきはこんな風に始まっている「一人の人間の話に終始していたわけではもちろんないのだが、『リヴァイアサン』以前のポール・オースターの小説は、ひとまず「これは基本的に誰々の物語である」と規定できる作品だったように思う」。しまった、この先は読んではならない。今自分が感じていることを書き留める前には読めない。実は、小説の中の事実を巡る真実、などというものは本質的なことではない、と思ってもいた。そのことに関して自分なりに考えないうちに、このあとがきは読めない、と思ったのだ。何故なら、この柴田元幸のセンテンスに、自分の感じている本質的な問題のポイントが既に見えてしまっているからだ。それを、一言でいうなら「境界の喪失」である。

「境界の喪失」という感覚。それには、もちろん「事実と虚構」の境の喪失も含まれるのだが、もっと無気味に感じるのは「自己と他人」の境界の喪失感の方だ。こう言えば、何故自分が柴田元幸のあとがきを後回しにしているのかが解ってもらえると思う。

例えば主人公であるピーター。そして彼が爆破事故の被害者である確信しているサックス。この二人は太陽と月のように相照らすものとして描かれているようでもあり、その実、一人の人物の裏と表のようでもある。最初の内はすんなりと受け入れられる二人の関係だが、サックスの妻ファニーを巡る関係がこじれ始めると、この二人が二人である必然性は徐々に失われ、あたかも一人の人間のドッペルゲンガーが交互の物語に登場してくるような気にもなるのだ。登場する人物達の性的な関係が交錯するだけ交錯していくにつれ、この二人の人格の外周がぼやけるだけでなく、全ての登場人物の個としての輪郭が曖昧になってくる。このことが自分にとって何故か無性に恐い。自分の考えが自分の考えでなくなっていく恐怖と言ったらいいのかも知れない。そんな恐怖心がじわじわと沸いてくる。

この本の中で主人公のピーターが必死に描こうとしているのは「真実は一つではない」というよく耳にするテーマだ。同じ事実も語る人によって切り取られる真実は変化する。そのことを自分は全面的に肯定する。いや、肯定できると思っていた。しかし、それは飽くまで他人にとっての事実と真実の関係について気軽に肯定できる、という意味しか持たず、一端自分がその多層的意味の罠に掛かってしまうと簡単に評論家づら出来なくなるのだということを、「リヴァイアサン」は追求する。それでも事実の断片を集め、自分なりの真実のストーリーを編み上げようとするピーター。その執念というか狂気のようなものは、あくまで論理的であろうとする彼の姿勢に由来するものであることは容易に読み解かれる。その姿勢に、どこかしら自分と似たような思考回路を見いだすにつれ、ピーターの陥るジレンマがいつの間にか本から抜けだし、自分自身を縛りつけているような気分になる。しかも恐ろしいことに、そんな気分は、しょせん小説なんだから、と片づけてしまえることを知りながら、一向に振り払う気配を自分自身が見せないことを知ってしまうのだ。片づけないどころか、そのジレンマを自虐的に楽しんでいるようでもある。そう、境界の喪失は本の中だけに留まらず、物語と読者の境界も曖昧にしてしまうのだ。

例えばイタロ・カルヴィーノは、全ては舞台の上の出来事です、と断ったうえで事実と真実の境界を曖昧にし、読者と登場人物の間のすき間を見えないものにすることが出来た作家だったと自分は思う。カルヴィーノの言うことはよくよく考えて理解する必要があると思うけれど、その考える行為が何に対してなされているのか、という点はとても明確だ。その行為の対象は、自分にとってどこまでも形而上学的な抽象概念に留まっていて、自分の思考は自分でコントロールできているという安心感みたいなものが残る。一方オースターは、そういう前提があるようで、実はない。むしろ、全ては事実なのかも知れませんよ、と構えてさえいるようだ。その可能性を真剣に考慮して改めてオースターを読むと、いつの間にか小説の中から何かを読み解こうとしている自分に気付いてしまい、その行為が自分の意思でなされているのではないことにも同時に気付き、背筋が寒くなる。

しかし、もう後には戻れない。それどころか、恐らく以前読んだ作品をまた読み返してしまうだろう。多分、ここまで自らのことを描けるものなのだろうか、と思いながら。もちろん、物語を書く時のオースターはメタ・オースターのような存在である可能性も十分にある。そのメタ・オースターの冷静な視点があるからこそ、事実と虚構を何度も何度も伸ばしては折り畳むようなことが可能になってもいるのだろう。なんて凄い作家なのか、と改めて、思う。

レビュー投稿日
2004年8月24日
本棚登録日
2004年8月24日
1
ツイートする
このエントリーをはてなブックマークに追加

『リヴァイアサン (新潮文庫)』のレビューをもっとみる

『リヴァイアサン (新潮文庫)』のレビューへのコメント

まだコメントはありません。

コメントをする場合は、ログインしてください。

いいね!してくれた人

ツイートする