大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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本棚登録 : 499
レビュー : 48
制作 : Raymond Chandler  村上 春樹 
ぱとりさん  未設定  未設定

『落書きのある壁の陰になった角には、青白いゴムの避妊リングが落ちていた。それを片付けるものもいない。実に心温まるビルディングだ』

チャンドラーを読んでいたのは二十代。三十年程前のこと。シニカルな言い回しに惹かれていた。あの頃はミステリーマガジンも読んでいた。もっともエンゲル係数の高い生活をしていたので日比谷図書館には随分と世話になった。

シニカルには二通りある。何に対しても否定的な態度で返すやり方。これは誰にでも真似ができる。思春期の子供にでも。もう一つは思っていることと反対のこというやり方。これは比喩が冴えていなければ芯を捉えることは出来ない。往々にして言った方にも言葉の持つ力の反作用で負荷が掛かる。目の周りの青黒い痣と冴えた頭が無ければ決まらない。「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」。

チャンドラーの言い回しはどれも冴えている。しかしそれが活きるのは都市という背景の中だけ。それも決して表通りではない。ブリキのゴミ箱が転がる薄暗い裏通り、雨が降っていれば尚よい。そこでずぶ濡れとなって頼まれ仕事をこなす。マーロウに魅せられはするが、そんな風に「撃たれる覚悟」は自分にはない。それが妙に苦しくてミステリーから遠ざかっていった。今、再び手に取るのは村上春樹の翻訳だからということもある。だがそれ以上に人生の、少なくとも宮仕えの終わりを意識するようになったことと関係しているのだろう。

シャーロック・ホームズに本格的な推理がないように、フィリップ・マーロウにあるのも二転三転する推理の面白さではない。両者に共通するのは、ひょっとすると日本人が遠山左衛門尉に、あるいは水戸黄門に感じる爽快感と似たものだ。ジェームズ・ティプトリー・ジュニア(と言っても男性ではない)ではないけれど、それがマーロウの「たった一つの冴えたやりかた」であるから人は惹かれるのだ。何故なら皆解っているから。「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」、と。

レビュー投稿日
2015年10月7日
本棚登録日
2015年10月7日
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