色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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  • 文藝春秋 (2013年4月12日発売)
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『僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた』

村上春樹の小説を読んでいると、ここに書かれているのは自分のことかも知れないとの思いに駆られることがある。そんな筈はもちろんないので、それはいったいどういうことなのか、と訝しむ。ようやく、開かれたテキストという
キーワードに行き当たる。そもそも読書は常に個人的な経験だけれども、誰にとってもその人に適した何かを返してくれるようなテキストというものには早々出会わない。

小説家は「上手な嘘をつく、いってみれば、作り話を現実にすることによって、小説家は真実を暴き、新たな光でそれを照らすことができる」と作家は言う。それはそうなのだろうと、何の考えもなしに肯く村上春樹に傾倒気味の自
分がいる。しかしその言葉を真っ直ぐに読んだ時、作り話を現実にして見せるにはリアリズムが求められる、とも読めるのではとは思う。一方で、自分の中で村上春樹にリアリズムを求めている訳ではないことは明確だ。むしろ、村上春樹のテキストにはどこまでも二次元的な印象が強くその中立性のようなものが気に入ってもいる。それを現実味が乏しいと思ってしまう人もいるだろうとも思う。それでも自分は村上春樹のテキストの中に現実の色を強く感じる。いったい嘘を現実に見せるとはどういうことなのか。そこには人間の脳の癖が絡んでくるのではないかと思う。

人の脳はごく複雑なものの中から単純化されたものを見て取る能力がある。そしてその単純化されたものの間に繋がり(相似)を見つけ出す癖がある。例えば何かと何かが似ている、というようなことを脳は始終考えているように感じる。だからたとえ私小説を読んだとしてもその中に自分を見い出す人はいるだろう。村上春樹のテキストの中に自分と似た何かを見つけ出すのは、だから、その意味では決して不思議なことではない、のかも知れないと思う。そんな風に考えていると、アナロジーという言葉がすぐに思い浮かぶのだが、これこそ人が始終やっている思考の中心だろうと、個人的には思っている。今、目の前にある問題をどう解決するかについて論理的な思考で考えることよりも、あるいは考えたいと感じていたとしても、実際には何処かで聞いた似たような事象の展開に思いを巡らせ、結論を出していることが多いと思うのである。本当の意味で何も無い真っ平らな空間の中で、つまり文脈には捕らえられないで、一つの事実から次の事実へと論理だけで物事を進めていることはほとんどないと思うのだ。そこに嘘を上手に潜り込ませる入り口があると思う。

一方でまたここが面白いところだとも思うのだが、誰かと誰かが似ていると他人が言ったとしても、言われた方はきっぱりとそうだとは中々感じられない、ということもしばしば起こる。まさに感覚というものは十人十色なのだとも思う。だから、村上春樹のテキストの中に多かれ少なかれ自分自身を見い出してしまう余地があるのだ、と考えてみる。村上春樹のテキストにこれだけ多くの人が惹きつけられるというのは、作家の書く文章が非現実的な位に二次元的で中立的なことと関係があるのだろうと思うのだ。そしてそうであるからこそ、その物語の中に自分自身の問題を投影してしまう。であれば、物語にあまりに大団円的な結末がないのは必然だ。そんなもの誰の人生にもありはしない。出来ることは精々自身の問題を哲学的に捉えてみることくらいなものであり、村上春樹のテキストにはそこへ至る思考のスイッチのようなものがある。

推理小説のような設定と一見ステレオタイプ的な人物の組み合わせ。そんな単純な人なんていないと思いながら、そこに自分の友達を当て嵌め主人公に自分を当て嵌める。そんな風に読むまいと思えば思うほどにその深みに嵌り、人生を振り返り人生の意味をいつの間にか問うている。読書がそのまま省察に繋がる体験、それが村上春樹を読むということなのだと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2013年7月6日
読了日 : -
本棚登録日 : 2013年7月6日

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