史実の中に巧みに虚構を立ち上がらせるのは、ウンベルト・エーコの得意とするところ。しかしそれを単純に虚構だと割り切って読むことが出来ないのもまたこの作家ならではのこと。そのことを肝に銘じて読まねばならないと自戒しつつ読み進める。
「薔薇の名前」を初めて読んだのはもう四半世紀以上前のこと。歴史の中の「もしも」を推理小説風に描いた作品は単純にエンターテイメントとして面白く、ショーン・コネリー主演の映画も素晴らしかった。しかし時を経て読み返すと、輻輳し縦横に入り組んだ話の全体像、あるいは、小さなエピソードが意味する暗喩を一つ一つ受け止めるには文字を追う必要があると、思い直した。映像はともすれば勧善懲悪の物語を解り易く描きがちだから、自分の頭で考えようとする意思を眠らせてしまう。しかし複雑な話は複雑なままに受け止める必要がある。世の中が混迷するにつれその思いは強くなる一方だ。例えば「永遠のファシズム」、「歴史が後ずさりするとき」で語られるようにエーコは何か一つのことに狂信的に集団を纏めようとする意思、力、組織に極めて懐疑的だ。そのことは世の中が不透明になる時にこそより意識しなければならないことでもある。本書でも何を置いてもそのことを思い浮かべながら読まなければならないだろう。
本書ではシオニズム、イエズス会、フリーメイソンなどややもするとオカルト的に扱われ、いつまでも都市伝説のように語られる世界的な陰謀説が、如何に虚構から生まれ出てくるかという物語となっている。「フーコの振り子」、「前日島」、「バウドリーノ」とエーコが繰り返し取り上げるモチーフでもあるが、欧州人でない身としてはもつれあった複数の糸の色の違いを今ひとつ実感できないもどかしさはあるとは言え、驚くべきは(エーコに限って言えば本当は驚くべきではなく、当たり前のことだが)ほとんどが史実から成り立っているという事実であるだろう。人は本当に騙され易い。そのことを歴史は証明する。少しくらい可笑しなところがあっても信じたいことだけを信じてしまう癖が人間にはある。それが大儀や正義という仮面を被っていれば尚更のこと。そのことをエーコは痛烈に批判する。
物語の構造は如何にもエーコの作品らしく、とある手記を第三者が語るという形で始まる。しかし「薔薇の名前」のように手記の中の物語として作品全体が進むのではなく、複数の視点が常に入れ替わり、入れ替わる視点の持ち主である登場人物もまた彼らの過去の物語と手記の記された時点での現在とを交互に語るという手の混んだ作りとなっている。読むものは、答えの出ている過去と、答えの未だ出ていない過去を行き来する手記の作者の物語を聞きつつ、それら全てが過去である現代人としての視点も持ちながら(例えばナチズムによる最終解決のことを思い浮かべながら)物語を読むことになる。つまり自然と幾つもの似たような過去の構図を現代人の視点で重ね合わせて見詰め、狂信的な出来事が決して過去の野蛮な未開の人々によってだけではなく啓かれた筈の現代でも容易に起こり得る(起こりつつある)ことなのだということに思い至る構図となっている。ここに9.11以降のエーコの主題が鮮明となる。
とても示唆的だと思うのだか、世界史で習うような主義主張という分かり易く単純化した世界の裏側で、様々な思惑が絡み合い、時に原理原則を曲げても体制の保全に走ろうとする人々ばかりが描かれる。これに対して手記の作者である登場人物は、結果として祖父の意思を受け継ぐという高尚な意図の下、数々の偽装書を手掛けるが、その実、祖父の考え方を受け継いでいる訳ではなく自身の欲にのみ忠実であるということ。そのことが、美食に対する欲望として特に強調され、長々と書き連ねられる料理の名前を聞くだけでいつの間にか辟易とした気分が醸成される。料理の名前の列挙は象徴的に使われ、手記の作者の心の揺れと共に長さが伸び縮みし、最後にはほとんど語られなくなる。それと伴に手記の作者は祖父の考えに取り憑かれ、義務と声高に語り、正装(正義)を求める。そこに欲望のみに忠実であった手記の作者ですら何か主義のようなものに絡め取られていく様が描かれている、とも読める。
最後に語られる時限爆弾の仕掛けの説明に込められた巧妙な復讐の意図を、金で人の心すら操れると思った手記の作者は、見抜けなかった。最後にその首尾を記せなかったのは、騙すことと騙されることを巧みに利用してきた手記の作者の自業自得でもあるだろう。しかし、そんな風に単に悪を懲らしめる物語をエーコが書く筈もなく、「博学ぶった無用な説明」で明かされるように、この人物を歴史から取り除いてもまた別の人物が似たようなことをしたに違いなく、人間の業とも言える狂暴さこそが強調されていることなのだ。
『しかしよく考えてみれば、シモーネ・シモニーニも、異なる何人かの人間が現実に行ったことをまとめている以上、コラージュの産物としてではあるが、ある意味で存在したと言える。むしろ、実際には、今でも私たちのあいだに存在している』―『博学ぶった無用な説明』
2016年、この混迷の時代にウンベルト・エーコを失ったことは途轍もない損失だったと思う。
- 感想投稿日 : 2016年9月5日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2016年9月5日
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