小さな町で (大人の本棚)

  • みすず書房 (2003年12月15日発売)
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感想 : 9
5

絡みつくような人間関係がその背景に存在していることを強く匂わせながら、幾つもの小さな物語が、いたって何事もなかったかのように語られて行く。その物語の中心に居るのは「田舎の」人々である。シャルル=ルイ・フィリップの「小さな町で」に登場するそれらの人々を語る時、どうしても括弧つきの「田舎の」人々と形容しなければならない気になる。おそらく自分の偏見が色濃く混じっているのだろうけれど、その「田舎」という言葉には、汗臭くなった同じ服を年がら年中着ているような人々、稼ぎの殆どを飲んでしまうような人々、貧乏なのに子供が大勢いるような家族、などが含まれる。都会に住む人々に比べ、個性の色濃い人物ということになるだろう。

その小さな町では、全てのことは既に一度は起こったことがあるようであり、人々はどんな人生の不幸にも、大して動じているようではない。その一方で、全てのことは目新しく、一日一日の小さな変化が、町中の話題とならないことはない。そんな町に生まれ住んでいたら、さぞかし大変なことだろうなあ、と思わずにはいられない。

人間の個性が色濃いということと、人間関係が絡みつくようであるということには、明らかに強い相関があると思う。もちろん、どんな小さな社会、集団においても個性的な人は居て、その人の強い影響力というものはある。しかし、それが単独で存在する場合、その影響力、例えば磁石の生み出す磁場のようなものに例えられるのかも知れないその力は、比較的単純な形態に留まっており、そこから生じる結果も容易に予測可能である。しかし、影響力のある人物が一人ではなく二人になると、磁場の重ね合わせのように、二人の存在から作られる影響力の及ぶ範囲は複雑になってくる。磁性のプラス・マイナス、磁力を持つ点の動き、そんなようなものが絡んで来て、結果生まれるものの予測は、やや複雑になるだろう。そして、物理学で古くから言われているように、その点が三点を越えると、その運動は予測不可能な問題となり、ある点における磁場の強弱も結果として、推測不能なこととなる。とてもとても人間臭い「小さな町で」なのだけれど、そこに生み出されている磁場のようなものを想像すると、そこで起きている出来事の複雑さは膨大だ。自分はこれを読みながら、そんなことを考えていた。

田舎、というものは大きな変化とは遠く離れた存在のように、都会に住んでいるものはイメージしている。もちろん、都会で起こる劇的な変化とは異なるけれど、しかし、小さな町にも変化はある。その変化はもっぱら、人、によってもたらされる変化である。それは人間が何かを作り出したり、壊したりする、という意味ではなく、人間そのものが時々刻々変化するということが、もっとも大きな変化である、という意味だ。そして、お互いがお互いをよく知る関係であるだけに、あるいは知っていると思っている関係であるだけに、小さな変化であっても見逃されることがない。しかもその変化は基本的に予測不可能だ。例えば、建物なども確かに風化していくだろう。その変化は、ある時、おやっ、という感覚を持って受け止められるものかも知れない。しかし変化の速度は一定方向のゆるやかなものであり、その変化自体、折り込み済みのものとして認識され得る類いのものだとも言える。それに大して、人の変化は、一定ではあり得ない。昨日あった人の良かった人物が、誰かを殺すかも知れないし、出家するかも知れないし、死んでしまうかもしれない。それは全く予測不可能なできごとだ。しかし、人は人の変化に対しての学習による知識も仕入れている。ああ、あいつがああなったのは無理からぬことであるな、などと納得することもできるのだ。それが如何に短絡的な推察であったとしても、人は本能的に、そのような類型を他人に対して押し付けようとする。それはあるいは、そうすることで予測不能なものから醸し出される不安感をどこかに押し込めようとする無意識の防御なのかも知れない。もちろん、押し付けた方はそれで気が済む。しかし、押し付けられた方はそうはいかない。人の意見はもっともなことのようにも聞こえるが、自分の気持ちとはどこかが違う。そのことで、自分ではいつもと変わらない日常を送っていたつもりだったのに、気持ちがかき乱される。人と人との結びつきが強いからそんな小さな掛け違いが大きな事件へと発展してしまう。どうもこの「小さな町で」で描かれているのは、そんな物語ばかりのような気がしてならない。

もう一つ。この短篇とも言えない程の小さな物語達には、どことなく不幸の香りが常に漂っている。その多くは、貧困であり、そして、死、である。考えてみれば、死、というのは人間が自ら行える変化の中でももっとも劇的な変化であるのかも知れない。しかし、どうもこの超短篇集の中ではその変化が余りにも日常的なものとして、ある時には、変化としては認め得ない位のものとして登場する。そのことにとまどいを覚えてないでもない。それが、あまりに死というものが非日常になってしまった現代人であるところの自分であるが故に抱く感情なのか、あるいは、フィリップスがあまりに死と隣り合わせに居るような環境でこの物語を書いていたためなのか、判然とはしないのだが。

死、と共に、この物語群の中でもう一つ頻繁に取り上げられるものが、子供、である。子供は日々の変化が大人の変化に比べて劇的に大きい。種が目を出し双葉を開かせるエネルギーを内包しているように、子供にもエネルギーが詰まっている。そして、その事実だけでも子供から普通の大人が受ける印象は、陽、である。しかし、フィリップスの描く子供は、陰、である。煙草を吸う。ワインを飲む。盗みをする。いたずらをする。怒られる。子犬のふりをする。存在の小ささを精一杯大人に迷惑を掛けることで埋め合わせようとする。大人はそのことに悪態をつくだけで、子供を思いっきり邪険にする。その邪険さが愛情であるかのようにすら、振る舞う。それは、フィリップス自身が受けたトラウマに起因するものなのか、それとも、彼独特のシニカルな語り口に過ぎないのか。いずれにせよ、どこにも、大それた幸せは描かれず、人々は困窮しており、死が身近にあり、子供たちは老人のように生きている、小さな町。それにも拘わらず、なぜか心の芯が暖まるような感じになるのは何故なのだろうか。そのことが、何か忘れてはいけないものと強く結びついているような気がしてならないのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2004年5月23日
読了日 : 2004年5月23日
本棚登録日 : 2004年5月23日

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