狸の匣

  • 思潮社 (2017年11月9日発売)
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本棚登録 : 74
感想 : 8
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『モノクロームの古い写真に写る死者は大人しく、生者の目を引きつける。/我々の走馬灯の中で、並んで「そこにいる」「待つ」彼等を、頼もしく思うことさえある。』―『湯葉』

時々、詩集を買い求めることがある。大きな書店の詩歌の書棚の前に立って、著名な詩人の詩集たちの隙間に押し込まれている、薄っぺらい冊子のような詩集を買うのだ。代金を文字数で割ったらいったい幾らになるのだろうなどと独りごちながら、確たる基準も無しに詩集を選ぶ。

マーサ・ナカムラの詩集は、オンラインで購入した。そこに大した意味はない。「未明 02」に載っていた詩が気になって取り寄せたのだ。投げ出された言葉の響きが気になって。

詩の言葉にア・プリオリな意味はない。ア・ポステオリに湧き上がり共鳴し合う心象を追いかけるだけ。縦書きの言葉を追いかける度に、そう畏まって自戒しながらも、諦め悪く詩人の頭の中にあるだろう意図に思いを馳せてしまう。例えば、小池昌代の、蜂飼耳の、言葉には、持ち重りするような心象と共に、詩人の心の動きが見える。心の中まで見通しているのではない。ただ、その揺れている心持ちを感じ取り、密かな満足感を覚えるのだ。だが、マーサ・ナカムラの言葉から立ち上る意味は、霧を押し開くような手応えで実態を掴み取らせない。

マーサ・ナカムラの詩は、まるで多重露出のカラー写真を観ているかのよう。或いは荒木経惟の撮る(描く)一葉のような。乱暴な構図で、投げ込まれる色、そして抽象。当然のことながら、言葉の裏側に秘されたように見えるものには仄暗く淫靡な表象が張り付くこととなる。意図的な多重露出は計算外のニュアンスを産みはするが、案外と凡庸な価値観が透けて見えぬこともない。その危うさを、極端な擬人化と遠野物語風の語り口で、前のめりになりながらマーサ・ナカムラは転がしてゆく。

言葉の表象を敢えて裏切りながら、ナラティブに詩の言葉を紡ぐこの詩人の行く先は何処なのか。そればかりが気に掛かる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2020年2月13日
読了日 : -
本棚登録日 : 2020年2月13日

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