『その点日本は律儀な社会です。それが裏返って気持ち悪いことになるのです』―『煮詰まった時代をひらく』
ご本人もちらりと述べているように、養老先生の仰ることはいつも大体同じことだ。「神は詳細に宿る」という文章は、元の文脈を離れ、そのいつも大体同じことの芯を簡潔に表した言葉であるようにも思う。但し、それにはちょっとした前提が付くことも忘れてはならない。神は「実際に存在するものの」詳細に宿る、であって、間違っても「議論の」詳細に宿る訳ではない。そちらに居るのは悪魔である。
例えば光の三原色という理屈を習うと、うっかり「そうか光は元々三つの色の要素で合成されているのか」と考えてしまう。それが人間の側の受容体の原理の問題であるのを取り違え、可視光線の「元素」に相当するようなものを捉えたと考えてしまう。世界の有り様は常に観察によって支えられているけれど、観察によって失われているものには中々思いが至らない。そこに気を付けなさいと養老先生はいつも言う。
清原なつのを一躍有名にした「花岡ちゃんの夏休み」の中で、特に印象深い「恋の病の第二期症状“妄想”」という場面がある。その主人公二人のやりとり(花岡ちゃんの妄想)は何とはなしに戒めのように響いて記憶に留まっている。そこには養老先生の教えに重なるものがあるようにも思う。養老先生の諧謔的趣味にも通じるこの一場面は、心しておくべき哲学的な事実を伝えている気がする。同じ物語の中で天才簑島さんの言う「ものごとは、まげて見、ナナメから見て、ホントのことが、わかるんだよ」セリフの通りなのだろう。
「あなたーっ、みつけたわっ、みつけたわっ」
「なにを?」
「絶対的心理よ」
「うそつくな」
「ほらきて見てよ、あ…らら、こわれちゃった、だめねーーふれるとすぐこわれてしまう」
(中略)
「うたかたつかまえんのならアワててはいかんよ、それと下ごしらえに手をじゅうぶんぬらす必要がある、ぬれ手にアワーーなんちゃって」
『実は、言葉はそういう性質を持っていまして、物事をシャープに切るのてす。意識の中でそれは切れるのです。しかし実態の中では切れません』―『世間の変化と意識の変化』
動物の持っている意識以上の働きをしている人の意識が、自己言及するための脳の活動であるならば、言葉はその活動を整理するためのもの。自己言及から発展して、あなたの脳の活動とわたしの脳の活動が同じであるという為に。とすれば確かに言葉は「同じ」という定義の為に多少曖昧な縁辺部は切り捨てざるを得ない。あなたの赤とわたしの赤はほんの少し違う、だからそこに新しい色の名前を与えましょう、と続けていたら言葉が多くなり過ぎて何も伝わらなくなる。しかしそこには居心地の悪さが生まれる。だから詩人たちは常に「言葉にならない何か」を表現しようとするのだろう。「言葉にならない夜は貴方が上手に伝えて、絡み付いた生温いだけの蔦を幻想だと伝えて」とある歌姫は歌った。その居心地の悪さを忘れないよう。不感症にならないよう。うっかり騙されてしまわぬよう。「数えきれない意味を遮っているけれど、美しいかどうかも分からないこの場所で、今でも」
- 感想投稿日 : 2021年6月3日
- 読了日 : 2021年11月1日
- 本棚登録日 : 2020年7月22日
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