心理学・精神世界・自己啓発

著者は、戦前に比べ日本人の心は格段に弱くなったと主張する。たとえば自殺者は、もう13年連続で3万人を超えている。その背景の一つには、心の肥大化があるのではないか。この本の副題は精神バランス論である。心の肥大化とは、心と精神と身体(習慣)のバランスが崩れて、心の働きが相対的に大きくなり過ぎたことをさす。

心と精神はまったく別物だ。心は個人的だが、精神は、共同体や集団によって共有される。民族の精神のような大きなものもあれば、会社や学校の精神もあり、多かれ少なかれその精神は、所属する個人に内面化される。

人間は、心と精神と身体(習慣)の三つにより成り立ち、それらがバランスよく伸びることで真っ直ぐに成長できる。

ところが昨今は、心の問題がバランスを欠いて大きくなり、思い悩んだり仕事が手に付かなくなったり、体調を崩してしまうことも多い。逆にいえば、それだけ日本人は、精神と身体が弱っているのだ。精神や身体もしっかり機能していれば、心だけが異様に大きくなって余計なことで思い悩むことは少なくなる。共同体に共有される精神や、身体に身に付いた習慣にまかせておける部分が大きいからだ。つまり心の土台がしっかりするからだ。

日本人の心が肥大化したのは、敗戦を境にして、かつての精神や身体の継承が途絶えたからだといわれる。「日本的なるもの」の多くが捨て去られ、以前は共同体によって共有されていた諸々の精神は失われ、個人的な心が肥大化した。頼るべき精神がなく、悩みやストレスばかりが大きくなるところに日本人の心の危機がある。

戦前の日本人の精神性を圧倒的に担っていたのは儒教だった。戦前の教育の柱とされた「教育勅語」にも「父母に孝に、兄弟に優に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」など、儒教的道徳観が盛り込まれていた。過度に神聖視され国家主義体制のために利用されたが、内容的には道徳心を説いた部分が多い。ところが戦後になると、過去の「忌わしい記憶」として全面的に排除され、これに限らず日本古来の「精神」はおしなべて国家主義と批判された。

しかし、言うまでもなく儒教的精神そのものが好戦的でナショナリズムに結びつくわけではない。儒教的道徳心が浸透していた江戸時代が軍国主義だったわけでもない。江戸時代の子どもたちは寺小屋で『論語』を素読し、その精神を感じ取っていた。が戦後は、素読自体が頭ごなしの非民主的な教育とされた。『論語』を中心とする儒教教育全体を捨てたことは、精神の半分以上を捨てたことになり、儒教教育の喪失は日本人にとってマイナス面の方が大きかったと齋藤はいう。

儒教や武術のように古来から精神の形成に一定の役割を果たしてきたものを禁じられると、その結果、個人の感情や気分が一気に肥大化する。共有できる精神を持たない民族は弱い。それが露わになったのが、経済成長が一段落した1970年以降だという。戦前の教育を知らない世代は、精神や身体といった土台が緩んでしまい、その分、心が膨らんでしまった。日本人は概しておとなしく、不安定な心を抱えるようになったというのである。

かつての日本人は、精神の領野と身体(習慣)の領野を切り離せないものとして発達させていた。禅の修行でも、座禅ばかりではなく、作務と呼ばれる日常の作業のなかで無心を学ぶことが大切だといわれる(日常工夫)。また、手作業が心を和らげることは、最近の研究でも実証されつつあるという。体内にあるセロトニン神経系が、リズムカルな運動によって活性化され、心を安定化させるというのだ。

職人の仕事もそれぞれに固有のリズムを持っている。職人気質で一つの仕事に徹する人生も、人の心に深い安定を与える。それが○○道として自覚されれば、禅的な求道の「精神」を生きることになり、心の安定はさらに深まる。職人がその「道」を...

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2012年7月10日

読書状況 読み終わった [2012年7月10日]
カテゴリ ☆日本文化論

きわめて興味深い本だった。新書で、しかも三人の学者の鼎談による本で内容がこれほど刺激的で充実しているとはちょっと信じられないほどだ。著者のひとり安田喜憲の本については、このブログでもしばしば取り上げ、影響も強く受けてきた。彼はあとがきで、「今まで自分ひとりで考えていたアイディアが、鼎談によって何倍にもふくらみ、自分が思ってもみなかったまったく新しい世界が開け」たと語っているが、この本は文字通りそのような豊かな展開と深い洞察にあふれ、何冊かの分厚い専門書を読んだような読後感がある。

ここでは、ムギ作とコメ作の文明を環境変化の視点をふまえてこの本がどのように論じているかを紹介しよう。

四大文明はムギ作を基盤とした文明であった。そのため、これまでの世界史はムギ作を中心に描かれ、コメの文明は不当に扱われる傾向があった。ムギはコメに比べ生産性が低いので多くは牧畜を伴う。しかし近年、中国文明の源流は黄河流域ではなく長江流域にあったのではないかという説が注目されている。そして、長江文明は、牧畜を伴わない稲作文明であり、森の文明であった。

日本史の通説では、弥生文化は朝鮮半島経由で大量の人々が日本列島に渡来したときに始まるとされていた。そうであれば、当然家畜を伴っていたはずなのに実際はそうではなかった。とすれば弥生文化の基本を作ったのは長江からやってきた越人である可能性も高い。

どちらにせよ弥生人が牧畜を持ち込まなかった、ないしは縄文人が牧畜を取り込まなかったことは、日本文化のその後の性格に大きな影響を与えた。牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

また天水農業によるムギ作は、かなり粗放的なので、奴隷に行わせることもできた。しかし稲作は、いつ何をするかの時間管理に緻密さが要求され、集約的なので、奴隷に任せることができない。稲作文明で大規模な奴隷制が発生した例は見られない。さらに、家畜管理の技術と奴隷管理の技術は連続的なものだったろうから、稲作・魚介型で牧畜を行わなかった日本では、奴隷制が発生しにくかったのではないか。

さらにムギ作は、天水農業の下では個人の欲望を解放する傾向をもつという。水に支配される度合が少なく、自分が所有する土地を好きなように耕作できるからだ。一方稲作は、水の管理が重要で、共同体に属して協調しないと農耕がしにくい。その分、個人の欲望は解放しにくいわけだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し、どのような特徴をもったのだろうか。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと...

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2012年4月20日

読書状況 読み終わった [2012年4月20日]
カテゴリ ☆日本文化論

代表的な「日本人論」「日本文化論」とひとつとだろう。1967年初版発行だから『甘えの構造』よりは4年早い。『甘えの構造』の中でも、甘えとの関係でこの本について言及している。

甘えは本来人間に共通の心理現象でありながら、日本語の「甘え」に当たる言葉は欧米語には見られない。この事実は、甘えの心理が日本人にとって身近であるばかりでなく、甘えを許容するような社会構造が日本には存在することを物語る。「甘え」という言葉は、日本の社会構造を理解するためのキー概念ともなるのではないか、日本社会で甘えが重要な働きをすることは、『タテ社会の人間関係』でいうタテの社会構造と一体をなしているいるのではないかと土井は指摘する。

甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本の労働組合が、企業という枠を超えた職種によるヨコの組織になっておらず、職種の違いに関係なく企業単位の組合になっていることは、場や枠を重視する日本のタテ社会の特徴をみごとに現している。

「タテ社会」日本の基本的な社会構造が、企業別、学校別のような縦断的な層化によって成り立っているのに対し、「ヨコ社会」は、たとえばインドのカースト制度や西欧などの階級社会のように横断的な層化をなしている。「ヨコ社会」では、たとえば職種別労働組合のように資格によって大集団が構成され、個人の生活や仕事の場にかかわらず、空間的な距離を超えて集団のネットワークが形成される可能性がある。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。

2012年4月20日

1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。

甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。

ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。

著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。

「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。

2012年4月20日

人間が持っている不思議な力を、誰でもすぐにできる簡単な実験ので確認できるのが素晴らしい。本に紹介された実験を自分で試して納得できる。著者は宇城賢治師範について学んでいるスポーツライターだが、かつての自分の間違いを率直に認め真摯に学び取ろうとする視点から書いているのが好感がもてる。文章もわかりやすい。

2012年3月20日

読書状況 読み終わった [2012年3月20日]

こういうノウハウ本は、自分に役立ついくつかの方法が吸収できればそれでよい。本によって、これはいいと思える方法が多く見つかる場合と、それほどでもない場合がある。この本は、それほど多くはなかった。しかしいくつかは見つかった。

たとえば、アメリカの心理学者ズーニンは、「最初の4分間が大切だ」と主張する。最初の4分間を乗り切れば、マインド・セットが出来上がってあとは楽になるというのだ。

私もいやなことは後回しにするクセがあるが、とにかく4分だけやってみようとやり始めると、めんどくさいと思っていた気持ちが消えて、けっこう20分、30分できてしまう。だからとにかく数分だけやってみる。これは忘れずにいたい。

もう一つ、本はいきなり読み始めるのではなく、まず全体をつかんでから読むのが能率的だという。表紙や裏表紙に書かれているセースルポイント→まえがき、あとがき、目次→各章の最初と最後の10行というように全体像に迫っていくという読書法。

私も、高速回転読書法を読書の一つの方法としているが、まず全体像をつかむ方法として章の最初と最後の10行を読むというのはよさそうだ。さらに節の最初と最後の数行戸いうように細部に迫るうちに、重要な個所が見えてきて、そこを重点的に読むなど。

2011年10月22日

読書状況 読み終わった [2011年10月22日]
カテゴリ ◎最新の書評
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東大文、司法試験などにすべて2年以内で受かったという「カリスマ弁護士」が公開する勉強法。この手のハウツーものは、読んで自分の役に立つところを取り入れればよいわけだが、私にはかなり役に立つ方法が多かった。

たとえばある科目なり分野を勉強するときには、まずは分量が少なくて理解しやすい入門書を何度も回転させるとよいという。回転させるとは、素早く何度も読み通すということ。分量の少ない本を、わからない部分は気にせずに何度も何度も回転させるわけだ。同じレベルの複数の入門書を何冊か読むという方法もあるが、どちらをとるかは好みや、それだけ入門書があるかなど条件の問題だろう。

また著者は、勉強するとき、1時間1単位と決めて、勉強を進め、1時間終了するごとにその時間で何を勉強したかを頭の中で5分間「反芻」したという。この5分間が「黄金の記憶保持作業」となるということは、脳科学の知見からしても理にかなっているだろう。私がこれを応用するとすれば、本を一時間読んだら、5分間でその内容を反芻する。そして関連する目次部分や本の裏の余白などにキーワードのメモを入れていく。インプットの後にアウトプットの練習をしておくわけだ。

著者は、「詰め込みと丸暗記は勉強の王道である」ともいう。人は記憶する作業を続けているうちに記憶力がどんどんよくなっていくからだ。そして記憶力に年齢は関係ない。私も60歳をすぎているが記憶力は徐々に高まっている気がする。記憶する作業を続けているうちに、脳内の神経細胞であるニューロンの数は年齢に関係なく増加するそうだ。その増加に伴って記憶力は飛躍的に向上する。

シュリーマンは語学の天才で、数か月もかからず一つの言語をマスターし、ゆがて十数か国も操れるようになったという。その彼も、最初は記憶力が悪かった。しかし、マスターしたい言語で書かれた一冊の本を丸暗記する方法を繰り返すうちに、信じられないほど記憶力がまし、簡単な文章なら2~3回目を通しただけで覚えられるようになったという。記憶力は、やればやるほど効果が上がっていくらしい。

この他にもさまざまなノウハウが紹介されており、私にはかなり役立つ情報が多かった。

2011年10月22日

読書状況 読み終わった [2011年10月22日]
カテゴリ ◎最新の書評

先に紹介した同じ著者の『コミュニケーション力』は、コミュニケーション全体にわたって、豊富な実践と経験を踏まえ、多くの示唆に富む本だった。

『質問力』は、コミュニケーション力の中の質問力に特化して、日本人があまり得意でない質問力を技としていかに磨くかが、これまた豊かな発想と実践を踏まえて語られている。個人的には「質問力」をみがくグループワークなども紹介されていて役にたった。

著者は、「コミュニケーション」の秘訣は「質問力」にあり、という。
「質問は網だ。しっかり作っておけば、いい魚がとれる」ともいう。実際、聞き方がうまければ、自分に話題が乏しくても、相手の深い話を聞けたり、聴くことで相手をサポートできたり、有益な情報をもらえたりなど、コミュニケーションを深めることができる。

よい質問とは、相手の苦労や積み重ねてきたものを掘り起こすような質問であり、また相手の奥底にあるような経験を引き出すような質問であるという。ともあれ、質問力を意識して会議や日常の対話に臨むか否かで、コミュニケーションの質は大きく変わることが自覚でき、自分もこれからそうしようと思える本だ。

ちょっとした小技が紹介されていつのも役に立つ。たとえば公園など話を聞いている最中にいくつかの質問をメモしておき、その中からいくつかを取捨選択して質問をするなど。

2011年10月10日

『森から生まれた日本の文明』では、ユーラシア大陸の文明を「寄生文明」と呼び、日本の文明を「共生文明」と呼ぶ。「寄生」という言葉自体は、かなり批判的なニュアンスが強く、刺激的だが、要するに自然に「寄生」するという意味だ。

乾燥した大草原を舞台とした麦栽培、羊や山羊などの家畜を飼育する草原農耕文明は、早くから階級分化と支配がはじまり、都市文明が生まれた、人間中心の文化は、森林を破壊しながら自然に寄生する文明として成熟していく。

森林を破壊した文明は、メソポタミア文明に端を発し、地中海地域からヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカやオーストラリアにまで拡散したという。黄土高原で生まれた黄河文明もまた、一方的な略奪と地力の搾取によって、その文明を支えた母なる大地を荒廃させ、森林を食いつぶした。

草原の資源が枯渇すると森に依存し、森が枯れれば森を捨てる。この人間中心の自然征服型文明は、わずか1万年あまりの間に地球を支配してしまった。

一方、日本列島は周囲を海に囲まれていることもあり、大陸の諸勢力が侵入することもなく、縄文時代から弥生時代にかけて、森林と共存しながら稲作が成立した。日本では、水田耕作社会を維持するためには、背後の山や丘陵の森林が不可欠とされた。これこそが、森林・自然との「共生」を維持しつづけた日本の複合農業文化であった。

日本文化の基層には、縄文時代以来の森の文化の伝統が流れている。弥生文化がはじまったとき、日本は稲作を受け入れたが、羊や山羊などの肉食用の家畜は受け入れなかった。その理由の一つは、日本の稲作が、羊や山羊などの家畜を持たない長江流域から伝播したからだという。もう一つの理由は、森の文化にとって家畜は天敵であり、それを知っていた縄文人が、家畜の受け入れを拒んだ可能性だ。

家畜は、森の若芽や樹皮を食べつくして森を破壊する。家畜を伴わない稲作文明だったからこそ、日本は豊かな森を維持することができた。また、肉食用の家畜を伴わなかったからこそ、ユーラシア大陸とは違って、人間と他の生物を厳然と区別しないユニークな人間観・生命観を維持することができた。

2011年9月24日

読書状況 読み終わった [2011年9月24日]
カテゴリ ◎最新の書評

他の著者の、コミュニケーションや対話に関する本もいろいろ読んでいるが、書かれている内容や、踏まえられている実践や経験の濃密さは、齋藤氏のこの本が群を抜いている。学生時代の「対話」に費やされた情熱や、大学の教室などでの膨大な実践での経験が凝縮されている。

この中で紹介されたいくつもの方法が、それぞれ独立の本となっている。『偏愛マップ』や『質問力』がその例だ。

現代の若者に欠けている対話やコミュニケーションの力、かつての日本には満ちていたが、現代の教育現場に欠けている身体に深く根差した教育力など、今の日本に欠けている大切なものを取り戻すために、この人の紹介する数々の実践的な方法を、もっと普及させるべきだと思う。

2011年9月24日

教育関係者だけでなく、子どもかかわる多くの人に、あるいは子育てに悩む親に広く読んでもらいたい本だ。学級や学校の崩壊が深刻な問題となっているが、著者は長年、中学校の現場で崩壊を喰い止めようと真剣に取り組み、素晴らしい成果を得てきた教師だ。その誠実な取り組みから滲み出てくる文章に深く共感する。著者の実践の大前提は「どこまでも子どもの性善なることを信じ、その成長を心から願う」という姿勢である。そうした姿勢の背景には、さらに「人間は生まれたときから死ぬまでの間だけ生きているような、はかない存在ではない。一人ひとりの個性はもっと深い存在根拠をもつ」というシュタイナーから学んだ死生観がある。そんな教育観、死生観を基盤にして、学級や学校の崩壊を食い止めるための、著者が体験から確認してきた「勘どころ」が多くの実践例とともに、きわめて具体的にていねいに語られていく。そこには、教育現場だけではなく、子どもに対するすべての大人にとって大切な「勘どころ」も含まれる。教師たちにこういう人間観と子どもへの誠実な姿勢、真剣さ、「勘どころ」があれば、確かに学校の荒れは食い止められるだろうと得心できる内容だ。

2011年7月6日

読書状況 読み終わった [2011年7月6日]
カテゴリ ◎最新の書評

「京都議定書の例外扱い要請へ 政府、原発事故受け」( 2011/4/5 日本経済新聞)、「国連、日本の温暖化対策見直しに反対を表明」: YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://t.co/83MBw9B via @yomiuri_onlineなどのニュースが流れているが、 もともと京都議定書がいかに欺瞞に満ちた欧米諸国の策略かは、この本の中でも厳しく指摘されている。

2011年4月5日

読書状況 読み終わった [2011年4月5日]
カテゴリ ◎最新の書評

『古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)』であまりに有名なシュリーマンが、トロイア発掘(1871年)以前に世界漫遊の旅に出て、幕末(1865年)の日本にも上陸し、旅行記を残していたのである。翻訳(石井和子)の素晴らしさもあってとても読みやすく、内容も興味尽きない。素直に偏見なく観察し、理解し、正確に記録しようとするシュリーマンの強烈な好奇心がにじみ出ており、こうした精神のしなやかさや探求心が、トロイア発掘につながっていくのだとうことが納得できる。

シュリーマンはいう、「これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激しきった面持で日本について語ってくれた。私はかねてから、この国のを訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。」当時、日本を訪れた外国人たちが、その印象をどのように語っていたかが分かる一文である。

シュリーマンは、横浜から江戸に行く。当時、尊王攘夷運動が活発で外国人にとって江戸はかなり危険だったが、江戸を見たいという思いの方が強いのである。

浅草寺を訪れ、あるお堂の仏像の傍らに「おいらん」の肖像が飾られている事実に驚愕し、呆然としている。「日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。」「それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた。」

仏像と「おいらん」を並べてしまう日本人のタブーのなさ、宗教的ないい加減さ、というかおおらかさは、シュリーマンにとっても理解を超えていたのだろう。しかし、以下の記述からもわかるように、短い滞在(約3ヶ月)にも関わらず日本人の宗教心について全体的に的確にとらえている。

「日本人の宗教心について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺の民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。」

ここで「真の宗教心」は、キリスト教を判断の基準としており、あとで紹介する彼の文章と合わせて考えると若干の偏見を感じるが、シュリーマンが観察した状況は、江戸時代も現代もほとんど変わっていないようだ。宗教儀式が娯楽と渾然一体となり、宗教なのか娯楽なのか習俗なのか分からないという状況も、今と変わらない。

シュリーマンは、将軍と大名の関係に触れ、大名が臣下として服従していながら将軍に対抗する姿勢ももつと言っている。そして日本の社会システムについて次のようにいう。

「これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕作された土地が見られる。」

ここで「労働者階級は無である」というのは、もちろん政治権力としては無であるという意味だろう。この本はフランス語でパリで出版されている。フランス革命時の「第三身分は無である」が意識された表現かもしれない。注目すべきは次の文章で、にもかかわらずどの階級でも、区別なく平和、満足感、秩序、勤勉さ(よく耕作された土地)が行き渡っているというのである。つまり、先に挙げた清潔さとともに「日本の長所」としてまとめた項目のいくつかが、シュリーマンの報告から浮き上がってくるのである。

最後に「日本文明論」という短い章で、シュリーマンは「日本の文明をどう見たか」をまとめている。

「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパ...

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2011年1月21日

最初にこの本の中の代表的な心理学実験を紹介する。画面上に5人の人物を示し、その中心にいるリーダー格の人物の表情(怒り、悲しみ、喜びなど)から、その人物が感じていると思う感情の強さを実験参加者に判断してもらうというものだ。ただしある画像では、中心人物が笑顔を見せ、他の4人も笑顔だが、他の画像では中心人物は笑顔なのに他の4人は怒っているという違いを作っておく。参加者には、あくまでも中心人物の表情からその感情を判断してもらうよう念を押した。

結果は、日本人の実験参加者は、背景の人々の表情に影響されて中心人物の感情を判断する度合いが強かったという。これに対してアメリカ人の参加者は、周辺人物の表情からの影響をまったく受けないで判断をしたという。さらに画像を見ているときの視線のパターンを測定したところ、日本人の場合は、周辺への注視が平均して15パーセントあったのに対し、日本在住の欧米人の場合は、周辺への注視はほとんどなかったという。総合的な結果を見ると、周辺の人物への注視度は、日本在住の日本人で一番大きく、続いて東アジアからカナダへの留学生、東アジア系カナダ人、そして最後にヨーロッパ系カナダ人とう順が確認されたという。

この実験結果をうまく使って出版社が作ったのが、『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人』というこの本のタイトルなのだろう。

この実験は「文化心理学」の立場から、その考え方を立証するために行われた実験のひとつである。文化心理学では、個々人の信念や考え方の差もあるだろうが、それを超えた文化による差も大きいと考える。日本をはじめとした東アジア文化圏と、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そして西欧など欧米系文化圏とに二分したときに、それぞれの文化圏に特徴的な考え方やものの見方が見いだせるのではないか、という予想のもとに研究がすすめられている。東アジアと欧米という二つの文化圏で主流の世界観が、私たちのものの見方に影響を及ぼす可能性を心理学実験により実証しようとしているのだ。そして過去十年の各国での継続的な研究から、「こころと文化の切っても切れない関係」を示す有力な証拠が、数多く積み上げられているという。

文化心理学では、東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」、欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義し、こうした思考様式の違いが私たちの物事のとらえ方に影響を及ぼしていると主張する。

分析的思考様式は、世の中のさまざまな事物はすべて最少の要素にまで分割することができ、その要素間の相互作用や因果関係を理解すれば、物事の本質を理解できるとする考え方だ。科学技術の基礎となっている機械論的な世界観といってもよい。男性原理の世界観だともいえる。

一方、包括的思考様式は、物事の本質を理解するためにはまずその全体を把握する必要があるとする考え方だ。これは東アジアで花開いた老荘的、大乗仏教的な世界観が反映されている。機械論的な世界観に対して生命論的世界観といってもよい。まず全体があって全体のなかで個々の部分も意味をもってくるというとらえ方だと思う。

この東西の世界観の違いは、双方の医学の考え方の違いで説明するとわかりやすい。西洋医学は、どちらかというと体を機械のようにとらえ、その部品をなおすことを主眼とするようなイメージだが、漢方などでは体全体のゆがみやバランスの崩れから各症状をとらえて、全体的視点からの治癒をめざすようだ。

この二つの世界観の違いは、「自己観」の違いとしても現れるようだ。欧米文化圏の人々は、「人とは他の人やまわりの物事とは区別されて独立に存在するもの」という「相互独立的自己観」をもつ傾向がある。一方、東アジア文化圏では、「人とは周囲の人々との役割や立場を介した関わりの...

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2011年1月10日

大石久和のこの本は、日本を「自然災害史観」の国ととらえ、それ比較して大陸の歴史を「紛争史観」からとらえている。著者によれば西洋文明は、国土的な条件と歴史の違いから、日本社会のルールや思考法とは大きな隔たりがあるという。西洋文明は、シュメール文明という源流の時代から、都市に城壁を築いて暮らしていた。その城壁造りや見張りや守りの分担などで厳しいルール伴う社会を守ってきた。周辺の自然環境は厳しく、他民族との死ぬか生きるかの戦いの中で、常に備えを万全にしておく必要があった。「皆殺し」への恐怖を前提にした思考法が、現在の世界文明の礎になっているというのだ。

これに対して基本的に温暖湿潤な日本列島は、乏しい食糧を集団どうしが常に争い合う必要があまりなかった。その代わりに自然災害による定期的な打撃を受けてきたのだが、これは守りを固めてもどうしようもなく、ただあきらめ、受け入れるほかなかった。

こうした歴史を持つ国はまれだ。たいていの民族は歴史上、紛争によって皆殺しに近いことをされたり、その恐怖に直面したりしている。日本のように「皆殺し」が天災によるものしかない国は、世界中にほとんど見当たらない。

こうした日本の特異な環境は、独特の無常観を植え付けた。さらに日本人の優しい語り口や控えめな言語表現、あいまいな言い回しは、人間どうしの悲惨な紛争を経験せず、天災のみが脅威だったからこそ育まれたのだという。

城壁に囲まれた都市の住民は、勝つため、負けないために必死に研究しなければならない。情報を集め、それは正しい情報か、もれはないか、偽情報は含まれないかなどをつねにチェックしなければならない。あらゆる不測の事態や可能性を想定して作戦をたて、二重にも三重にもチェックしなければ、皆殺しにされてしうかもしれないのだ。

だからこそ、その思考は網羅性、俯瞰性、長期性などの特徴をもつ。合理的な判断を狂わせるような情報は厳しく排除される。合理的に判断する成熟した主体にこそ、最高の価値が置かれるのは、そういう歴史的は背景があったからではないだろうか。一方、日本人はそういう戦いの状況に置かれたことが歴史上あまりなかったため、厳しく合理的な思考訓練ができていない、必要ともされなかった。

他国に攻め込まれる恐怖もほとんどなく、食糧も豊かだった日本では、ぎりぎりの厳密で合理的な思考やその伝達にさほど重きを置かずにすみ、また「そぶり」や「以心伝心」程度のコミュニケーションで困ることはなかった。外敵に包囲され、防御策を綿密に決めて、誤解のない言葉でルール化しなければ全員の命がない、などという状況に身をおいたことがほどんどないのだ。

2011年1月9日

読書状況 読み終わった [2011年1月9日]
カテゴリ ◎最新の書評

著者は現在、世界的な戦略コンサルティングファームのアーサー・D・リトル・ジャパンで、主に、製造業の研究開発戦略や商品開発戦略などのコンサルティングを行っているという。「世界に誇るオタク文化」と「国の基幹産業である製造業」の架け橋となり、両者の力で日本を元気にすることがライフワークとのことだ。本書も、そんなライフワークにつながる趣旨で書かれている。だから世界が絶賛する「メイド・イン・ジャパン」の現状報告というよりも、「メイド・イン・ジャパン」をより魅力的にするために製造業とオタク文化をいかに結び付けるかという、新しい発想の提案が本書のテーマといってよいだろう。

団塊の世代は、愚直に品質や信頼性を作りこむことで日本製品のブランド力を確立した。しかし今や、愚直なモノづくりをそのまま維持することは現実的ではない。近年、日本発のポップカルチャーが世界で注目されるようになったが、しかし、それだけでは国全体の富を生み出すには不十分だ。これまでに築き上げた「モノづくり魂」とクールジャパンという世界級のカルチャーを融合させる豊かな発想が必要で、今はその絶好のチャンスだという。

近代工業を支える根本概念は、合理的な秩序に支えられた人工の世界観であり、理性的な男性原理が作り出した代表格が、工業製品だ。それは元来、西欧近代に端を発するものだ。ところがその工業製品のかなりの面で、西欧世界を追い抜いてしまった日本では、にもかかわらず男性原理とは対極にあるカワイイ文化や、少女が大活躍するマンガ・アニメが大人気だ。ここに日本文化のユニークさがある。

ところが世界は今、西欧的な男性原理が生み出した、ひたすら機能だけを追求する工業製品に飽き足らなくなっているのというのが著者の判断のようだ。そして、自分が持つ機械や道具にオタク的な発想の付加を加える動きが、個人ではかなり行われ、製品のアイディアとしても、世界に先駆けて始まっているのが日本なのだ。そのような消費者の新しい傾向をうまくとらえた商品がこれからは大きく伸びていくのではないかと著者は主張したいようだ。

ただし著者が挙げているのは、あくまでも発想のヒントとなるかもしれない事例や製品であり、すでに大成功を収めたり、画期的だと評価されたものではない。

たとえば、カスタム車界で急激に拡大したジャンルである「痛車」(いたしゃ)。普通の人々が見ると痛々しいほどにオタク系の美少女キャラでデザインされた車だという。オタク系の文化が世界に広がっている流れの中で、従来のカスタムカーと違って、メジャーに近づく、少なくともマイノリティーに終わらない可能性を秘めているかもしれない。

もう一つ例を示すと、おもちゃとしての遊び感覚で工夫された「ツンデレ」テレビ。チャンネルや音量操作に女の子の声で対応するが、ふつうはツンツンしているのに、ある条件下になるとデレデレといちゃつくという声の態度の変化を楽しめる。ツンデレは、オタク用語から一般に浸透しつつある言葉だという。

こんな例だけ見ていると、これがほんとうに「メイド・イン・ジャパン」の未来を開くアイディアになるの(?)という感じだが、あくまでも、こういう発想の中に新しい商品を開発していくためのヒントが隠されているということである。私も、こういう流れの中で商品を開発していこうとする発想は、これからますます重要になっていうような気がする。

2011年1月8日

著者によれば、日本のマンガ・アニメの特徴は、集団的英雄像と善悪を相対化する視点だという。現実は、たったひとりの英雄が大衆の無気力や妨害をはねのけて巨悪と対決するおとぎ話ではない。また戦争状態にある集団同士は、一方が完全に正義を体現し、他方は完全に悪を体現するなどということはありえない。そのような相対的な現実を日本のアニメが語り始めた。

日本のアニメ・マンガは、人類全体にとっての優れた無形の財産を形成しつつある。それらが世界に発するメッセージは、「善と悪」、「敵と味方」といった二元論に振りまわされない物語展開の中に隠されているという。その素晴らしい実例が、『EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]』だという。そのラストシーンで草薙素子は、悪役人形つかいの提案を受け入れて、一体化していく。

日本のマンガには、たとえば『らんま1/2 (少年サンデーコミックス)』など、男性と女性の役割がコロコロと入れ替わることをネタにした名作が多い。この役割転換の発想は、戦争での敵・味方を相対化する視点につながるという。

この自由自在の視点の転換が、知識人主導型の社会(アメリカなど)では危険思想に感じられ、脅威になっているのではないかという。そういえば、アメリカン・ヒーローが一方的に正義を振りかざすのは、アメリカの国際社会での態度に似ているかもしれない。同じことは最近の中国にも当てはまるだろう。

2010年12月23日

読書状況 読み終わった [2010年12月23日]
カテゴリ ◎最新の書評
読書状況 読み終わった
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これまでに読んだ退行催眠による過去生の探求や、いわゆる「前世療法」を扱った本に比べると、実証的な姿勢がある点がよい。クライエントが語った過去生の記憶を実証的に確認した結果をある程度語っているのだ。ただ全訳ではないので、もっと実証的な部分は翻訳では省略されているかも知れない。少なくとも、いくつか挙げられた事例から判断して、実証的に確認できる事例を、著者がかなり持ってい るようだということは分かる。

一例を挙げよう。アメリカ人である女性が、アレックス・ヘンドリーという男性として19世紀後半のスコットランドに暮らしていた人生を語った。アレックスは、肉体的なハンディキャップを克服し、エディンバラ大学で医学を修めた。その生き生きとした大学生活の描写は、証明可能な二つの事実を含んでい た。

ひとつは家族がハンプシャーに住んでいたこと。もうひとつは、彼が1878年に医学校を卒業したことだった。こうした100年以上前のスコットランドの一無名人の情報を、クライエントが入手できたはずはないが、勉強のたいへんさや、家族からのプレッシャーを語る彼女の描写は真実味が溢れていたという。

著者はその後、エディンバラ大学に問い合わせて返事を受け取った。「アレクサンダー・ヘンドリー。スコットランド、バンプシャー郡カラン出身。1878年、医学士過程及び修士課程終了。」

この本でも改めて確認したのは、クライエントが過去生で死ぬ場面を語る描写が、臨死体験者の報告とほとんど同じだということだ。これは驚嘆に値する。体外離脱、上から自分の肉体を見る、愛を発散する光に包まれる等々。これも具体例を示そう。

「自分の遺体が見えます。自分の体を、見下ろしているんです。暴徒たちは、その遺体に覆いかぶさるように立っています。ひとりの男が、足で私の遺体をひっくり返して、何かぶつぶつほかの人たちに話しかけています。遺体を運び去ろうとしているんです。もう、自分の肉体にとどまりたいとは思いません。自由になったんです。そして光が‥‥‥とっても感じのいい光です。安らかな気持ちにさせてくれ ます‥‥‥恐怖も苦痛も消えました。私は自由になったんです。」

もちろんこれは退行催眠で過去生での死とそれに続く場面を思い出しているのだが、臨死体験についてある程度知る人なら誰でも、両者の驚くほどの類似性を認めるだろう。

著者は言う、「退行したクライアントがどんな宗教を信じていようと、過去生での死の体験は、みな驚くほどそっくりである。死とは移行の瞬間であり、平和と美と自由の瞬間である。着古してくたびれた衣装を脱ぎ捨てて、新しくもあり、またふるさとのように馴染みある世界へと、踏み込んでいく瞬間なのである。」

多くのクライアントが繰り返し語る死の特徴は、「身の軽さ、浮遊感、自由さ」だというが、これはまた、多くの臨死体験者が繰り返し語る特徴でもあるのだ。

臨死体験の報告と一つだけ相違する部分があるとすれば、退行催眠ではトンネル体験を語るものは、ほとんどいないらしいということだ。

それにしてもきわめて高い共通性があるのは確かで、今後しっかりとした統計的な比較研究をする必要があると思う。これほど臨死体験が知れ渡っている以上、ほとんどのクライエントはその内容を知っているだろうから、たんに共通性が高いだけでは、あまり意味をなさない。細部に渡る比較研究のなかで、この共通性が積極的な主張につながるかどうかを検討しなければならない。

クライエントが語る「中間生」、時空のない世界の描写にも、臨死体験の報告と高い共通性がある。「宇宙を満たす感触、すべての生物を包み込む感触、見えるものも見えないものも含めたすべてのものの真髄に触れる感触、あらゆる知識に同化して文化の制限を超えた真実に目...

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2010年12月7日

マンガ・アニメなど日本のポップカルチャーを特徴づける要素のひとつに「かわいい」があるのは間違いない。そして近年、世界に広まった日本語のなかでも、いちばんポピュラーなのが「かわいい」ではないだろうか。しかし、世界でこれほど人気の「かわいい」カルチャーを正面から論じた本は意外と少ないようだ。その意味でもこの本は貴重だ。著者は、比較文学などを専攻し、映画史などを教える大学教授だという。

著者によると、日本語以外のいずれの言語でも「かわいい」に相当する単語にはいくぶんか軽蔑的で否定的な含みがあるという。だから日本以外では、美しいと呼ばれるとうれしいが「かわいい」と言われると子供扱いされたような不満を抱くという。

逆に日本では女性が男性に「美しい」と言われるとふき出してしまうだろうが、「君はかわいい」と言われれば、それを相手の男性の真意と受け止めるだろう。「美しい」という言葉は日常の日本語の中でそれほどこなれていないのだ。

この指摘を読んで感じたのだが、元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いのではないか。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方はかなり不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。

そんな「かわいい」が世界に広まるとき、客観的な真理よりもその場の状況を大切にする日本的な感性も同時に広まっているような気がする。「かわいい」人とは、成熟した美しさの持ち主ではなく、どちらかといえば子供っぽく、隙だらけで、たとえ頭の回転はよくなくとも、素直で無垢な存在なのだという。これはそのまま日本人が大切にしてきた価値観ではないか。まさにそうした日本人の価値観や感性が「かわいい」カルチャーを通して世界にひろまっているのではないか。

「かわいい」文化の意味を深く考えるきっかけとなる本であった。

2010年12月7日

アメリカの人類学者による、「クール・ジャパン現象」をめぐる本格的でアカデミックな研究書である。原題は、Millennial Monsters(千世紀の怪物たち)、先月末(8月30日)に出版されたばかりだ。日本的なものが、現在どのようにグローバルに普及しているのか、とくに米国市場で子供たちをどのように日本の遊びの美学に適応させたかを、様々な角度から詳細に分析する。この本が取り上げるのは、世界的なブームを引き起こした次の四つである。つまり、パワーレンジャー、セーラームーン、たまごっち、そしてポケモン。

個々のキャラクターグッズ等についての考察については、追って触れることにして、今回は、一読しての全体的な印象に触れておきたい。

まず感じるのは、きわめてアカデミックな研究で、ポストモダンを代表する哲学者にもさかんに言及しながら考察を深める。しかもアメリカの研究者としてはめずらしく、関連する日本語の文献にも相当にあたっいる。さらに、日本のキャラクターグッズを可能な限り多面的に考察しようとする意図的な方法論に貫かれている。コマーシャリズムに乗って投入される商品として、文化パワーの象徴として、楽しく親しみを生むファンタジーとして、ポスト産業化時代の不安をかかえた若者文化の一症状として等々。自分自身も、子供たちに「指導」されながらゲームに夢中になり、多くの子供や関係する人々にインタビューを行うなど、フィールドワークもしっかり行なっているようだ。

ただ、クールジャパン現象を日本の文化的伝統と関連づける考察はほとんどなされておらず、日本のアニミズム的な心性とポップカルチャーを結びつけて論じるところも、きわめて表面的で、むしろ誤解を生みやすい表現になっているところが気になった。

最近の「クール・ジャパン現象」について、日本人の本などではかなりの報告があるし、インターネットに接していれば、ある程度の実感はつかめる。しかし、米国の研究者が、アメリカの内側から、信頼できる研究を行なった成果として確認できるのは貴重だ。

「米国市場で売られている日本製品にファンがつくことなどは別段目新しいことではない。『ゴズィラ』や『スピード・レーサー』を見て育ち、中年になっても日本の作品の熱烈なファンだという人たちを私は大勢知っている。それが今では、日本のポップカルチャー製品は米国市場を席巻しているだけではなく、米国の国民的想像力や想像世界にも大きな影響を与えている。」

そのように大きな影響力を持ち始めた日本のポップカルチャーの秘密を、およそ10年のフィールドワークと、アカデミックな方法論に基づいて、徹底的に探ろうとした本書は、「クール・ジャパン現象」が一時的、表面的なものではなく、現代の世界文化にとってきわめて重大な影響力をもった出来事なのだとうことを認識する上でも、一読の価値があると思う。

2010年9月21日

日下公人、呉善花の本は、それぞれかなり読んできたし、そのいくつかはこれまでにも取り上げてきた。ところがなぜか、二人の対談であるこの本だけは見過ごしていたことに気づき、さっそく読んでみた。

日下も触れているように、この対談は、呉の日本論を中心に展開し、日下がそれに対し、「できるだけ乾いた論評」で応じるという形になっている。「乾いた論評」とは、呉の日本論に対し、「そうだ、そうだ」と喜んで応じるのではなく、できるだけ客観的に冷静に対応し、ときにはすこし違った角度から応ずるというようなことだろう。日下のそうした配慮が、この対談に深みを与えていると思う。

たとえば、呉が、島国日本の狭隘な地形から、対立よりも融合に向かった日本人の特徴を説明する。山の人が降りていって海草をとったり、海岸の人が山で木をとったり、海の人が山の神を祭ったりなど、融和していくほかない自然環境があった。これに対して大陸では、山の人々、平野の人々、沿岸の人々の生活がまったく別で、融合よりも対立しながら生きてきた。これに対して日下は、そうした自然環境の影響を認める一方、たとえば中国の客家(はっか)は、団結し、円形の城のような集合住宅で暮らし、ながく独立を守り、日本のように集団のメンバーが固定していて、相互信頼が厚い例を挙げる。つまり、自然環境だけではなく、独立を守ろうとする意志の側面も無視できないと指摘るすのだ。

とはいっても二人とも、大陸のように異民族同士の紛争の中で展開した歴史が日本になかったことを、日本文化のユニークさが形成される大きな理由と考えていることは確かなようだ。大陸が異質な共同体同士の敵対的な関係を軸に歴史が展開したのに対し、日本では農耕民と非農耕民が互いを必要とする相補関係をなし、その歴史が相互信頼社会を育んだといえよう。

闘争の歴史の中で生きてきた大陸の人々は、「力の信奉者」とならざるを得ない。人間関係をどちらが強いか、上か下かで判断し、可能なら支配しよう、略奪しようと考えることが習性になってしまう。そこから、信頼を前提とした人間関係は育ちにくい。戦争が絶えないと、それが社会の常識になってしまうのは当然かも知れない。しかし、現代、まがりなりにも平和に暮らせる人々が多くなると、平和を前提とした文化である日本文化の良さが、広く受け入れられるようになる。そこに、日本のマンガ・アニメが世界に普及する理由のひとつがあるかも知れない。

2010年9月18日

著者は、気鋭の文化人類学者。この著者の本を読むのは初めてだ。他に『性・ 死・快楽の起源―進化心理学からみた「私」』(福村出版)があるが未読。

実に刺激の多い本だった。シャーマニズム、葬送儀礼、臨死体験、セックス、瞑想、サイケデリックス‥‥と多岐にわたる話題を扱いながら、地球上の多様な文化における意識の在りようを、示唆に富む新鮮な視点から描く。文化人類学者としての豊富なフィールドワークや知見を縦横に駆使して、変性意識状態と政治権力との 関係が文化によっていかに変化に富むかを見事に描き出す。

狩猟採集社会では、シャーマン的な人物が政治的なリーダーであることも多いが、その権力はたかが知れており、しかも世襲しない。一方、定住的な農耕社会では、祭司宗教が中央集権的な権力と結びつき、超自然的な世界との交流権を独占するが、それは儀式化し形式化する。そして祭司が権力を持つ社会ではシャーマン的な人物はしばしば異端として弾圧される。

全人類が狩猟採集民だった時代には、サイケデリックスの使用と結びついた脱魂型シャーマニズムが地球上に広がっていた。農耕牧畜の開始以降は、徐々に酒の使用と結びついた祭司・霊媒(憑霊型シャーマン)複合型の宗教文化にとって代わられたという。この段階で、宗教が組織化され団体になると、現世的な権力と相性がよくなり、それと結びつく。そして世界の神秘に直接触れようとするシャーマン的な神秘主義者を弾圧する。シャーマニズムは反体制的なサブカルチャーとなり、現世的な権力と結びついた司祭の立場を危うくするからだ。

これは、農耕牧畜以降の多くの社会が、毒性や依存性のほとんどないサイケディックスを危険な薬物として禁止するのに対応している。しかし実は、サイケディックスがわれわれを文化的催眠状態から「覚醒」させる作用を持っており、「自我」 や「国家」という、本当は存在しないものを存在すると思っている意識状態から、われわれを覚醒させる。だから国家によって禁止されるのだという。

中南米の先住民社会は文明を発展させるとともにむしろサイケデリックスの使用を強化し、脱魂型シャーマニズムを発展させたらしい。著者は、アマゾン先住民の社会でサイケデリックス植物のひとつアヤワスカを用いた儀式に参加し、その変性意識状態を体験している。現存する先住民文化や、この大陸の失われた文明の遺跡などから、サイケデリックな意識状態と共存しうる文明のあり方を考えることが重要になると示唆する。サイケデリィックスを瞑想とならぶ意識変容の技法として捉えて、近代的な思考様式に対する新たな可能性を見ているのだ。

著者はまた、ウパニシャッド哲学に基づいて人間のとりうる意識状態をつぎの4種類に分類している。

0 生命活動が停止している状態‥‥「死」
1 生命活動はあるが知覚のない状態‥‥「昏睡」
2 知覚だけがある状態‥‥「夢のない眠り」
3 知覚に気づいている状態‥‥「自我意識」
4 「知覚に気づいている状態」に気づいている状態‥‥「観察する意識」  

このうち「第四の意識状態」は、悟りとか覚醒とか言われる状態を指すが、これを踏まえて次のようにいう。「資本主義と科学技術の爛熟した時代の中で、『第四の意識状態』がふたたび宗教という装置の検閲を経ないなまの形で経験される状況が生まれてきている。‥‥ 人類史上、意識の神秘それ自体について語れるようになった初めての時代だといってよい」という指摘は、私がニューエイジ対話でも打ち出していた考えであり、深く共感する。

臨死体験・気功・瞑想>ニューエイジをめぐる対話>(7)心霊性運動の歴史 的意味

パーリ経典・中部に収められている「呼吸による気づきの教え」の解説書。精神分析や心理学、量子力学などの知識とも比較しながら解説することで、ブッダの教えの可能性を現代に甦らせたいとの意図があるという。随所に、心理療法的な視点も織り交ぜながら解説る。

テーラヴァーダ仏教やヴィパッサナー瞑想への入門書が少ないなか、この本は、テーラヴァーダ仏教の初歩的な解説にもなっていて、参考になる。ただ、随所に精神分析や心理療法の知見を参照しながらの論述は、どこまでがテーラヴァーダ仏教の伝統的な教えで、どこからが著者の見解かが、判断しにくいところもあった。テーラヴァーダ仏教やヴィパッサナー瞑想の正統的な考え方を学びたいのなら、不満が残るかもしれない。

もちろん参考になったところも多い。とくに印象深かったところをあげると、三昧や禅定が生じて、光が見えたり、超能力が得られたりしたときの危険について触れたところである。そのような神秘体験を悟りだと思い込んで、その背後にある特別な存在になりたいという期待を自覚できないのである。

ブッダは、三昧を出て、集中した心の力を観察や洞察に向けると、現象をありのままに見る智慧が生まれることに注目したという。この如実智見によって、神秘体験や超能力への執着や欲望を自覚化できる。その背後にある劣等感などに気づくことができる。三昧から如実智見というヴィパッサナーの洞察智を経て解脱に至るのだという。

三昧から如実智見に進まず、自らの超能力や神秘体験にとらわれて、教祖様になってしまう一般宗教が多い。執着心をありのままに見つめるだたしい智慧が働かないからだ。

2008年10月26日

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