この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。 ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これをユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。
もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出すことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にでてくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。(かつての小論は、以下を参照のこと→<a href="http://www.geocities.jp/noboish/ronbun/kisida.html">真の「自己」の幸福論</a>)
しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをともなうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。
一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だったために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。
一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。
ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。
岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服されたヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。
岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気であるという。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるということである。だとす れば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいという。
私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 このあたりの批判は、先にあげた拙論のほうでじっくりやっている。
- 感想投稿日 : 2009年1月1日
- 読了日 : 2009年1月1日
- 本棚登録日 : 2009年1月1日
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