禅画を読む

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レビュー : 5
著者 :
ぽんきちさん 宗教   読み終わった 

<「そもさん」「せっぱ」を図解する>

禅問答と言えば、思い浮かぶのは、一方の禅僧が何やら難しげな問題を出し、もう一方の禅僧が答える形だ。あるときは、答える方の禅僧の言葉に、問題を出した方がうへぇぇぇと恐れ入る。あるときは、問題が難しすぎて、答える側がむぐぐぐと詰まる。けれど、傍で聞いていても互いの禅僧が一体何を言っているのか、往々にしてさっぱりわからない。そんなわけで、よくわからないものの喩えにもなっている。落語に禅問答を揶揄した「蒟蒻問答」という噺もあるくらいである。

ひとことの「そもさん」「せっぱ」は、昔のアニメ「一休さん」が頓智を働かす際のお決まりになっていたが、漢字では「作麼生」「説破」と書く。「さあどうだ!?」「何の、答えてくれるわ!」といったような意味になる。
アニメの場合は、子供の一休さんが鮮やかな頓智で大人たちを言い負かす痛快さがあったが、禅の問題(公案と称する)はそうそうすかっとすっきりはしない。
比較的よく知られているものに、丸くすべすべした瓢箪で、泥の中にいるぬめぬめした鯰が捕れるか、というものがある。さまざまな僧がさまざまに答えてきたお題だが、どれが正しいとも正しくないとも、なかなか言い切れないものがある。

本書は、こうした禅の公案を中心に、歴史上有名な高僧が悟った瞬間(禅機と称する)、禅僧たちの奇矯な行動などを絵にした「禅画」を紹介する。
元になるエピソードは、「祖師集」「景徳伝灯録」「五灯会元」「無門関」「碧巌録」などの禅書から取られている。
通常は何かを図解したらわかりやすくなるはずだが、よくわからないものを絵にしてもやっぱりよくわからない。そもそも絵にするのは大変だったろうというお題も多い。
2人の人物が対峙している外見を描くことは出来ても、2人が話している内容を絵にすることは難しい。
奇矯の僧の行動を描くことは出来ても、その僧がどんな境地に達し、何を感じていたのかを絵にするのは至難の業だ。
とはいえ、真の意味がわからなくても、なるほど、昔から言い伝えられてきた僧のエピソードにはこんなものがあるのだな、ということはわかる。その点、絵を見ながら、背後の物語を知るというのも、禅に親しむ1つの方法ではあるのかもしれない。「禅画を読む」とは言い得て妙なタイトルである。

禅というのは、何となく、個々の僧がそれぞれに厳しい修行をしているイメージがあるのだが、意外に、師・弟子のつながりが重要であるようでもある。師匠が何かをしたのを見て、たちまち大悟する(悟りを拓く)僧がいる。他の人が見てもわけがわからない行動であっても、高僧が見れば「うむ、あやつはわかっておる。あやつこそわしの後継者」ということもある。
僧と言えば高潔な人物なのかと思えば、汚らしかったり、人を見るなり棒で打ち据えたり、仏像を焼いてしまったり、猫を斬り殺してしまったり、と、結構乱暴な人たちもいる。うわ、むちゃくちゃやんか、と思いつつ、どこか禅に惹かれるのは、背後に茫洋と広大無辺な宇宙が見えるような気がするからかもしれない。

先ほど挙げた瓢箪と鯰の話を書いた禅画としては、国宝「瓢鯰図」(退蔵院所蔵)が有名である。下半分が、鯰を瓢箪で捕まえようとする大男の絵、上半分に31人の禅僧がこの公案に対する解答を書いている。「捕まえられる」、「捕まえられない」、「捕まえたら捕まえたで大変だ」、「男が悪戦苦闘しているが見物人は笑っている」、とさまざまだが、突出してこれが正解である、というものもないようである。あれこれと議論しあっている禅僧たちが何だか楽しそうにも思えてきてしまう。

うーん、わけわからんな、と思いつつ、心のどこかの部分がにゅーと広がっていくようでもある。
茶道を習い始めて数年になるが、茶道は「茶禅一味」とも言うように、禅との関わりが深く、茶席に禅語や禅画の軸がかざられるのもお決まりである。本書も裏千家系列の出版社から出たもの。
禅画を目にすることがあったら、奥の物語に思いを馳せてみたい。

レビュー投稿日
2016年5月6日
読了日
2011年3月2日
本棚登録日
2011年3月2日
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