プラハの墓地 (海外文学セレクション)

  • 東京創元社 (2016年2月21日発売)
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感想 : 49

先頃亡くなったウンベルト・エーコの遺作である。
テーマは、ナチスのホロコーストの根拠とされたという、世紀の偽書「シオン賢者の議定書」。
稀代の碩学は、この議定書や他の歴史的な事件の背後に、一人の偽文書作成者、シモーネ・シモニーニを配する。彼が狂言回しとなり、数々の「陰謀」が如何に計画され、実行されてきたか、その裏側を明かしていく。

語り手はシモニーニだけでなく、ダッラ・ピッコラと称する神父がおり、さらに神の視点のような「解説者」が加わる。シモニーニは記憶に問題を抱える。自らが誰で何をしてきたのか確かめるため、回想録を記し始める。彼が書き物をしていないとき、ピッコラ神父が彼のノートに書き込む。だが神父自身も自分が何者なのか、よく覚えてはいない。そんな状態の2人の書き物の合間に、「解説者」がときどき現れて解説する。三者の傍白はそれぞれ違う字体で記される。
語り手が複数で、そして時に記憶が曖昧であるという構成は、物語に不安感と曖昧さをもたらす。陰謀とはそもそも、白日の下に晒されたりはしないものだ。テーマと相まって靄の中を行くように、読者も歴史の裏舞台を手探りで進んでいくことになる。

若き日のシモニーニは、身寄りを亡くし、悪徳公証人の元で働くことになる。ここで偽書作成能力を身につけたシモニーニは、その腕を活かして歴史的事件に荷担していく。
炭焼き党、イエズス会、フリーメーソン、ロシア情報部、黒ミサ教団。さまざまな団体と関わりを持ちつつ、あちらこちらで人を裏切りながら、報酬を得て、美食を楽しむシモニーニ。
イタリア統一、パリ・コミューン、ドレフュス事件。シモニーニは歴史を渡る。そしてクライマックスとなる「シオン賢者の議定書」偽造。
シモニーニは、幼少時、ユダヤ人を嫌う祖父から、ユダヤ人が如何に忌避すべき人種であるかをたたき込まれていた。彼の文才は、ユダヤ人に関する俗説から、人々がいかにも本当らしいと思えるようなユダヤ人像を造り出す。プラハの墓地に葬られたユダヤ人賢者が甦り、世界征服の議定を行うという形で文書はできあがる。

シモニーニの回想録が進むにつれ、彼がなぜ記憶を失ったか、そしてピッコラ神父が何者かが朧気にわかっていく。このあたりの謎解きはミステリの味わいも感じさせる。
だが、物語を覆う霧は完全には晴れない。物語の終盤で、足を洗って隠居生活に入るかに思われたシモニーニは、1つの任務を命じられる。彼はふらふらと成すべきことを成しに向かう。その先は明るいようには見えない。

シモーネ・シモニーニなる人物は、もちろん、エーコが生み出した架空の人物である。
だが、その他の主要人物はほぼ実在の人物だというから恐れ入る(シモニーニの祖父さえそうだというのだ!)。エーコは複雑な歴史の糸を巧みにほどき、どの時点でどの場所にシモニーニがいることが適当だったかを割り出している。
秘密結社の内情、美食家を唸らせるメニューの数々、パリの下町の様子、恐るべき黒ミサの乱痴気騒ぎ等、細部の描写もさすがは博覧強記の人といったところか。
しかし、全体として印象に残るのは、世論の熱狂の根拠のなさ、だろうか。
世には多くの陰謀が確かにあるのかもしれない。だが、どれが成功し、どれが成功しないかは紙一重だ。あるときはしがない偽文書作りが成功を収めるかもしれないが、一歩間違って彼が命を落としていれば、サイコロのまったく別の目が出たかもしれない。成功したものが正しいとは限らないし、成功しなかったものがまったくの悪だったかと言えばそれはわからない。
いったいに、歴史のうねりがどちらに向くかは実は些細なことが決めているのかもしれない。
私たちが今「正しい」と信じている通説は本当か? 100年経ったら、そんなばかげたことを信じていたのかと後世の人々が呆れるようなことなのかもしれない。
あるいは、誰かが信じさせようとしていることを、ころりと騙されて信じてしまうことがあるのかもしれない。そんなことが起きえないと誰が言えようか。
霞の中で、ラビリンスを行く心許なさを残して、物語は閉じる。
私たちはシモニーニとどれほど違うのだろうか。


*「薔薇の名前」は何とか読み通したけど、「フーコーの振り子」は挫折したっけなぁ・・・(==)、とつい遠い目をしてしまいました。エーコ先生、長いっす・・・。でも、完全に読み解けたとは思えないですが、なかなかスリリングな読書体験でした。合掌。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: フィクション
感想投稿日 : 2016年7月9日
読了日 : 2016年7月9日
本棚登録日 : 2016年7月9日

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